3話 やるせなさ
フレイヤはふっ、と短く息を吐いた
張り詰めていた肩の力が抜けて、土に刺した斧に寄りかかるように体重を預ける
「……うん、じゃあ行こ、暗くなる前に。」
村外れへ向かって歩き始める
フレイヤが先導し、アイリスがその後ろを歩く
かつて姉と妹のようだった関係が、今はどこかぎこちない距離感
村の中を通り抜ける間、すれ違う村人たちはアイリスを一瞥しては足早に去っていった
まるで疫病を避けるように
フレイヤは自宅に着くと、粗末な木戸を開けて中に入った
小屋と呼ぶほうがしっくりくるような、一人暮らしの住処
壁には手入れ道具が掛けられていて、隅に藁を詰めた寝床が一つ置いてある
「散らかってるけど勘弁ね
あたし一人分しかないから、寝る時はそっち使って
あたしは床でいい」
フレイヤはそう言うと囲炉裏に火を入れる、そして背中越しにぽつりと呟いた
「ねえ、アイリス、あんた——あの頃のこと、まだ覚えてる?あたしがあんたを連れ回して、ルミと三人で川に落ちたあの日」
炎が揺れて、二つの影が壁に伸びる
フレイヤの横顔には、懐かしさと、それを口にすることへの後ろめたさが同居している気がする
自分はあの日々から遠い場所に来てしまった——その自覚が、声に滲んでいる
「もう、覚えてないよ」
フレイヤの火かき棒を持つ手が、一瞬止まった
「……そっか」
驚く事に、ただそれだけだった
ひどいとも言わず、ただ小さな相槌を打って、フレイヤは薪を突いた
炭が爆ぜる音が沈黙を埋める
覚えているかと聞いておきながら、本当に覚えていないと言われる方がずっと堪えるのだと、彼女自身がよく分かっていた
フレイヤは鍋に水を注ぎ、干し肉と根菜を放り込みながら、努めて明るい声を作った
「まあ、そりゃそうだよね
何年も経ってるし、あたしが聞くことじゃなかった
……ご飯、味は期待しないでね
ユータのとこの食材みたいに上等なもんは出せないから」
やがて簡素な汁物が出来上がり、二人は向かい合って食べた。会話は少なく、木匙が椀に当たる音と虫の鳴き声ばかりが夜を満たしていく。
「フレイヤ、私は記憶をなくしているんだ」
フレイヤは手に持っていた椀をそっと置き、アイリスの顔をじっと見つめる
「……なくしてるって…どういう意味
記憶が曖昧ってこと?」
フレイヤの表情から軽口の色が完全に消えた
炉の火がぱちりと音を立て、小屋の中に橙色の明滅を繰り返す
フレイヤは座り直して、低い声で口を開く
「あんた、魔王と戦ったんでしょ
その……頭やられたりとか、ってこと?
あたしが知ってるアイリスってさ、馬鹿みたいにお人好しで、祭りとかでも転んだ子をおぶって家まで送ってくような奴だったの、その……なにかあったの?」
問い詰めているのではない、むしろその声には、触れていいのか分からないものに恐る恐る指先を伸ばすような慎重さがある
昔のフレイヤなら遠慮なく踏み込んでいただろう
だが今の彼女は、闘気を向けられた感覚をまだ身体に刻んでいて、目の前の「アイリス」との付き合い方を測りかねていた
フレイヤはアイリスの返事を待たずに畳み掛けるように喋る
「……無理に話さなくていいよ
ただ、もし身体のどっかがおかしいなら、村に一人だけ薬草に詳しい婆さんがいるから、あたしから紹介する」
手帳には村の事は少ししか書いてなかった…それに、まだ過去の私が残した手帳を最初の少ししか読めていない…いや、読めてないより読んでないの方が正しいかな…
「……まぁ、色んな事があったんだよ
今はフレイヤ達の名前と少しの情報しかわからない、だからさっき変わったねって言ったのは嘘、でも…記憶がなくても何が違う気がしたんだ」
フレイヤはしばらく黙っていた
火の粉が舞い上がって天井に消えるのを目で追いながら、ゆっくりと息を吸い込んだ
「……そっか……名前と少しの情報だけ、ね……」
フレイヤの中で何かが組み変わるのが見て取れた
怒りでも憐れみでもない、もっと複雑な感情
かつて自分を姉のように慕っていた少女が、中身ごと別人のようになって帰ってきた
その事実がじわりと腹の底に沈んでいくのを、彼女は黙って受け止めていた
やがて、ふっと笑った
自嘲でも皮肉でもない、ただ諦めに似た穏やかさだった
「何か違う気がしたんた、ってのは当たってるよ
あたしが変わったんじゃなくて、この村が丸ごと変わっちゃったからね
あんたが知ってた頃の面影なんて、もうほとんど残ってない」
指先で炭の端を崩しながら、独り言のように続けた
「川の近くに住んでたエマ、家、覚えてないでしょ
あそこもう空き家だよ。一家で街に出てった。残ってるのはあたしと、あと何人かくらい
……ねえアイリス
あんたがあたしの名前だけでも覚えててくれたの、ちょっとだけ嬉しい、ちょっとだけね」
エマ…確か…年下の私を慕ってた子って書いてあったっけ
にしても…丸ごとか…手帳に書かれていた人も、大半は居ないのかな
じゃあ…もうこの村はそのユータとやらを崇めるためにあるようなものになっちゃったって事かな…
「まるで、信仰教団のような感じだね…」
その言葉が本心から言ったのか、それとも別の感情で言ったのか、それはアイリス本人にもわからない
フレイヤは指が炭を弄んでいたが、その言葉にぴたりと止めた
「信仰教団…」
フレイヤはその言葉に聞き覚えがなかったわけではない
旅商人が酒場で語っていた断片的な噂、焼かれた街の話、狂信者たちの異様な儀式
この世界において信仰教団はそれ以外には考えられず、それは彼女にとって遠い世界の出来事でしかなく
まさか自分の村をそれと同列に語られるとは思ってもいなかった
眉根を寄せて、火に照らされた顔が険しくなる
「ちょっと待って、それ、あたしらがユータを崇めてることと同じだって言いたいの?
