終わりと、別れ
空が、ほんのりと白み始めていた。
焦げ跡と血の匂いが混ざった風が吹き抜ける。木々の間から立ち上る煙は、まだ完全には鎮まっていない。あちこちでくすぶる炎、破壊された車両、汚れた教団の旗……すべてが、ここで何が起きたのかを物語っていた。
加藤は、地面に腰を下ろしていた。
裂けたシャツの袖口から、乾いた血が肌に貼り付いている。今頃になって、身体のあちこちが痛み始めた。拳は腫れ、肩は鈍く痺れていた。だが、それ以上に重くのしかかっているのは心の中だった。
俺は、何がしたかったのだろう。
最初は、己の感情を清算したい……その思いが全てであった。
クラスの連中に、自分がどれだけ苦しんだのかを突きつけ、後悔させたかった。土下座させ、殴り蹴り、充分な恐怖を与えた上で殺す。ただ、それだけだった。極めて個人的な、イジメへの復讐のはずだった。
気づけば、全く違う結末を迎えていた。
銃弾が飛び交い、奇怪な宗教の信者たちが次々と人を殺していき、宇宙生物が壁をブチ破って現れ、白い仮面の超人まで降臨した。
その最中、自分の手で何人もの命が消えていった。
こんなことになるとは、誰が想像し得ただろうか。
周りに転がっている死体に対しては、何の感情も抱いていなかった。
ただ、肉の塊がそこにあるだけだ。加藤もまた、こうなっている予定のはずだった。にもかかわらず、今回もまた死に損なってしまった。
いったい、何のために生き延びたのだろうか。
加藤は立ち上がった。ぎしりと膝が悲鳴を上げる。
見れば、遠くの空が赤く染まり始めている。今の加藤には、それが血の色に見えた。
地上の人々の愚かさに絶望した神が、太陽を血の色に変えてしまった……ふと、そんなバカなことを考えた。
その時、足元から呻き声が聞こえた。
見ると、まだ息のある男がひとりいた。顔を血に染めたままこちらを見上げている。よく見れば、かつて同級生だった男だ。名前は、確か広本浩二だった。
プロレス好きで、加藤に毎日プロレス技をかけてきたことを覚えている。まさか、こいつが生きていたとは思わなかった。
「助けてくれよ……頼む」
広本は、今にも消え入りそうな声で言っていた。加藤は、しばしその目を見つめた。どうやら、この男が元同級生の最後のひとりらしい。
こいつは、どんな人間だっただろう。加藤は、過去の記憶を探る。
広本に関し、覚えていることは……お調子者で口が軽く、騒がしい男だった。それだけである。
「それは無理だ。お前も、俺の人生を滅茶苦茶にした中のひとりだからな。しかも、お前は口が軽い。そんな人間に、美鈴と玲奈のことを知られてしまった。あの親子のことを、よそで喋られたりネットに晒されたりすると困るんだよ。悪いが、死んでもらう」
そう言うと、広本の額に手を伸ばした。と、彼の目に恐怖の色が浮かぶ。
何か言いかけたが、加藤は無視して瞬時に首を捻る。
骨の砕ける音とともに、広本は死んだ。
そこで、加藤は振り返った。
遠くの斜面に、美鈴と玲奈の姿が見えた。ふたりは寄り添い、ただ静かに朝を迎えようとしていた。
だが、宇宙生物のエイドリアンがいない。親子のそばにいるものとばかり思っていた。
あいつは、どこに行ってしまったのだろう。加藤は親子に近づき、そっと口を開いた。
「玲奈に、エイドリアンはどこに行ったのか聞いてくれよ」
美鈴はこくんと頷き、娘の前で手を動かす。
玲奈は、母の手の動きをじっと見ていた。やがて、自らも手話で返答する。
やがて美鈴は、加藤の顔を見た。
「あのね、お腹空いたからご飯を食べに行ってるんだって」
「そっか。あれだけデカけりゃ、腹も減るよな。人間の死体を食う習慣がなくて良かったよ」
言った後、クスリと笑った。その時、美鈴が尋ねる。
「結果的に、これで復讐は完了したんだね。あんたの元同級生は、みんな死んだんでしょ。今、どんな気分?」
「わからない。今はただ、ここを早くずらかりたいという思いしかないよ。警察も、すぐに異変に気づき見に来るだろう。その時は、こいつらが教義の解釈の違いから勝手に殺し合った、ってことにしといてくれ」
そう言って笑ったが、美鈴はニコリともしなかった。
「そういえばさ、元同級生たちは誰ひとりあんたに謝らなかったね」
「そんなもん、最初から期待してなかったよ」
