[33]現る
眠っていたわけでも、意識をなくしていたわけでもない。しかし、坂東さんと三神さんが屋敷に突入して十分も経たないうちに、僕ははたと気がついたのだ。
「…寒い」
なんの予兆もなく、突然僕の吐いた息が白く変わった。無意識にめいちゃんの身体を強く抱きしめ、背後に横たわる柊木さんのご遺体を庇うように移動する。
辺りを見回しても、今のところ人影はない。だが真夏の夜に相応しくない白色の吐息を見るのは、これで二度目だった。
きっと近くに、ドメニコ・モディリアーニがいるはずだ。
…坂東さんはどうなった。
…三神さんはどうなった。
僕は恐怖に身を固くしながらも、それでも逃げるという選択肢はないと自分に言い聞かせた。腕の中で震え続けているめいちゃんから感じる体温は、彼女の命の火だ。秋月さんが戻るまで、絶対にこの火を消すわけにはいかないのだ。
その時だ。
ギギーギギギ…。
家鳴りのような音が聞こえた。見上げたそこには二神邸正面家屋の上に突き出た巨木の枝があり、風もないのにギシリギシリと揺れていた。
『いや…あれは…』
揺れる枝葉の影にうまく同化しているが、そこに蠢く別の何かがいる。
『なんだ…』
中型犬サイズの黒い影だった。それは見る間に、正面玄関の真ん前に落下した。
地面は芝の原っぱとは言え、平屋の屋根より高い場所から落ちたのだ。それなりの衝撃を受けるはずが、そいつは僕がしっかりと目を凝らして見据えていたにも関わらず、音もたてずに地面に吸い込まれて消えた。
僕は膝立ちになって黒い影の落下したあたりを探したが、そこには何もなかった。
『なんだったんだ、今のは…』
不意に、夏の夜とは思えぬ冷たい一陣の風が、僕の肌を撫でた。
すると突然僕の腕の中で、ガタタタ、とめいちゃんの身体が震えた。驚き下を見ると、めいちゃんは糸で縫われた両瞼を激しく痙攣させながら、口をパクパクと動かした。
「めッ…!」
に・げ・て
めいちゃんの伝えたかった言葉を僕が理解した時には、もうすでに遅かった。
僕たちの左前方に、先ほどまで無かった漆黒の水たまりが出来ていた。直径一メートルあるかないかの小さな水たまりではあったが、そもそも雨が降っているわけでも、降っていたわけでもない。
またもや冷たい風が吹き、右から左へ、水たまりの表面を波紋のような波が揺れた。と、
「くッ!」
僕は急激なる悪臭に襲われ、咄嗟に右手で口鼻を抑えた。
さざ波のような波紋が水たまりの両側から起き、丁度中心部でぶつかりあった波が隆起して山のような形を作った。
「に、げ、てぇ…」
めいちゃんが喘ぐように訴えかけたが、僕の目はその水たまりに釘付けとなり、微動だにできなった。
隆起した水面はおさまることなくそのまま真上へと持ち上がり、やがて真っ黒な水の中から白髪頭の老人の顔が、ぬ、と突き出して来た。
「ドメニコ・モディリアーニ…」
ボサボサの髪、皺だらけの額、大きく垂れ下がった鷲鼻。その両脇に光る三日月のような黄色い目。そして、血を含んでいるのかと見まがうほど赤く染まった口。
ドメニコは僕と目が合うなりニヤリと嗤い、薄い唇をさらに伸ばして口角を吊り上げた。
やっと会えた、そんな風に思われた気がして、僕は全身を戦慄かせて尻もちをついた。
なぜここに現れるんだ。
屋敷の中じゃなかったのか。
いや、違う、そういうことじゃない。
やっぱり壱岐さんは、この怪人を取り逃がしたってことなのか。
あるいは、あの壱岐さんですら…?
