[35]小さな背中
図らずもすぐ側に横たわる柊木青葉さんの隣で意識を失っている間、三神さんはずっと、長い夢を見ていたそうだ。幸せな夢だった、という。
「幻子をワシが引き取った、その当時の夢だ。かつてあの子は特別なんだと、相手は辺見嬢だったかなぁ、年甲斐もなく惚けたことを言って聞かせた事があったと思うんだがね」
目を細めて三神さんはそう語り、手を叩いて懐かしそうに喜ぶ辺見先輩と僕に、照れた顔で頷きかけた。
幻子が三神さんの娘になる事が決まってから、三神さんの生活は一変した、という。
「ワシは酒も煙草もやらんのだが、そのー、ええ年こいて、悪癖があってな」
チョコレートが、大好きなんだそうだ。
下手をすれば三度の飯代わりにチョコレートを頬張っている時もあり、六歳で引き取った幻子と寝食を共にするにあたって、その事だけが気がかりだったという。要はおさなごの手前、これまで同様好き放題にチョコを食べられなくなる、というのが嫌なのだ。
「そんな顔をするな。そこでワシは一計を案じたよ。幻子をだな、無類の辛党にしようと企んだのだ」
馬鹿な、と思わざるを得ない話を三神さんは嬉々として語り、どのようにして幻子をチョコレートから遠ざけ、自分ではあまり食べない乾きもの、主にピーナッツやあたりめなどを勧めたかを聞かせた。ただ、幻子は食にこだわる所かほとんどすべての事に興味を示さなかった。
自分から切り出し、柊木青葉さんと離婚してからというもの、三神さんは相談相手もいないまま、風変りな幼い女の子との暮らしに四苦八苦したそうだ。
だが、それはそれで、楽しかったという。
「頭はすこぶる付きで良い。おそらくは、ワシが何を言わんでも、考えているもの、望んでいるものが手に取るように分かったと思う。だからあの子は、決して首を横にふることをしなかったし、何かを嫌がるということがなかった。例えそれがワシの望みでなかったとしても、こうした方が良いのではないかと考えたワシの意見を、常に尊重してくれていた」
ただし、衣食住に関する前向きな意見は、一向に示される気配がなかった。
間もなく小学校へあがる。
他者との会話やコミュニケーションに関しては、本人のやる気次第でどうにでもなると三神さんは思っていた。だが、特に着る物、食べる物に関しては、例え三神さん以外の第三者が尋ねても、自分の意見を口にする事がなかったそうなのだ。
「困るというより、戸惑うんだよ。こっちはええ年したオッサンだ。ただ単にチョコさえ独り占めできりゃあええ、ガキに甘いもん食わして虫歯にでもなりゃあ、歯医者にワシがなじられる、その程度の実に適当な発想だったものが、やがて本当にこれでいいのか、この子が望むことはなんなのかと、次第に気に病むようになっていった」
ある時、三神さんは幻子に提案する。
「これ、チョコレートって言うんだがね。お前さんも、食べたいか?」
すると幻子は、珍しく笑顔で喜んだのだという。
簡単な話だったのだ。
幻子はチョコレートが好きだったわけではない。
三神さんと同じ事がしたかったのだ。
同じ時間に起き、同じものを食べ、似たような服を着て、同じ事をして、同じ時間に眠る。
一人ではないと感じられること。
幻子の願っていたことは、ただそれだけだった。
「あの子が何に喜び、何に微笑むのか、ワシなりにつぶさに観察を繰り返した。別に、世界一幸せにしてやろうとか、そんな親馬鹿な事を考えていたわけではないんだよ。あの子は始まりからして不幸だったし、ワシはワシで、身勝手な我儘で柊木さんを悲しませた。だからこそ、少なくとも人並みに幸せを感じる生活を送らせてやらねば、そうまでしてワシが引き取った意味がない。とまあ、そんな所かな」
幻子に変化がみられるようになったのは、三神さんと一緒に暮らすようになって半年ほどたったある日の事だった。三神さんはかねてより、まだ天正堂本部に顔を出していた頃の幻子の両親から、彼女の誕生日を聞いて知っていた。折しも、三神さんと暮らすようになって半年が過ぎようとしたその月が、幻子の誕生月だった。