そう、形だけの謝罪などいらなかった。あるのは、胸に秘めた思いを晴らす……ただ、それだけだ。
「これから何をするの?」
「とりあえず休むだけだよ。まさか、こんなことが起こるとは思わなかったからな。元同級生たちを皆殺しにしようと計画していたら、いきなり極悪宗教団体の乱入だもんな。さらに、宇宙生物まで加わりやがった。こんなの、宝くじで一億当てるより低い確率なんじゃないか」
本当に、とんでもない話だった。こんなこと、誰が信じるだろうか。
この復讐を遂げたら、加藤は自らの手で人生を終わらせるつもりだった。
生きる意味を、全く見い出せない人生。過去には地獄のような記憶しかなく、未来には何の希望もない。ただ、今を生きているだけだ。
こんな人生は、さっさと終わりにしたくなった。しかし、終わらせる前に奴らを断罪する……その思いから、今回の計画は始まったのだ。
それが、全く予想外の方向へと進んでしまった──
物思いにふける加藤に向かい、美鈴が口を開く。
「前に私に言ったこと、覚えてる? ボランティアの先生に救われたのなら、今度はあんたが、その先生みたいに誰かを救ってやれって言ったんだよ」
「ん? ああ、そんなこと言ったな」
「私ね、それをやることにしたよ。ひとりでも多くの子を救ってあげたい。過去の贖罪のためにもね」
「そうか。あんたにゃ向いてるよ」
「でね、亜嵐にも手伝って欲しい。一緒にやらない?」
初めて亜嵐と呼ばれ、加藤はドキリとなった。だが、それ以上に言っていることがわからない。
「お、おい、何を言ってるんだよ?」
「あんたは、弱者の心の痛みを知ってる。絶望と孤独のつらさも知ってる。それは、私にはわからないことだよ」
美鈴の表情は、真剣そのものだった。
以前、黒川烈道にも似たことを言われた。うちの教団に来ないか、と。その時よりも、ずっと心はゆらいでいる。
そんな加藤に、美鈴はなおも語り続ける。
「イジメや虐待で、心に深い傷を負った子供たちは、世の中にたくさんいる。私は、そんな子たちをひとりでも多く救ってあげたい。そのためには、あんたの力が必要なの。あんたは、そんな子供たちの気持ちがわかる。共感してあげられる。そして、救ってあげられるんだよ」
その時、ようやく加藤は顔を上げた。
「俺は人殺しだ。あんたらの周りにいるわけにはいかないんだよ」
「確かに、あんたは罪人かもしれない。でも、人間は変われる。私は、誰でも生まれ変われるって信じてる。実際、私は変われたし、あんたも変われたよ。これからは、人を助けるために生きてみて。お願い、少しの間でもいい。試してみるか、そんな軽い気分でいいから」
懇願する美鈴の目には、涙が浮かんでいる。それは直視することのできないものだった。加藤は、思わず目を逸らす。
それでも、美鈴は諦めなかった。
「今まで、あなたは誰にも助けてもらえなかった。なのに、私たちを命がけで助けてくれた。そう、亜嵐は私たち親子を救ったんだよ。だから、今度は私が亜嵐を助ける。違う生き方を知って欲しい。本当の幸せを知って欲しいの」
その時、加藤はようやく口を開く。
「人を殺したことのある人間ってのはな、独特の匂いがあるんだ。こいつは、一生消えない。俺が何十人の子供を幸せにしようが、慈善団体に何億寄付しようが、体に染みついた人殺しの匂いを消すことはできないんだ。そんな奴が、あんたみたいな善人と一緒にいちゃいけないんだよ」
目を逸らしたまま、加藤は答えた。そして、玲奈の方を見る。
「あの子が、俺のようにならないように、あんたがしっかり見てやってくれ。玲奈は、本当にいい子だ。俺がもし、玲奈くらいの歳であんな凄い力を持っていたら、大人の言うことなんか聞かず超能力で好き放題してたと思うぜ。まあ、これも母親がいいからだろうな」
冗談めいた口調で言うと、加藤は玲奈のそばに行った。少女の頭を撫でる。
そういえば、子供の頭を撫でたことなど、今まであっただろうか……。
「玲奈、お別れだ。元気でな。お前の人生に、幸多からんことを祈ってるよ。あと、エイドリアンにも言っといてくれ。俺は、お前のことを友だちだと思ってる。忘れない……ってな」
言いながら微笑んだが、玲奈はプイッと横を向いた。彼とは、目を合わせようとしない。ふたりの話していることは聞こえていないはずなのだが、内容はわかっているらしい。
