仮面と、崩壊
黒川は、ついに白い仮面を被る。
その瞬間、先ほどまでの強烈な眠気が吹き飛ぶ。同時に、得体の知れない何かが全身を駆け巡る。全身が破裂しそうな感覚を覚え、黒川は上空に向かい吠えた。
その声は、人間のものではない。完全に悪魔のそれだった──
突然、立ち上がり吠えた黒川。直後、教団旗がはためく鉄製の竿を手に取る。
瞬時にへし折ってしまったのだ──
「な、なんだよあいつ……」
加藤は、驚愕の表情でその姿を見つめる。
黒川は、先ほどとは違う存在になっていた。上半身は裸で、タトゥーだらけの逞しい肉体が剥き出しになっている。だが、それよりも異様なのは顔であった。プロレスラーの被るような、白い覆面がすっぽり顔を覆っているのだ。
さらに、全身から禍々しい気を放っている──
「お前、黒川か!? 黒川なのか!?」
思わず叫んだ加藤に向かい、黒川はニヤリと笑った。折れた旗竿を、地面に突き立てる。
直後、一気に間合いを詰めてきた。加藤の前に来たかと思うと、手をブンと振る。
その一撃で、加藤は吹っ飛んでいった。さほど大きな身長ではないが、それでも八十キロはある加藤の体が、軽々と宙を舞ったのだ──
加藤は、地面に打ち付けられ意識を失う。一方、黒川は天に向かい叫んだ。
「見よ! この力を! これこそ、神が我に与えたもうたものだ! もう信者などいらぬ! 俺ひとりで充分だ!」
言った時だった。上空から、何かが飛んで来たのだ。
飛んできたものは、黒川の前に降り立つ。ドスンという凄まじい音とともに、地面が震えた。
「ほう、来たか。宇宙の意思の体現者よ、貴様は我ら人間に仇なすのか? それとも人間の味方か?」
そう言うと、黒川はニヤリと笑った。
彼の目の前には、二メートルを超える銀色の生物が立っていた。エイドリアンである。
コンクリートの壁を突き破り、数台の車を叩き壊し、大勢の信者を殺した……そんな宇宙生物を前に、黒川は笑っているのだ。
「俺は嬉しいぞ。生きているうちに、お前のような存在と出会えるとはな」
言った時、エイドリアンが吠える。
奇怪な咆哮の直後、エイドリアンの手が振り下ろされた。
だが、黒川はさっと片手を上げた。空手の「上段受け」の形である。
エイドリアンのその攻撃は、猪を一撃で叩き潰すほどの威力があった。だが、黒川は平静な表情で受け止めている。
「なんだ、この程度か? 期待外れだな。では、こちらの番だ」
言った直後、黒川のパンチが飛んだ。
エイドリアンの体は、銃弾を受けてもビクともしないほどの頑丈さである。ところが、黒川のパンチ一発で吹っ飛んでいった。
巨体が宙を舞い、地面に倒れる。だが、エイドリアンはすぐに立ち上がる。再び吠えると、黒川に向かっていく。
鉤爪の攻撃が、黒川を襲う。だが、黒川の皮膚には傷ひとつ付いていなかった。ナイフのように鋭い鉤爪だが、黒川の皮膚を傷つけられないのだ。
直後、またしても黒川が反撃する。立て続けに強烈なパンチを受け、エイドリアンは倒れた。
「これで終わりか? 実に期待外れだな。加藤といい、お前といい、神に選ばれし者ではなかったのか……」
そんなことを言いながら、黒川は倒れたエイドリアンに近づく。
次の瞬間、思い切り蹴飛ばした。
二百キロを超えるエイドリアンの巨体が、軽々と飛んでいった──
加藤は、まだ倒れたままだった。
黒川の一撃は、強烈なものだった。ダンプカーに跳ねられたのと同レベルの衝撃力だろう。普通の人間なら、確実に死んでいたはずだ。
しかし、加藤は生きていた。意識は闇に沈んだままだが、それでも心臓は動いている。
そんな加藤に、近づいていったのは玲奈だ。恐怖のあまり真っ青な顔になりながらも、少女はひとり進んでいく。
やがて、玲奈は倒れている加藤の元に辿り着いた。
彼の体に、そっと触れる。目をつぶり、精神を集中させる。そう、教団での実験の日々で教わったことだ。
己の裡に潜む力の存在に気づき、それを引き出すこと。それは、自転車に乗ったり泳いだりすることと似ている。修練を重ね、コツに気づくこと……これこそが、もっとも大事なプロセスなのだ。
