黒川の過去と、白き死の仮面
「かつて、ヴァン・ゴッホは言った。汽車に乗って他の土地に行けるのなら、死に乗って他の星に行けるかもしれない……と。俺は信じている。お前らが、他の星で別の生を受けていると」
そんなことを言いながら、黒川は服を脱いだ。
彼は今、総本部の屋上にいる。パンツしか身につけておらず、その肉体には至るところにタトゥーが彫られていた。よく見ると、ひとつひとつが人名だった。
そう、彼は死んでいった友の名前を、己の肉体に刻み込んでいるのだ。
既に、空には星が輝いている。黒川は、ひとつずつタトゥーに触れていく。
「コビニーチン、ベック、スミス、リー、ボイル、マードック、アリティー……お前らは今、どこの星で酒を飲んでいるのだ?」
かつての戦友の名前をひとりずつ呼びながら、盃を煽る。
その顔は、慈愛に満ちていた。
・・・
かつて黒川烈道は、ただの兵士にすぎなかった。
名前もない傭兵部隊の一員として、東欧や中東の戦場を渡り歩き、死体の山を越えて金を稼ぐ……そんな日々を過ごしていた。国家の命令ではない。正義も悪もない。ただ、生き延びるための闘争であった。
二十三歳の冬、ある内戦地帯で彼は死んだ。
敵の待ち伏せに遭い、部隊は全滅した。黒川も胸を撃ち抜かれ、右脚を銃弾が貫通し倒れた。敵兵は死んだものと思い、そのまま放置し引き上げた。
黒川は、ただひとり砂漠に取り残されたのだ。周りには、戦友たちの死体。助かる見込みなど、万にひとつもない。
夜になり、意識が消えかけたその時、彼は確かに見たのだ。
漆黒の天幕の中に、ひときわ眩い光……それは、神話のように人の形はしていなかった。だが、そこに大いなる意思を感じた。あまりにも巨大すぎる存在。例えるなら、広い宇宙そのものであった。
血の匂いに満ちた風が彼の顔を撫でる中、大いなる意思は語りかける。
「まだだ。お前は死なぬ。死んではならぬ」
「どういうことですか?」
黒川は、思わず尋ねていた。すると、答えが返ってきた。
「おまえは、神に選ばれし子。おまえの肉体は、死すら退ける」
その声を聞いた瞬間、黒川の目から涙が溢れた。喜怒哀楽、どの感情とも違うものに支配されていたのだ。
「血を流し、殺し、勝ち続けよ。それが人の本性だ。闘争こそが、お前の喜び。闘争こそが、お前の使命」
それが夢か、幻か、あるいは本当に「神の声」だったのか、当時の黒川にはわからなかった。
ひとつ確かなことは、黒川がそこから生還したという事実だ。信じられないことに、彼は現地の民兵に保護されていた。意識のないまま、病院へ運ばれた。
医師は言った。
「十箇所を超える銃創、骨折、内臓損傷、大量出血……まだ他にもあります。これだけの症状が重なりながら、あなたは助かった。それどころか、数日で動けるようになった。これは、もはや奇跡という言葉を超えています。私も大勢の患者を治療したが、あなたのような人は初めてです。できることなら、あなたの肉体を精密検査し細胞のひとつひとつを研究してみたいです」
その瞬間、黒川は確信したのだ。神は存在する。それは、どこかの宗教団体の教義にあるような「慈愛のみを与え、信者を甘やかす」ような存在ではない。
闘争の果てに、流れる血の上にのみ初めて降臨してくれる存在。そう、闘争こそが神の求めるものなのだ。
神は、己との果てのない闘争の末に初めて出会えるものなのだ。
やがて黒川は傭兵稼業を辞めて帰国したが、もはや普通の生活に戻る気はなかった。暴力、闘争、血の匂いなしに、生を感じられない身体になっていた。
裏社会に身を投じ、用心棒として名を売ったこともあった。だが、それも退屈になる。闘争に意味を見出さず連中ばかりだったからだ。