……あのさ、気持ちは分かんないでもないけど
教団ってのは人を殺して回った連中でしょ
あたしたちはただ飯食わせてもらった恩があるだけで、誰かを傷つけてなんかないよ」
反論しつつも、その語調にはどこか弱さがあった
フレイヤ自身、心の奥底で「これは健全な関係なのか」と問うたことが一度もないわけではないのだろう
だからこそ、それを外から指摘された時の反応が早くなる
フレイヤは膝の上で拳をぎゅっと握り、声を絞り出した
「あたしだって馬鹿じゃない
全部が正しいなんて思ってない
でも——じゃあどうすりゃよかったのさ、あの飢えの中で、他に何に縋れって?」
思わず手で目を隠してしまう
「仕送り…別れる前の仲間から、私は月に一回、欠かす事なく私がこの村に食糧を送っていたと、そう聞かされたんだ、でもここには届いてなかった、輸送途中に悪質な横領でもされていたのかな…」
小屋の空気が、一段と重くなったのがわかる
炎の爆ぜる音すら、遠のいたように感じる
フレイヤは目を見開いたまま、しばらく何も言えなかった
口が半開きになり、閉じ、また開く
「食糧の、仕送り……?」
フレイヤの脳裏には、あの飢饉の日々が駆け巡っていた
棚に並ぶ干物の数、麦粥の味のしない水っぽさ、日に日に痩せていくルミの腕
あれが全て、届いていたはずの物資が消えた結果だったとしたら、そしてそれを行ったのが——
がたん、と膝が鳴った
立ち上がったのか座ったのか自分でも分からないまま、両手で顔を覆った
「待って、待ってよ
……じゃあ、あたしがリリーを抱えて泣いてたあの時、食い物はあったってこと?あたしたちが食べてたのは、どこから来たやつだったの。
まさか、村長、が……?あの爺さんが、横領——」
あっなんか誤解してるかも
「まって、誤解してると思う、多分村に来るまでのどこかで移送を担当してるやつが横領したんだと私は思う」
顔を覆っていた手を下ろした、目が赤い
「……移送の、奴ら」
つまり村長もまた、被害者側だったということだ
信じかけていた怒りの矛先が行き場を失い、フレイヤは呆然と座り込んでいた
フレイヤは長い息を一つ吐いて、額を手の甲で拭った
「なんだ……びっくりさせないでよ、もう
でもさ、結局届かなかったことに変わりはないわけでしょ
村は半年もたなかったし、あたしら死にかけた、その事実は消えない」
冷静に聞こえるが、その裏でフレイヤは必死に感情を整理していた
もし村長が着服していたなら単純に恨めばよかった
しかし外部の人間の仕業となれば、怒る相手すらもういない
フレイヤは囲炉裏の灰を掻きながら、低い声で口を開く
「……その仕送りをしてた事がわかるやつとか、ない?毎月ってことは、何回も送ってくれてたんでしょ、この村のために」
仕送りの証拠、確か村に関する事だけの手帳があった気がする、えっと…ここだ
「この手帳に、書いてあると思う」
手帳をフレイヤの元に差し出したあと、窓の外の景色をみる
「今後は、どうしようかな〜」
アイリス自身ですら、今の自分の感情がわからない
フレイヤはアイリスがコップに口をつけている間に、フレイヤはそっと手帳を取り上げた
開くと、几帳面な文字がびっしりと並んでいる
日付、送付した物資の内訳、道中の些細な出来事
そして何より目を引いたのは、毎回欠かさず書き添えられた「村の皆へ」の一文だった
フレイヤの文字を追う目が、途中から潤んでいった
唇が震え、鼻をすする音を隠しもせず
「……ちゃんと、書いてある
毎回、届きますようにって」
手帳を胸に押し当てて、しばらくそのまま動かなかった
やがてフレイヤが顔を上げた時、そこには泣き笑いのような表情が張り付いていた
それを振り払うように、わざとらしく声を張る
「あんたさ、どうしようかなーじゃないよ
記録があるなら村の皆に見せな、そうすりゃ少なくとも穀潰し扱いは——」
そこまで言いかけて口をつぐんだ
この村の人間が、外の世界から届いた食料を横取りされていたという事実を知ったところで、感謝より先に「なぜもっと早く届けなかった」と責め立てる姿が容易に想像できたからだ
「……いや、うん、まずはあたしが読み終わってから考えよっか」
よかった、わかってくれて
もし手帳に書いていた性格と変わっていて、「嘘だ」とか言われて追い出されたらどうしようかと
「それじゃあ、フレイヤが読んでる間少し外の空気を吸ってきてもいいかな?」
少し気分を整えないとね、こんな顔してたらフレイヤに悪いしね…
フレイヤは顔を上げて、何か言いかけた
引き止めようとしたのかもしれない、けれどアイリスの背中を見て、その言葉を飲み込んだ
「……ん、行っておいで」




