EP 10
法廷の罠と、狙われた小さな罪
東京地方裁判所、第426号法廷。
重厚な木の扉が閉ざされたその空間には、独特の冷たく張り詰めた空気が漂っていた。
被告人席に座る健太は、リベラに言われた通りに新調したパリッとしたスーツを着ていたが、その両手は膝の上で小刻みに震えていた。
隣に座る桜田リベラは、対照的に酷く落ち着き払っている。完璧に仕立てられた黒のスーツに身を包み、背筋を伸ばして静かに前を見据えていた。(ちなみにアモンは「犬は法廷に入れない」という日本の法律により、事務所で極上ジャーキーを齧りながら待機中である)
「――以上が、被告人・高橋健太の起訴事実です」
検察官席に立つエリート検事、西園寺が、冷徹な声で響かせた。
銀縁メガネの奥の瞳は、健太を「社会のゴミ」と見下すような侮蔑の色に満ちている。
「被告人は、グロース・フロンティア社のシステムエンジニアという立場を悪用し、経理部長のIDを盗み出して同社の裏口座から5000万円を不正送金しました。さらに、自分のロッカーに送金先の口座メモを隠し持っていたという、動かぬ物証も存在します」
傍聴席がざわめく。
その最前列には、被害者であるはずの郷田社長が座っていた。彼はハンカチで目頭を押さえる『悲劇の経営者』を演じながら、その指の隙間から、健太に向かってねっとりとした嘲笑を向けていた。
(クソ……ッ! あんな奴が……!)
健太は奥歯を噛み締めた。
「では、被告人への尋問を行います。前へ」
西園寺検事に呼ばれ、健太は証言台の前に立った。
西園寺は手元のファイルをめくりながら、氷のような視線を健太に突き刺す。
「被告人。あなたは事前の取り調べで、『経理部長から指示されてIDを使った』『自分は横領などしていない、真面目に働いていた』と主張していますね?」
「……はい。俺は本当に、何も知りません。ただ命じられたテスト作業をしただけで……」
「真面目に働いていた、と?」
西園寺が、鼻でふっと笑った。
その瞬間、嫌な予感が健太の背筋を駆け抜けた。
「裁判長。ここに、グロース・フロンティア社から提出された、社内サーバーのアクセスログ記録があります」
西園寺が掲げた書類を見て、健太は息を呑んだ。
それは、第4話でリベラとアモンに見抜かれた、健太の「過去の小さな罪」の記録だった。
「今から約半年前。被告人は、誤って顧客データを消去するミスを犯しました。しかし彼は上司に報告せず、たまたま席を外していた先輩社員のロック解除されたPCを『無断で使用』し、バックアップデータをこっそり復元して自らのミスを隠蔽したのです!」
法廷内が、どよめきに包まれた。
「な、それは……っ!」
「事実ですか、被告人! 他人のPCを勝手に操作し、会社のセキュリティ規定を破って己の保身に走った! 違いますか!?」
西園寺の怒声が法廷に響き渡る。
健太は真っ青になり、震える声で弁解しようとした。
「ち、違います、あの時はただ、怒られるのが怖くて……っ! でも、会社のお金は一円も盗んでいません!!」
「横領したかどうかの話ではありません。あなたの『人間性』の話をしているのです!」
西園寺は裁判長に向き直り、勝ち誇ったように言い放った。
「他人の端末を無断で操作し、息をするように嘘をつき、己のミスを隠蔽する。これが被告人の本性です! このような『日常的にコンプライアンスを破る嘘つき』が、『今回だけは上司の命令に従っただけだ、自分は被害者だ』などと主張して、誰が信じるというのでしょうか!」
「あ……ぁ……」
健太の口から、絶望の吐息が漏れた。
傍聴席の郷田社長が、肩を震わせて笑いを堪えているのが見えた。
(……終わった)
西園寺の言う通りだ。
たった一度の、怒られたくないという保身からついた「小さな嘘」。それが今、健太の信用を完全に破壊する致命傷として突きつけられていた。
裁判官たちも、明らかに健太を「嘘つきの犯罪者」として疑う目を向けている。
この空間にいる全員が、自分を社会のゴミ箱だと思っている。やっぱり俺は、こういう風に都合よく消費されて終わる運命だったんだ――。
「――以上です。被告人の証言には、微塵の信用性もありません」
西園寺が完璧な論告を終え、席に戻る。
法廷の空気は、完全に検察側――いや、郷田社長の思い描いた通りのシナリオに支配されていた。
「では、弁護人。反対尋問を」
裁判長の声に、健太は力なくうつむいたまま、弁護人席を見た。
桜田リベラは、全く慌てていなかった。
それどころか、彼女の美しく整った唇は、最高に極上のスイーツを前にした時のように、艶やかに、そして残酷に弧を描いていた。
「ええ。喜んで」
ヒールを鳴らし、リベラがゆっくりと立ち上がる。
絶望に染まった法廷を、たった一言でひっくり返す「修羅の反撃」が、いよいよ始まろうとしていた。




