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「かなしみの子」  作者: 新開水留
34/55

[34]それぞれの傷痕

 

「来るのが遅くなって申し訳ありませんでした。浅葱さんたちに引き留められたとはいえ、本当ならばもっと早く駆け付け、何よりもまず新開さんにお詫びするべきでした」

 彼女が来るのを待っていなかったと言えば、それは噓だ。

「新開さんを、あのような事件に巻き込んだのは、私の責任です」

 それも噓だ。あの時僕は、自ら同行を願い出たのだ。

 僕は大きく強く首を横に振る。

「どれだけの言葉を重ねても、私は彼らに、そしてあなたに…」

 内藤さんご夫婦の新居から戻った後、今日という日まで僕は彼女に会わずにいた。心の中で、会うことを避けていたようにも思う。だがやはり、認めざるを得ない。僕はずっと、文乃さんに会いたかったのだ。

 会って、笑顔を見たかった。元気な姿を見たかった。しかし願うということは、相手にこちらの望みを押し付けることに似ていると思うのだ。僕は僕の、そんな傲慢で独りよがりな願望を知られたくなかったし、何より、僕の顔を見た途端文乃さんがあの惨劇を思い返してしまわないかと、怯えていたのだ。

「…新開さん?」

 そして今、僕は文乃さんの手の温もりを背中に感じている。それは本当だったら、顔が真っ赤になるほど嬉しい筈である。ドメニコから受けた攻撃による後遺症は、全くない。だが僕が黙り込んでいるのには、別の理由があった。両腕の中の少女を見つめ降ろす僕には、淡い感傷に浸っている余裕などなかったのだ。

「新開さん、大丈夫です…か」

 文乃さんは僕の背後から前に周り、

「ああぁ」

 震える両手をめいちゃんに差し伸べた。

 そこへ、文乃さんと同じく麓の村から駆けつけた辺見先輩が、僕たちの側に滑り込んできた。先輩もまた、めいちゃんの姿をひと目見るなり名を叫び、同じく震える手で彼女の足に触れた。

「どうして、こんなことに…ッ」

 嘆く辺見先輩の悲痛な声に、

「六花さんのように、うまくはいかないかもしれなせんが」

 文乃さんは気持ちを立て直してそう言い、唇を結んで目を閉じた。

『戻せるんですか』

 僕は咄嗟にそう尋ねようとして、やめた。

 文乃さんは確かに、類稀なる霊能力を持っている。だがそれは癒しの力ではなく、超能力としか表現しようのない、身の回りの大気を操るという力である。いくら秋月六花さんと親戚関係にあるとは言っても、彼女と同じ事が出来るとは考えがたい。

 だが、固唾を飲んで見守る僕の側で、文乃さんの身体が高熱を放ち始めた。

「ああ…」

 めいちゃんの足に触れていた辺見先輩が、喜びの声を上げる。身体の後ろで指先から肘までが捩れて絡み合っていためいちゃんの腕が、ゆっくりと元に戻り始めたのだ。しかし次の瞬間、ボトボトボト、と文乃さんの鼻から大量の血が滴り落ちた。

「文乃さん!」

 思わず差し出した僕の左手を握ると、文乃さんは勢いよく体を反転させて芝の上に血を吐いた。

「ふ…」

「ふみ…ッ」

 叫ぶ僕たちの下から、声が聞こえた。


 く、ち…

   …く、ち、   を…

 

 それは地面に横たわるめいちゃんが、必死の喘ぎと共に発した声だった。

「口? 話をしたいのか? めいちゃん、そうなのか!?」

 めいちゃんの訴えをどうとらえたものか、文乃さんは両肩で深く息をすると、真剣な眼差しでめいちゃんへと向き直った。大量の血を吹き、吐き出してもなお、文乃さんは諦めていなかった。

「私も、手伝います」

 と辺見先輩が言い、めいちゃんの頬に手を置いた。

「せ、先輩が?」

「体中に物凄い量の黒い何かが入り込んでるのが見える。以前私の身体から六花さんが取り除いてくれたもの、あれに似てるんだよ。追い出す事は出来ないかもしれないけど、移動させることくらいはできるかもしれない」