そして、機嫌を損ねてしまったようだ……。
加藤は苦笑した。
「笑顔でバイバイ、ってわけにはいかないか。ま、その方がいいかもな。俺みたいな人間がいると、あんたらに迷惑かけちまうからな」
そう言うと、朝の山道を歩いていった。
血と土にまみれた背中を見送りながら、美鈴は手をぎゅっと握る。止めたかった。だが、加藤の言うことも間違っていないのだ。
それに、彼には彼の生きる道がある。
一方、玲奈は顔を上げた。その瞳は、涙で濡れている。
次の瞬間、少女は口を大きく開けた──
「あ、い、あ、お、う!」
その声に、加藤は思わず足を止める。だが、玲奈はもう一度叫んだ。
「うっ、お! お、お、あ、い!」
何を言っているのか、加藤には全くわからなかった。だが、少女の気持ちは伝わってきた。切なくも暖かく、優しいものに満ちていた。
一方、声を聞いた美鈴は愕然となっていた。
次の瞬間、目から涙が溢れる。やがて堪えきれなくなり、泣き崩れていた。
玲奈は、近所の子供から喋り方を笑われてから、声を全く発しなくなっていたのだ。
なのに今、加藤に向かい叫んだ。何と言ったのかはわからない。でも嬉しい。
娘の声を聞いたのは、何年ぶりだろう……。
玲奈の声を聞いた加藤は、立ち止まったまま動けずにいた。
その時、頭に映像が浮かぶ──
広い芝生の上で、美鈴と玲奈と加藤とエイドリアンが輪になって座っていた。三人、いや四人で笑い合いながら、おにぎりを頬張っている。
全てが心地よい世界だった。空は青く、空気は澄んでいる。血の匂いなど漂っていない。みんな、笑顔で過ごしている。
なんと美しい世界なのだろう──
「なんだよ、それ……」
加藤は、震える声で呟いた。同時に、目から一筋の涙が溢れる。今すぐ振り返り、玲奈を抱き上げたい衝動に駆られた。
次の瞬間、かつての記憶が蘇る。胸の奥にしまっていた過去の罪が浮かび上がる。自らの手で死んでいった者たちの顔。泣き叫び、命乞いをする声。断末魔の叫び。
そして、体に染みついた血の匂い。相手の流した血で、真っ赤に染まってしまった己の手の色。
これだけは、絶対に消すことはできないものなのだ──
「俺も、甘い夢を見たもんだ」
乾いた声が、風に流れていった。
自分は、愛され方も愛し方も知らない人間だ。
それに……これまで、大勢の人間を地獄に叩き落としてきた。ここでも、何人もの人間を殺してしまった。相手が悪人でこちらを殺すために向かってきたとはいえ、それでも命は命だ。それを、自分は無慈悲に奪った。
人殺しの自分には、浅田親子やエイドリアンらと、みんなで仲良く幸せに暮らしました……などという勝ち逃げのような生き方など、絶対に許されない。
自分には、幸せになる資格などないのだ。
直後、顔に獣のような表情が浮かぶ。加藤は振り返らず、静かに歩き去っていった。
ふと、頭の中にある男の映像が浮かぶ──
なあ、黒川烈道さんよう。
あんた、最後の最期まで笑ってたな。闘うことが、本当に好きだったんだな。
最初に会った時、俺はあんたをイカレてるって思った。
でも、今になってやっとわかった。
俺は、神の子なんて大層な代物じゃない。でも、あんたと同類なのは間違いないよ。
誰かに必要とされたいなんて、これまで考えたこともなかった。
あいつらの優しさも、赦しも、俺には眩しすぎるんだよ。
俺は、美鈴や玲奈とは生きられない。あの親子のそばには、いてはいけないんだ。
あいつらと手を取り合って生きる未来なんか、俺には許されないんだよ。
だからさ、俺も闘い続ける。自殺なんて、もう絶対に考えない。
俺は、あんたみたいな生き方はできない。でも、あんたみたいに闘って死ぬよ。
去っていく加藤を見つめていたのは、美鈴と玲奈だけではなかった。
いつの間に戻ってきたのか、エイドリアンが大木の陰に潜んでいたのだ。彼らの別れを、興味深そうに眺めている。
その口が動いた。同時に、声が漏れる。
「ア、リ、ガ、ト、ウ。ズッ、ト、ト、モ、ダ、チ」
これが、玲奈の言っていた言葉だ。そう、エイドリアンにはちゃんとわかっていたのだ。
その後、こう続けていく。
「レナ ママ カトウ。ミンナ エイドリアンノ トモダチ」




