EP 12
不可視の痕跡と、崩壊する城
「弁護人。その『メモ』が偽装工作である証拠とは、一体何ですか?」
裁判長が怪訝な顔で尋ねる。
西園寺検事も「ただの紙切れ一枚から、何が証明できるというんだ」と鼻で笑っている。
リベラは証拠品であるアカウントメモを掲げたまま、優雅に微笑んだ。
「このメモは、警察のずさんな指紋採取のあと、当事務所が正式な手続きを経て『民間鑑定機関』に成分分析を依頼しました。その結果、極めて興味深い『不可視の痕跡』が、紙の繊維の奥深くから検出されたのです」
リベラは手元のタブレットを操作し、法廷のモニターに鑑定結果のグラフを映し出した。
「ガスクロマトグラフィー質量分析。検出されたのは微量の『ニコチン』と『特注の香料』の成分です」
「……香料、だと?」西園寺が眉をひそめる。
「ええ。白檀をベースに、夜桜の香りを配合した特殊なブレンド。これは市販品ではありません。銀座にあるVIP専用の高級会員制クラブ『エリュシオン』が、最高ランクの客に出す『おしぼり』にのみ使用しているシグネチャー・フレグランスと完全に一致しました」
傍聴席で、郷田社長の顔からスッと血の気が引くのが見えた。
「さらに、ニコチン成分はキューバ産の最高級葉巻『コイーバ』のもの。……さて、検察官。事件があった深夜、クラブ『エリュシオン』のVIPルームで、コイーバを吹かしながら、特注のおしぼりで手を拭いていた人物は誰ですか?」
「なっ……!」
西園寺が慌てて手元の資料、すなわち郷田社長の『アリバイ証明書』であるクラブの領収書に目を落とす。
「そ、それは……郷田社長、ですが……」
「おかしな話ですね」
リベラはヒールを鳴らし、証言台の健太の横から、傍聴席の郷田へと冷たい視線を向けた。
「高橋健太のロッカーから出てきた決定的な証拠。それを最後に触ったのは、彼ではなく、事件当時『クラブにいて会社にはいなかったはず』の郷田社長ということになります」
法廷がざわめきに包まれた。
郷田の額から、滝のような冷や汗が流れ落ちる。
「い、異議あり! 推測にすぎません! 社長が事前にその紙に触れていた可能性や、被告人がそのクラブに行った可能性もある!」
西園寺の必死の反論を、リベラはふっと冷笑で切り捨てた。
「高橋健太のような末端の薄給社員が、入会金300万円のクラブ『エリュシオン』に入れるとでも? ……それに、推測などではありませんよ。これが『決定打』です」
リベラはモニターの表示を切り替えた。
映し出されたのは、粗い白黒の防犯カメラ映像。
「事件当夜の午前2時15分。クラブ『エリュシオン』の『裏口』を捉えた映像です」
そこに映っていたのは、帽子を目深に被り、マスクをした大柄な男が、周囲を警戒しながらタクシーに乗り込む姿だった。
「そして次が、午前2時30分。グロース・フロンティア社が入るビルの『地下駐車場』の防犯カメラ映像。先ほどと全く同じ服装の男が、警備員の目を盗んでビルに侵入しています。……手には、手袋をはめて」
「あ……ぁ……っ」
傍聴席の郷田から、情けない呻き声が漏れた。
「手袋をしていたのに、なぜ香水と葉巻の成分が紙に残ったのか? ……簡単なことです。クラブのVIPルームで、香水の染み込んだおしぼりで手を拭いた。その手で手袋をはめたため、手袋の内側に染み込んだ匂い成分が、紙をロッカーに押し込む際の圧力で転写されたのです」
犬の人間離れした嗅覚でピンポイントに異常を察知し、それを科学的鑑定によって法廷で通用する完璧な『物証』へと錬成する。
これこそが、彼ら「悪人専門法律事務所」の最強のコンボだった。
リベラは決定的な追い討ちをかけるため、最後の一枚の書類を突きつけた。
「裁判長。さらに弁護側は、グロース・フロンティア社経理部長・木下氏の『宣誓供述書』を提出します」
「き、木下だと!?」
郷田が思わず立ち上がり、法廷に響く声で叫んだ。
「はい。木下氏は、自身の隠蔽加担を深く反省し、すべてを自白しました。事件当夜、彼は郷田社長からの電話指示で、高橋健太に『急ぎのテストだ』と嘘をついてパスワードを使わせたこと。そして、5000万円の真の行き先が、郷田社長の個人的な投資の負債を埋めるためのペーパーカンパニーであることも、すべて!」
「嘘だ!! そいつは俺を陥れようとして……!」
「静粛に!! 傍聴人は着席しなさい!!」
裁判長の激しい怒声が飛び、郷田は糸の切れた操り人形のようにドサリと椅子に崩れ落ちた。
西園寺検事はもはや反論の言葉を失い、蒼白な顔で立ち尽くしていた。
完璧だと思われていた検察の起訴事実は、土台から完全にへし折られたのだ。
リベラは証言台で震える健太に、優しく、しかし力強い微笑みを向けた。
そして、法廷の全員に響き渡る声で、静かに、そして冷酷に宣言した。
「自分の欲望のために会社を食い物に草し、その罪を、逆らえない弱い社員になすりつける。さらにネットの世論操作で彼の社会的信用まで完全に殺そうとした」
リベラの瞳が、金色の修羅の炎を宿して郷田を射抜く。
「この卑劣極まりない『真の悪党』に、他人の人生を裁く資格などありません。……裁判長。被告人・高橋健太の無罪を、そして、郷田社長の横領および偽証教唆に関する『即時告発』を求めます」
それは、ただの無罪主張ではない。
「合法的な処刑」の完了を告げる、死刑宣告だった。