「誕生日プレゼントを贈りたい。ただ、やはりあの子は自分から何かを欲しがることもなければ、たとえ聞いても、首を傾げるばかりでな。あまりにしつこく聞きすぎると、何もいらないと怒ってしまう。そうなるとワシの性格上、かえってやらぬわけにはいかない、となる。難儀なもんだな。別に、何かものをやって喜んで欲しいわけじゃないんだ。喜ぶ顔が見たいとか、そういう事でもなかった気がする。おそらくはワシの、単なる意地なんだよ」
それが、三神さんの考える人並みの幸せというやつだった。
当たり前にように、誕生日がくればプレゼントをもらう。
誕生日など嫌でも毎年やってくる。特別高価じゃなくてもいいし、人が持っていないような希少価値を求めたわけでもない。三神さんはシンプルに、「当たり前」を幻子にあげたかっただけなのだ。
「ここだけの話。…言うてもまあ、あの子にウソは通用せんのだがね。柊木さんに、幻子へ渡すプレゼントの相談を持ち掛けたんだ。…っは、馬鹿だと思うだろう。ただワシとて、決して嫌いで縁を切ったわけではないし、あの人の事はずっと忘れず、気にはかけていたんだ。街で偶然見かけてね、自分でも心底馬鹿だとは思うが、これこれこういうわけでと聞いてしまった。さすがにあの人も一瞬は呆れた顔で天を仰いだよ。だがまあ、出来た人なんだ。すぐに気持ちを立て直して、一緒に考えを巡らせてくれた」
そうしてもと夫婦同士考えて決めたプレゼントは、白いコマ付きの自転車だった。
「体が、小さくてなあ。本来子供用の自転車はもっと早い段階で買い与えるものらしいんだが、気付くのが遅れてしまった。とは言え、ないよりはいいし、自転車くらいこげないでどうする、とまあ、勝手な言い分で購入を決めた。気に入るかどうかは分からんが、それをきっかけにして何か欲しいものでも出てくれば、それはまた来年の話。…しかし、実際、幻子はいたく喜んでくれたんだ」
当時三神さん達が住んでいた家の近所に古い神社があって、暇を見つけてはそこで自転車の練習をしたそうだ。なにもかも大人顔負け、器用にいろんな事をこなしてしまう幻子だったが、自転車だけは苦手と見えた。まだハンドルを重たく感じ、ペダルを踏み込む足に力をこめれば、今度は手が疎かになってとんでもない方向へ走り出すのだ。
石畳の上をガシャガシャ音を立てながら走る幻子の背中を、三神さんは初め笑って見つめていた。
だがしばらくすると、無心でペダルを漕ぐ幻子を見守る目に涙が込み上げ、溢れて止まらなくなったそうだ。
「…あの子の神童ぶりには、早くから天正堂も目を付けていた。だが、周りから『神の子』などとあからさまに囃し立てられた時も、あの子はひつも表情をかえることなく自分を指差し、『三神の、子』そう答えていた。あの子は特別なんだよ新開くん、辺見嬢。お前さんたちなら分かるだろう。ワシと柊木さんが初めて買い与えた白いコマ付きの自転車を、あの子は一生懸命漕いだ。必死になって漕いだ。それは今も何ひとつ、変わってなんかいない。実の親に捨てられ、ワシや周りの大人たちに甘えることをあの子自身が許さなかった。自分の足でどこへでも行ける、そういった希望の類ならば良い。だが、自分の足で歩いて行かねばならないという決意が、自転車を漕ぐ幻子の横顔に浮かんだ興奮の意味であったなら、ワシは…。もしもあの子が、産まれた瞬間からこの世の悲劇的な未来を背負う運命の子であるならば、この子の小さな背中に圧し掛かる重荷を、ワシが一緒に背負うてやらねばならんのだ。それが、このワシにも出来る親らしい唯一のことなのだ。それをせずして、何がッ。…何が!親か!
…夢の中で、夢を見ることがあるなぁ。
そうさ、分かっておる。
これもまた夢さ。
自分が見た夢を、お前さんらに話して聞かせる、そういう夢だ。
いくら話をしようと、お前さんらは決して声に出し、言葉で返答することはない。
夢、だからだ。
ふん、先ほどから耳元でザアザアうるさいノイズは一体なんのつもりだ。
こんなもので、かつて一度は拝み屋衆を束ねたこのワシを、惑わせると思うなよ。
幻子よ。
今、行くぞ。