ドメニコは直立したまま水たまりから浮上すると、やがて右足を上げて地面に降り立った。そして消えゆく足元の水たまりに片手を突っ込むと、最後に杖を取り出した。
突如目の前に出現したこの男こそが、全ての事の発端である。
「どういうつもりなんだ。…お前は何者なんだ? 一体何がしたいんだよッ!」
怒りに任せて僕は叫んだ。
ドメニコに対しては、言いたいことが山ほどある。
加藤塾にてホワイトボードに坂東さんが書き連ねた、此度の一連の事件。直接的、間接的の違いはあっても、チョウジはその全てにドメニコが関わっていると確信していた。しかし、警察関係者でない僕にその真偽はつかめない。
大貫深香ちゃんだと思われた遺体は、別人のものだった。
現場を見てもいない僕に、岩下俊司さんが亡くなられた原因がドメニコにあるかを議論する資格はない。それは岩下テルエちゃんの失明に関しても同様である。確かに、テルエちゃんを連れた岩下さんご夫婦が秋月さんを訪ねた背景には、謎の老人の存在が見え隠れしている。だが、何故テルエちゃんが失明したかという理由や原因は解明されていないのだ。ドメニコが何かをした、という物的な証拠も出ていない。
僕が一番心に強く留め、消え去る事のない怒りと悲しみを抱え持っていたのはやはり、内藤さんご夫婦の死が、全く理解出来なかった為である。そして、文乃さんの心を壊した深い嘆きの所為でもある。何故、文乃さんの目の前で、内藤さんご夫婦は殺されなければならなかったのか。しかしこの件に関してだけは、ご夫婦が亡くなる間際に「ドメニコ」の名を口にしている。
だからここだけの話、幼稚な言い方になってしまうが、僕はドメニコに会って必ずぶん殴ってやろうと思っていた。相手が老人であるとか、証拠がないと非難されてもいい、必ずぶん殴ってやると、決して口には出せない愚かな誓いを胸に秘めていた。
だが、やはり僕はどうしようもない愚か者だったのだ。満身創痍のめいちゃんに逃げろと忠告されようが、人殺しかもしれない男に至近距離で立たれようが、僕は全く動けないでいた。
それは、壱岐課長さんの操る『強制停止』とは全く違う。次元が違う。本当言えば、僕は今すぐ立って逃げられるはずなのだ。何故なら僕は、ドメニコに何もされていないからだ。しかし、やはり僕は逃げられないし、動けないのである。
「何故日本にやってきた!本当の目的はなんなんだ!」
声を震わせながらも、言葉の通じないであろう異国の老人に対して吠え立てた。そうすることでしか、硬直した僕の体を再始動させる方法はなかったのだ。坂東さんはかつて、ドメニコを直接見てはいけないと忠告してくれた。
今なら、その本当の意味が分かる。催眠だとか、洗脳だとか、あるいはまじないだとか、恐らくそういった意味ではない。それはもっと純粋で、もっとも原始的な感情が、この男と目を合わせた瞬間から全身を蝕むのだ。
それが本物の、恐怖というやつだった。
「…、…」
聞き慣れない響きの音が、風に乗ってふわふわと周囲に浮かんだ。
イタリア語か?
「…あ」
ドメニコの手が伸び、何をされるか分からないまま僕は死を覚悟した。
『約束はいまだ守られていない。直接手で触れなければよいのだろう』
頭の中に、直接意味を叩き込まれたようだった。
「…な」
気が付けば僕の体のど真ん中に、ザラザラとした手の感触があった。
体の表面ではない。体の、中である。
『…いただこう』
流れ込んでくる言葉の意味を理解する暇もなく、本来あるはずのない異物を体内に感じ、僕の身体は火がついたような激痛に襲われた。腹部を刃物で刺される痛みではない。無造作に内臓を引き抜かれる痛みなのだ。
かつてない異常事態に、僕は言葉にならない悲鳴を上げた。
…名前を呼ばれた気がした…
しかし僕はめいちゃんを抱いたまま振り返る事が出来なかった。
そこへ、ズドンと音がしそうな程の勢いで、暖かな空気が僕の背中から入ってお腹から抜けた。
バシャン、と眼前のドメニコの身体が真っ黒な水の塊へと変化し、猛烈な勢いで僕の身体から遠退いた。そしてそのまま二神邸へと吸い込まれるように飛び退ると、正面玄関に入った瞬間、バタンとひとりでに戸が閉まった。
後から静寂がやってきて、脈動するこめかみの音だけがうるさく鳴っていた。
僕の背中にはそのままずっと温もりある手が添えられていて、悲鳴を上げた自分を恥じるだけの冷静さをようやく取り戻した。と同時に、やはり、どうしようもなく泣けてきた。
むろん、怖かったからではない。
「遅くなりました、新開さん。お会いしたかったです。あなたにはどうしても、直接会って謝りたかったものですから」