そして今、ガイア救済教会にとってもっとも皮肉なことが起きようとしていた。
教団の実験により己の力の使い方を学んだ玲奈が、教祖である黒川にとって最大の敵を復活させてしまったのだ──
加藤の心に、暖かいものが入ってくる。それは、五体をも駆け巡っていった。
(早く目覚めて──)
はっきりと、声が聞こえた。
直後、加藤は飛び起きる。目の前では、エイドリアンと黒川が闘っていた。しかし、黒川の圧倒的な力の前に、エイドリアンが押されているのだ。
そんな両者を見て、加藤の肉体に力がみなぎっていく──
「黒川! お前の相手は俺だぁ!」
叫ぶと同時に、加藤は走った。助走を利かせた飛び蹴りが、黒川の顔面に炸裂する──
常人なら、この飛び蹴り一発でケリがついていただろう。だが、黒川には効いていないらしい。僅かによろめいた程度だった。
それでも、加藤は攻撃を止めない。着地すると、黒川の顔面を殴りつけた。空手の突きともボクシングのパンチとも違う、喧嘩屋の殴り方だ。全体重を乗せ、大きく拳を振るいブン殴る。ただただ、威力のみを重視したパンチだ。いわゆるテレフォンパンチであり、格闘技の試合では有り得ない攻撃である。
そのパンチを、黒川は避けようともせず真正面から顔面で受け止めたのだ。しかも、わずかに体が揺れただけだった。
「どうした! その程度か! やはり、俺の見立ては間違いだったのかな!? 貴様は、神の子ではなかったのか!?」
叫ぶと同時に、黒川は手を振るう。何の変哲もない、ただの平手打ちだ。邪魔なものがあったから、手を振ってどかした……そんな動きである。
にもかかわらず、その一撃で加藤は吹っ飛んでいった。車が正面衝突してきたような衝撃を受け、加藤の体は地面へと叩きつけられた。
それでも、加藤は立ち上がった。頭はくらくらしているが、意識はまだ飛んでいない。骨は折れておらず、体も動ける。
つまりは、まだ闘えるということだ。
再び立ち向かうべく、加藤は黒川を睨んだ。だが、驚くべき光景が飛び込んでくる──
黒川の前には、エイドリアンが立っていた。拳を作り、思い切り体を仰け反らせているのだ。まるで、ピッチャーの投球モーションのようなポーズである。
な、なんだあの格好……。
加藤は、ここが戦場であることも忘れ唖然となっていた。黒川も同様らしい。思わぬ姿を前に、動きが止まっている。
次の瞬間、エイドリアンが拳を振るう。体を思い切り捻り、全筋力と全体重を一点に集中させた喧嘩屋パンチだ。
その時加藤は、エイドリアンがレストラン内で彼の動きを真似していたことを思い出した。
こいつ、俺の動きを学習しやがったんだ!
そこで、ようやく理解した。
エイドリアンは、加藤の攻撃を見て真似をしたのだ。こうすれば、もっと威力のある攻撃になる……その事実を、一目見ただけで学習してしまった。
その学習は、無駄にはならなかった。黒川は、エイドリアンの喧嘩屋パンチをまともに顔面に食らう。
その威力は、今までのものとはまるで違っていた。先ほどまで、エイドリアンの攻撃は腕の力のみの打撃が中心であった。格闘技の世界で言うところの「手打ち」の打撃である。
しかし今、全身の力と体重を拳に乗せる技術を、加藤の動きから学んだ。そして実行したのだ。
直後、黒川の体が飛んでいく。あの魔神のごとき強さの黒川に、ようやくダメージを与えられたのだ。
しかし、黒川とてこれで終わるほど甘くはなかった。地面に倒れながらも、素早く起き上がる。
覆面の口元が、わずかに歪んだ。
「ほう、やるではないか。だがな、この程度では殺られんぞ!」
その時、加藤も叫ぶ──
「エイドリアン! 見とけ!」
同時に走り出していた。エイドリアンならば、この動きも学習してくれるはずだ。
そして、加藤は飛んだ。黒川の顔面に、助走つきの飛び蹴りを食らわす。
放った飛び蹴りは、黒川の体をぐらつかせただけだった。しかし、続いての攻撃は威力が段違いであった。
