EP 15
開かれた深淵と、黒い万年筆
健太が事務所を後にし、静寂が戻った応接室。
リベラは冷めた紅茶のカップを片付けようと、ふう、と小さく息を吐いた。
その時である。
マホガニーのデスクの上に置かれていた最新型のスマートフォンが、重々しいバイブレーションの音を立てた。
画面に表示された文字は、ただ一言。
『若林 幸隆』。
現在の日本における政治の最高権力者の一人、与党幹事長その人である。
「……はい、桜田です」
リベラが電話に出ると、スピーカーの向こうから、極上の葉巻が燃える微かな音と、男の深くしゃがれた笑い声が聞こえてきた。
――キィン。
澄み切った、美しい金属音。
若林が愛用しているフランス製の高級ライター、S.T.デュポンの開閉音だ。この音が鳴る時、永田町の狸は決まって「勝負」の盤面を動かそうとしている。
『よう、リベラ。相変わらず、派手な大掃除をやっとるみたいじゃな』
「耳が早いのね、若林先生。ただの悪質な労働法違反と横領の片付けよ。うちの庭に落ちていたゴミを、適正に処理しただけですわ」
リベラはあえて標準語の「令嬢弁護士」のトーンで応じた。
しかし、若林の笑い声はさらに深くなる。
『謙遜するな。郷田の会社は、完全に息の根が止まった。検察も特捜部が動く手筈になっとる。お前さんの手際の見事さには、霞が関の連中も舌を巻いとるよ。……だがな』
ふっ、と。
電話越しの若林の空気が、一瞬にして「勝負師」のそれへと変貌した。
『リベラ。お前が潰したあの会社……ただのブラック企業じゃない』
「……どういう意味です?」
リベラが眉をひそめる。
足元で丸まっていたアモンが、耳をピンと立て、スマートフォンのスピーカーに向けて低く喉を鳴らした。
『……酷く鉄臭い、血と欲望の匂いがするぞ。この電話の向こうにいる老いぼれは、ただの人間ではないな』
アモンの警戒をよそに、若林は淡々と、しかし決定的な「爆弾」を投下した。
『郷田がダミー会社に送金していた5000万。そして、奴が使っていた世論操作の裏業者。……その資金の流れを洗わせたら、思わぬ巨大な壁にぶち当たってな。背後に**『赤山天人』**の名前が出とるぞ』
「――っ!」
その名前を聞いた瞬間、リベラの纏う空気が劇的に変わった。
彼女は無言のまま、懐から黄金の煙管を取り出し、カチリと音を立ててデスクに置いた。
赤山天人。
政界、官僚、そして財界の暗部で、決して口に出してはならないとされる「タブー」の領域に君臨する怪物。
郷田社長のような小悪党など、その巨大なシステムの中では、まさに捨て駒の「ゴミ箱」の一つに過ぎなかったのだ。
内調の狗飼がわざわざ顔を見せ、「世論は法廷より汚い」と忠告を残していった理由が、今、完全に線として繋がった。
『どうやら、お前さんは知らず知らずのうちに、虎の尾を踏んづけたらしい。相手は法廷のルールなんぞ通用せん、本物のバケモノだ』
若林はそう言いながら、楽しそうに喉を鳴らした。
『どうする、リベラ? 怖気付いたなら、私が手を回して『防波堤』を作ってやってもいい。……何時でも、お前のために議席の席は空けとるからな』
師匠からの、試すような誘い水。
だが、リベラは金煙管を指先でなぞりながら、ふっと不敵で、最高に好戦的な笑みを浮かべた。
「お気遣いなく、先生。防波堤に隠れるような淑女じゃないことくらい、ご存知でしょう?」
リベラは立ち上がり、窓の外、雨上がりの銀座の街を見下ろした。
「どんなバケモノだろうと、私のシマで弱者を食い物にする輩は、等しく法廷に引きずり出して丸裸にして差し上げますわ。……ええ、面白くなってきやがった」
電話の向こうで、若林が「ハッハッハ!」と豪快に笑う声が響き、通話は切れた。
場面は変わり、永田町・国会議事堂裏の豪奢な執務室。
若林幸隆は、紫煙を燻らせながら、革張りの椅子に深く腰を沈めていた。
彼の太く力強い指先には、一本の『黒い万年筆』が握られている。
「……さて。あのじゃじゃ馬娘がどこまで食い下がるか、見物じゃのう」
若林は机上に広げられた、一部が黒塗りにされた極秘資料に、その黒い万年筆でゆっくりとサインを書き入れた。インクの黒が、紙の上の「闇」をさらに深く染め上げていく。
『赤山天人』。
その名が意味する巨大な陰謀と、国家の中枢を巻き込む壮絶な権力闘争。
小さな法律事務所から始まった一つの冤罪事件は、今、日本の根幹を揺るがす巨大な政官財ミステリーへの入り口を開け放った。
「忙しくなるわよ、アモン。……龍魔呂にも、ナイフを研いでおくように伝えなさい」
銀座の裏通り。
金煙管を吹かす修羅の令嬢弁護士と、真実を嗅ぎ分ける天才犬の、本当の戦いが幕を開ける。