ある日のことだった。
黒川は、ひとり駅前の繁華街を歩いていた。その時、彼の前に外国人青年が現れる。見たところ、旅行者らしき格好だ。
しかし、その外国人青年はこんなことを言ったのだ。
「あなたに救われた」
つたない日本語による突然の言葉。しかも、感極まったのか、青年はその場でひざまずき泣き出したのだ。黒川は、ただただ困惑し戸惑うばかりであった。
よくよく話を聞けば、青年は黒川の所属していた傭兵部隊が派遣された場所の現地民であった。黒川が敵対勢力を壊滅させたことで、家族が救われたのだという。
その傭兵部隊の生き残りである黒川のことは、幼い少年の記憶に強烈に焼き付いていた。日本という未知の国から、自分たちを助けに来た青年……というイメージが残っていたのだ。
成長した彼は、日本語を学び、働いて金を貯めた。全ては、日本に来るためである。
とはいえ、彼が黒川の居場所など知るはずもない。ただ、日本という国に来てみたかった……それだけのはずだった。
にもかかわらず、黒川と偶然の再会を遂げたのである──
「あの時のあなたは、異国から来たスーパーヒーローに見えた。だが、あなた以外の兵士たちは、皆死んでしまった。それが悲しい」
ひどい日本語であった。だが、彼の思いは伝わってきた。また、彼の言葉は黒川の心に凄まじい衝撃を与えた。
あの時、神を見た……その場所に住んでいた少年が成長し、日本に来た。そして、黒川と偶然の再会を遂げた。
これは、もはや偶然ではない。神の意思なのではないか?
そうか。
やはり、俺は神に選ばれし子だったのか。
神の意思を伝えるため、あの地獄を生き延びたというわけか。
だが、それでも黒川には迷いがあった。果たして、あの声は本物だったのか。
それを知るため、黒川はバックパッカーになった。そして、インドへと渡った。
しかし、答えは出なかった。様々な場所を巡り、聖者と呼ばれる者の言葉を聞いた。だが、どれも黒川の心を打つものではなかった。
ある日、黒川はぼんやりと森の中を歩いていた。その時、とんでもないものと遭遇する。
目の前に、一匹の獣が現れた。巨大な体、黄色と黒の毛、鋭い爪と牙、らんらんと光る目……そう、虎である。
黒川は、人里からさほど離れていない森の中で虎に出くわしたのだ。
言うまでもなく、虎は強い生物だ。人間など、前足の一撃で殺すことができる。しかも、毛皮は分厚く硬い。人間が目一杯の力で殴ったところで、大したダメージを与えられない。
黒川は、人間の中では最強の部類に入るだろう。しかし、虎の前では単なる獲物でしかない。間違いなく殺される。
にもかかわらず、黒川は不思議なくらい落ち着いていた。
「俺がここでお前に殺されたなら、あれは幻覚でしかなかったということだな」
呟くと、黒川はそのまま前進していく。目を逸らさず、まっすぐ虎を見つめたまま歩いていった。
虎は微動だにせず、まっすぐ黒川を見つめている。怒っているわけではなさそうだ。こいつは何者だ? とでも言わんばかりの表情である。
さらに進んでいく黒川。その足取りは、普段のままである。遅くもなく、速くもない。鼓動は高鳴っていたが、それでも黒川は歩みを止めない。
両者の距離は詰まっていき、手を伸ばせば触れるくらいの位置に来た時。あり得ないことが起きた。
虎が、ひょいと横に飛び退いた。まっすぐ進む黒川に、道を譲ったのである。
黒川は、思わず立ち止まった。首を横に向け、虎を見つめる。
一方、虎は何事もなかったかのように、後ろ足で耳の後ろを掻く。
両者は見つめ合っていたが……しばらくすると、虎は茂みの中へと消えていった。
帰国後、黒川は宣言した。