「心強いです」

 文乃さんは青ざめた顔で微笑むと、めいちゃんの胸の上に赤く染まった手をかざした。

 何もできずにただ見守る僕の目の前で、めいちゃんの身体が小刻みに震え始めた。おそらくだが、文乃さんと辺見先輩が施す霊的治療を受けて、めいちゃんの体内にいる何かが暴れているものと思われた。

「めいちゃん!聞こえる!?」

 長くは続けられないと見た文乃さんが、めいちゃんの耳元で呼びかける。

「めいちゃん! めいちゃん!」

 辺見先輩と僕も負けじと声を掛けた。

 すると、ゆっくりとではあったが、めいちゃんの唇が開いて息を大きく吸い込んだ。ゴホゴホと激しく咳き込み、痛むのか、苦し気にその身を捩った。

「めいちゃん!」


 1、2、3…。


「え、何?」

 文乃さんがめいちゃんの口元に耳を近づける。


 1、2、3…。


「イチニ、サン?数を数えてるの?」

 文乃さんの言う通り、僕にもそうとしか聞こえない。辺見先輩の顔を見やると、彼女もまた頷いた。

 グググ、とめいちゃんが首を伸ばし、頭を起こそうともがいた。

 僕が彼女の頭の下に手を差し入れて支えると、めいちゃんは何かを見ようと空中に鼻先を向けた。しかし悲しいかな、めいちゃんの目は髪の毛と思しき黒い糸で閉じられている為、おそらくは何も見えていない。だがそれでも尚、夜空を見上げてめいちゃんは続けるのだ。


 イチ、ニ、サン…。

 イチ、ニ、サン…。


 何度目かのイチ、ニ、サン。

 その時だった。

 明らかに僕たちの知っているいつもの声で、めいちゃんが告げた。

「文乃さん、来るよ」

 次の瞬間、ぐったりと横たわっていた少女の身体が、見えない力に因って引っ張られるように勢いよく立ち上がった。目ちゃんの顔は、二神邸の方を向いていた。


 イチ!ニ!サンッ! 受け取れぇぇぇッ!


 十六歳の少女の発する声ではなかった!

 僕も辺見先輩もまるで聞いたことのない、老人の(しわが)(ごえ)が芝原に響き渡ると同時に、二神邸の様々な場所から窓を突き破って人が飛び出して来たのだ!

 一瞬の出来事とあまりにもけたたましいその音に、僕も辺見先輩も、反射的に立ち上がっただけで何も行動に移すことは出来なかった。

 左側の建物から飛び出したのは、三神さんだ。右側の建物から出て来たあれは、秋月さん、そして一番奥の建物から飛んで来たのが、坂東さんに違いない。

 割れた窓ガラスと共に障子を突き破り、天高く舞い上がった三人の身体がスローモーションのようにゆっくりと落ちて来た。

 すると、僕の眼前に立ち上がった文乃さんが両手を広げて大きく息を吸い込んだ。

 それはこの世で一番美しく、そして最も慈悲深い十字架のようだった。

 文乃さんは左足を一歩前へ踏み出すと、膝を曲げて体を沈みこませた。


「ウーーーーーーーーン!」


 長い指先が折りたたまれて握り拳に変わり、華奢な背中がブルブルと震えた。

 キラキラと月明かりを反射させながら砕けたガラスと共に落下する三人の身体は、頭から地面に激突する瞬間ふわりと空中で横たわり、そして緩やかに着地した。

 正直、何が起きたのかは分からない。だが思わず場違いな程の大歓声を上げた僕と辺見先輩に、

「確保を!」

 と文乃さんの声が飛んだ。

 僕は転びそうになりながら前のめりに駆け出し、三神さんたちのもとへ走った。

 三人が落ちたのは二神邸正面玄関のすぐ前だ。いつまた玄関の戸が開いてドメニコが飛び出してくるやも知れない。僕に続いて駆けて来た辺見先輩に秋月さんを任せ、僕は必死に三神さんと抱えて文乃さんたちの元へ運んだ。そしてすぐ様駆け戻って、坂東さんの身体を肩に抱えた。

