EP 14
甘くないケーキと、真の救済
無罪判決から数日後。
桜田法律事務所には、事件の最中とは打って変わって、穏やかで甘い香りが満ちていた。
『……フン。なかなか悪くない肉だ。だが、もう少し脂身が少なくてもいいな』
応接室のペルシャ絨毯の上で、アモンが両前足で器用に極上の牛ヒレジャーキーを押さえ込み、満足そうに齧っている。
「文句を言わないの。それは銀座の老舗精肉店で特別に作らせたんだから」
リベラは呆れたようにアモンを一瞥すると、向かいのソファに座る健太の前に、可愛らしい皿をコトリと置いた。
「さあ、召し上がれ。休日に息子の憂と一緒に焼いた、お手製のパウンドケーキよ」
「あ、ありがとうございます……!」
健太は恐縮しながらフォークを手にした。
パウンドケーキは、ほんのりと紅茶の葉が練り込まれており、上品なバターの香りが食欲をそそる。一口食べると、優しい甘さが口いっぱいに広がり、健太の顔が自然とほころんだ。
「美味しいです……! なんだか、すごくホッとします」
「よかったわ。憂も『お兄ちゃん、たくさん食べてくれるといいね』って言っていたから」
リベラは母としての柔らかな微笑みを浮かべ、自分も紅茶に口をつけた。
健太の顔色はすっかり良くなり、目の下にあったドス黒い隈も消えかけている。あのブラック企業での過酷な労働と、理不尽な冤罪のストレスから解放された証拠だった。
「リベラ先生、アモン。本当に……何から何までありがとうございました」
健太はケーキを食べ終えると、深く頭を下げた。
「郷田社長への損害賠償と未払い残業代の請求、確定したんですよね。俺なんかが一生かけても稼げないような額で……なんだか、まだ現実味がありません」
「当然の権利よ。あの男があなたから奪った時間と尊厳に対する、正当な値札に過ぎないわ」
リベラはティーカップを置き、静かに健太を見つめた。
「それで? 高橋さん。あなた、これからどうするつもり?」
その問いに、健太は少し居住まいを正した。
「実は……そのことで、先生にお願いがあるんです」
健太は真剣な眼差しでリベラを見た。
「俺を、桜田財閥の企業で雇ってもらえませんか。あるいは、この事務所の雑用係でもいいです。俺、先生やアモンのために働きたいんです。拾ってもらったこの命、あなたたちのために使いたい」
命の恩人への、健太なりの精一杯の誠意だった。
だが。
「……不採用よ」
リベラの口から出たのは、冷たく、そして即座の却下だった。
「えっ……」
「勘違いしないでちょうだい、高橋さん」
リベラは腕を組み、スッと目を細めた。その表情は、令嬢弁護士ではなく、一人の「厳格な母」のものだった。
「あなたは確かに、郷田の悪意から解放されたわ。でも、今度は私という強者に依存しようとしている。それでは、またいつか別の誰かの『都合のいいゴミ箱』に戻るだけよ」
ぐさりと、健太の胸に言葉が刺さる。
「私の力であなたを財閥の優良企業に押し込むのは簡単よ。でも、そんなコネで入った温室で、あなたは自分の足で立てるようになるかしら? ……私はあなたを、私のペットにするために助けたんじゃないわ」
健太はハッとして、自分の手を見た。
そうだ。自分はまた、強くて頼りになる人間の後ろに隠れて、波風を立てずに生きようとしていたのだ。それでは、何も成長していない。
『……フン。耳の痛い言葉だろうが、これがこの女の愛し方だ。よく聞くんだな、小僧』
アモンがジャーキーを噛む手を止め、黄金の瞳で健太を見据える。
リベラはデスクの引き出しを開け、一つの分厚い封筒を取り出し、健太の前に置いた。
「これを見なさい」
「これは……?」
「心療内科の紹介状と、優良なITエンジニア向けの『職業訓練プログラム』のパンフレットよ」
リベラは健太の目を真っ直ぐに見つめた。
「郷田からふんだくった賠償金があるのだから、当面の生活費は心配ないわね。まずは、過酷な労働で傷ついた心と体を、専門医のもとで完全に治しなさい。そして、訓練施設で最新の技術を学び直し、自分の腕を磨くの」
それは、ただ金を渡して突き放すのではない。
健太が再び社会という荒波の中で、誰にも利用されず、自分の身を自分で守れるようになるための、完璧な「自立のロードマップ」だった。
「本当の救済っていうのはね、安全な檻の中に閉じ込めることじゃない。もう一度、自分の足で歩き出すための『靴』を渡すことよ。……自分の力で就職口を勝ち取りなさい。あなたなら、絶対にできるわ」
その言葉には、健太という一人の人間に対する、絶対的な信頼が込められていた。
「リベラ、先生……っ」
健太の目から、またしても大粒の涙がこぼれ落ちた。
厳しくて、冷たくて、でも底知れぬほど温かい。この人は本当に、自分の人生を根底から救い上げてくれたのだ。
「……はいっ。俺、必ず治して、自分の足で立ちます。もう二度と、誰のゴミ箱にもなりません……!」
健太は封筒を両手でしっかりと握りしめ、深々と頭を下げた。
『……悪くない匂いだ。雨上がりの若草のような、清々しい匂いに変わったぞ』
アモンが満足そうに鼻を鳴らし、再びジャーキーに噛み付いた。
「泣き虫なのは相変わらずね」
リベラはフッと笑い、金煙管を指先で弄んだ。
「でも、それでいいわ。いつかあなたが一人前のエンジニアになったら、その時はうちの事務所のセキュリティシステムの構築を、適正な価格で『外注』してあげる」
「本当ですか!? 俺、死ぬ気で勉強します!!」
健太の顔に、この数週間で最も明るい、希望に満ちた笑顔が咲いた。
こうして、桜田法律事務所の最初の依頼人は、真の意味での「救済」を得て、新たな人生への一歩を踏み出した。
だが――。
健太が事務所を後にし、リベラが冷めた紅茶を淹れ直そうとした、まさにその時だった。
デスクの上に置かれていたリベラのスマートフォンが、低く震えた。
画面に表示された名前は、与党幹事長・若林幸隆。
平和な終幕の余韻を切り裂くように、本当の『闇』への扉が、今開かれようとしていた。