「俺は、この国にはびこる偽りの神々を全て駆逐する。真実の神の存在を、全ての者に伝えよう」
こうして「ガイア救済教会」は産声をあげた。
最初は地下で、小さな道場のような形から始まった。だが黒川の圧倒的な存在感と力強い言葉は、会う人すべての心に強烈な衝撃を与えた。
「世の中には、弱者も強者もない。ただあるのは、己との終わりのない闘争のみ。お前の闘うべき敵は、お前の内にいる。他者と比べるな、己と闘え」
「悪魔など存在しない。そんなものは、神という存在を飾り立てるため、人間が後付けで生み出したアクセサリーに過ぎん。悪魔なるものがいるとすれば、それはお前らの内にいる。己の内に潜む悪魔と闘え。闘って、闘って、闘い抜くのだ。さすれば、神の声が聞こえてくるだろう」
「欲望を否定するな。禁欲の末に辿り着けるものなど、たかが知れている。ならば、いっそとことんまで欲望を極めてみよ。その結果、残るものは何か……それこそが、己の本当に欲するものだ。この段階を経ずして、神と会うことなどできん」
黒川は、今も己の道を突き進む。
その後ろからは、今や数千の信者が続いている。その信仰は、もはや狂気にも近いものだ。
かつて、誰かが尋ねたことがあった。
「あなたは、本当に死なないのではないですか?」
黒川は、笑いながら答える。
「そんなことはない。人間は誰もが、いつかは死ぬ。俺も、それは例外ではないだろう。神が俺の死を求めるならば、喜んでこの命を捧げよう。しかし、今はその時ではないらしい」
・・・
「俺は死ぬ時、どこの星に行くのだろうな。キャラダインよ、お前のいる星はどうだ?」
ひとりタトゥーを撫でながら、盃をグイッと飲み干した時だった。
拝み屋ジョーが、慌ただしい勢いで階段を上がって来たのだ。
屋上に到着するなり、勢いこんで語り出す。
「とんでもない話を聞きました。以前、オルガノとかいう新興宗教団体があったのは知っていますよね?」
「ああ、知っている。商人どもの興した団体だな」
そう、オルガノは金儲けが目当てのインチキ宗教団体であった。一時は芸能人を広告塔に据え、派手に活動していたのだが……教祖の病死と施設での集団殺人事件とが重なり、今では活動を停止している。
「そのオルガノを潰したのは、白い仮面を被った男だったそうですよ。つまり、前の持ち主の山川優考だったようです。ついでに、施設で起きた集団殺人事件も、実は仮面を被った山川のしたことだったようです」
「ほう」
「都市伝説のようなものまで調べてみたんですが、白い仮面を被った者の目撃談がありました。町のチンピラたちの前にいきなり現れ、チンピラを素手で殺した挙げ句、五体をバラバラに引きちぎってしまったそうです。まあ、これは嘘くさいですがね」
「なんだそれは……実に下らん与太話だな」
「あと、もうひとつあります。世界各地で、この仮面の目撃談があるそうです」
「世界各地で、か?」
「はい。場所によって違いはありますが、共通する点がひとつあります。力を使った者は、非業の死を遂げるという伝説です。しかし、あなたは仮面の力を使っていないようですね」
「当たり前だ。これは、神よりいただいた特別な贈り物であり……俺を試すものでもある。この力を使うか使わないか、神は俺を試しているような気がするのだよ」
言った時だった。今度は荒牧が屋上にやってきた。
来るなり、挨拶もせず喋り始める。
「大変です! 大田と斎藤と竹山が先走り、レストラン内に侵入しました!」
「なんだと! どうなったのだ!」
さすがの黒川も、凄まじい形相で怒鳴った。
「三人とも、加藤に返り討ちに遭い殺されました」
「何をやっているのだ、あのバカどもは……」