 その時、秋月さんの傍らでへたり込む辺見先輩の姿が目に入った。

「先輩何やってるんだ!両手を握って引き摺るだけでもいいんだ!早く…ッ!」

「新開くん…」

「辺見先輩!さっきまでここにドメニコがいたんだ!早く、少しでも離れなければ!」

「新開くん!六花さんがおかしいよ!」

「な」

「息はしてるのに、全く生気を感じないんだよ…。こんなの、こんなのって…」

 僕は坂東さんを肩に担いだまま必死に二人のもとへ辿り着き、倒れ込むようにして秋月さんの傍らに両手をついた。

「お二人とも早くこちらへ!」

 事情の掴めない文乃さんが僕たちを呼ぶ。しかし僕の見る限り、辺見先輩の表現は正しいと思えた。溜息が出るほど美しい秋月さんの顔からは表情が抜け落ち、開いた瞼は閉じることを忘れ、大きな瞳は夜空を見上げたまま全く動かない。彼女の目は、何も映していないように見えた。

「秋月さん!」

 肩を掴んで激しく揺さぶっても、秋月さんは僕を見ようともしない。

「秋月さん!」

 どうして、なぜこんな…?

 秋月六花という女性は、あの三神三歳をして『神に愛された人』と言わしめる程の強者である。身に付いた能力だけではない。困難に立ち向かう精神力、愛情に溢れた人としての器、潜ってきた修羅場、その全てが、誰よりも気高く強い彼女を作り上げて来たのだ。

 見たところ外傷はない。それなのに、一体どれだけのダメージを受ければ、『死以外の全てを癒す』彼女を、これ程深く傷つける事が出来るというのか。

 ぐふうう、う、うう。

 僕のすぐ側で、うつ伏せに倒れていた坂東さんが意識を取り戻した。顔は突っ伏したまま、右手を地面に押し当てて上半身を起こそうとしているのだ。

「坂東さん!秋月さんが!」

 

 新開さん!


 文乃さんが叫び、振り返った僕の視界が、自分の吐き出した白い息で覆われた。

 来た…。

 この猛烈な寒さは、…やつだ。


 めいちゃん!


 辺見先輩が声を上げて立ち上がる。

 見れば僕たちがもといた文乃さんの側、今は三神さんと柊木さんが横たわっているその真上に、めいちゃんの身体が浮かんでいた。両手両足は捩れたまま、何もない空中へゆっくりと上昇していくのだった。

「い…嫌ッ!」

 文乃さんが叫ぶ。

 しかし彼女は先程と同様、両手を大きく開いてめいちゃんを見上げていた。その姿だけを見ればまるで、文乃さんがめいちゃんを空中に浮かび上がらせているように思える。だが、

「嫌ッ!嫌だァッ!」

 そう金切りを声を上げ、文乃さんは叫んでいた。

 事態はまるで呑み込めないのに、強烈なまでにドス黒いモヤのような感情が僕の心を支配した。辺見先輩は泣いて秋月さんに取りついた。六花さん、めいちゃんが、めいちゃんが…。泣きながらそう揺さぶるも、秋月さんは放心したままなんの反応も示してはくれなかった。

 風が強く吹いている。

 今や文乃さんの身長よりも高く舞い上がっためいちゃんの着ている衣服を、バタバタをはためかせる。


「嫌!嫌ッ!…新開さん!助けて!」


 僕は走り出していた。何が出来るとか、何が出来ないとかを考えている時間はなかった。僕は全速力で走り寄るとそのまま不様に飛び上がってめいちゃんの足に抱き付いた。

 が、僕とめいちゃんはそのまま宙に浮かんだままだった。

 

『まさか…。そんな…』


 突如僕の胸に去来した、既視感。

 もし僕の閃きが間違いでないなら、僕はこの世の全てを呪いたくなるだろう。

 泣き叫ぶ文乃さんの声を眼下に聞きながら、精神を粉々に破壊せしめるほどの悪意に、僕は…。

 

「新開くん!後ろ!」


 辺見先輩の声にも、僕は振り返ることが出来なかった。少しでも体を捻れば、すぐにでも地面に落下してしまう。だが振り返るまでもなく、僕は背後に気配を感じていた。

 それは真の恐怖と、死の気配だった。



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