今度は、エイドリアンが助走しての飛び蹴りを放ったのだ──
エイドリアンは、今までまともに闘ったことなどない。
食べるために、獲物をとらえる。抵抗したら、強い腕力で押さえつけ殺す。闘いとも呼べぬものだ。
しかし、仮面をつけた黒川の強さは桁違いだった。腕力も耐久力も、確実にエイドリアンより上だ。そうなると、エイドリアンにはなす術がない。
こいつには勝てない、と思った時だった。
そこで、加藤が立ち上がる。
立ち上がっただけでなく、エイドリアンの目の前で闘っていた。自分よりも遥かに小さく力も弱いはずの加藤が、臆することなく黒川のような怪物に立ち向かっている……この時点で、エイドリアンは感銘を受けた。
加藤が闘っている。
俺より小さく弱い加藤が、あんな強い奴に立ち向かっていっている。
さらに、そんな加藤の攻撃に黒川がぐらついている……その光景を見た時、エイドリアンは閃いた。
あれと同じことをすれば、黒川に勝てるかも知れない──
その瞬間、エイドリアンの手は拳を作る。自分が闘わなければ、加藤が殺されるのだ。
せっかくできた友だちを、絶対に殺させはしない。
自分が、みんなを守る。
形容のできない熱い何かが、エイドリアンの五体を流れる。その何かは、エイドリアンの体内で奇妙な化学反応を生み出した。
全身に力がみなぎっている。今までとは、まるで違っていた。はっきりと、自身が強くなったことを確信した。
今なら、勝てるかも知れない──
直後に放ったパンチで、黒川は大きなダメージを受けた。
そして今は、エイドリアンの飛び蹴りが炸裂している。黒川は、たまらず吹っ飛んでいった。
その先にあったものは、地面に埋まっていた尖った鉄棒である。
黒川の体は、その鉄棒に貫かれた──
皮肉にも、それは教団の旗を掲げていた鉄棒であった。黒川が、自らの手でへし折っていたのだ。
だが、加藤は容赦しない。黒川の仮面を、無理やり引き剥がす。
どこかのプロレスラーの覆面にしか見えない、白い仮面。だが、これを被った途端に黒川は化け物じみた存在になったのだ。
何なんだ、これは……。
加藤は、仮面をじっと見つめる。その時、不思議なことが起きた。
次の瞬間、白い仮面は消えてしまった──
今のは何だよ!?
愕然となる加藤。確かに、布の仮面は彼の手の中にあったのだ。感触も覚えている。しかし、目の前で跡形もなく消えてしまった。
その時、黒川が口を開く。
「俺の負けだな。加藤……どうやら、お前こそが本物の神の子だったようだ」
その言葉に、加藤はドキリとなった。
「な、何を言ってんだよ。俺は、ただの人間だ。神の子なんかじゃねえ」
「いいや、お前は間違いなく神の子だ。仮面の力を解放したこの俺に勝ったのだからな」
「ふざけるな。あんたに勝ったのはエイドリアンだ。俺じゃねえよ──」
「いい加減に認めるんだ。お前は、神の子なのだよ。その運命からは逃れられん。お前がいなければ、あの宇宙生物とて敗れていたのだ」
そう言うと、黒川は笑った。体を串刺しにされ、大量の血が流れている。さらに、あちこちの骨が折れ内臓を傷つけているはずだ。
瀕死の状態なのに、それでも黒川は笑顔で語り続ける。
「それにな、お前がただの人間だとしたら……死んでいく俺の立場はどうなるのだ。ただの人間に負けたとあっては、俺のこれまでの信仰は間違っていたことになるではないか……」
言った直後、その首はガクッと垂れた。
死んだのは明らかだった。にもかかわらず、その顔はとても安らかであった。やっと休める……とでも言いたげな表情を浮かべていた。
一方、勝ったはずの加藤は、呆けたような表情で黒川の死に顔を眺めていた。そこには、勝利の喜びなどない。むしろ、祭りの後の寂しさのような、胸を締め付けられる感覚に襲われていた。
エイドリアンもまた、黒川の死体を見下ろしていた。生まれて間もない宇宙生物だとはいえ、この強敵の死に何かしら感じるものがあったらしい。
誰もいなくなった場所で、ふたりはじっと立ち尽くしていた。




