ビール
ビール。
それは紀元前から人類の友人だった。
古代の中東やエジプトの文明において、それは重要な飲み物として作られ、人々に楽しまれていたのである。
地球ではその後ワインを尊重するギリシャ・ローマ文明が地中海の覇権を握ったため、ビールは長く「蛮族の酒」として社会的には不遇の地位に置かれることとなった。
その後ビールが地位を回復するには、ビール文化を持つゲルマン民族の台頭を待たねばならなかった。
そして中世に至り、人々の交流や都市間流通が盛んになった結果、保存に優れたホップ入りのビールが広く普及するようになった。やがて、ビールと言えばホップを主に使用するものを指すようになった。
それが、僕の前世、地球におけるビールの歴史である。
僕がいるこの世界でも、ビールの地位はこの中世あたりの状態に近い。上等な酒と言われるものは、酒桃から作られるネークで、これがいわば地球でいうワインのポジション。ビールも好まれてはいるが庶民の飲み物という位置づけで、貴族からは少し軽く見られている。
少し調べてみたところ、このネルクト、神様が古代の王に授けた神の果実という伝承があり、その神がメルティアという名前らしかった。
(古代から一貫して人に酒を造らせていたんだな……)
どれだけ飲みたいのだろう。
さて、ビールである。
僕は町のビール醸造所にやってきた。
石造りの大きな建物だ。敷地内にはいると、開けっ放しの大きな入り口からハーブのいい香りが漂ってきていた。
入口から中を窺うと、職人が大きな釜の前で中身を熱心にかき混ぜていた。
新しいビールを仕込んでいるところだ。ビールの中心的な原料である麦芽を粉にし、60度くらいの温度で糖化、つまり甘い液体にさせる。
強いハーブの匂いがしているから、もうハーブ類を入れた後、つまりもうすぐこの作業は終わるところだと思った。
僕は職人に声をかけず後ろ姿をじっと見ていた。
働く男って感じで実にかっこいいよね。
「ヴィノ坊ちゃま、何してるんですか」
そうしたら、背後から声をかけられた。
振り返ると、醸造所の女将、キッテおばさんがいた。
「僕はもう成人したんだから、坊ちゃまはよしてくれよ」
「あはは、そうでした。新年祝いのネークご馳走様でした。あんた、ヴィノ様が来てるよ!」
キッテおばさんが職人に声を投げると、ようやく彼は僕に気がついた。
「おぉ坊ちゃま!」
この町の人達はいつになったら僕を坊ちゃまと呼ぶことをやめてくれるのだろうか。
「邪魔するつもりはないんだ。大事な作業でしょう、そのまま続けてよ」
「あ、いえ、もう終わるとこなんで」
彼はスプーンで麦汁をすくいひと舐めすると、2度頷いた。
「うん、ちょうど終わりました」
それなら良かった。
「今日はどうしたんですか?」
「うん、ビールを仕込むのに使ってるハーブって、どうしてるのか聞きたくて」
僕がそう質問すると、2人は顔を見合わせた。
「どうって、男爵様から買ってますけど……」
「……え、うちなの?」
「はい。男爵様からしか仕入れてはいけないのが決まりでございますので」
知らなかった。
「じゃあもしかして、どのハーブをどれくらい使ってるかとかって、分からない?」
職人は頷いた。
「俺たちに売られるときにはそのまま使える粉末の状態になってますんで」
「そっか、ありがとう。ちなみに、味を知るために少し飲ませてもらってもいいかな?」
「まぁ、一杯くらいなら」
そう言ってキッテおばさんは木のカップにグルートを入れて造ったビールを持ってきてくれた。
表面に泡が盛っているが、そこまできめ細やかな泡ではなく、見ている間にも少しずつ消えて行っている。
僕はそれを一口飲んだ。
ハーブ由来の複雑な香りがする。木と草の薬草の香りだ。風味は爽やかだが、苦みはまろやかで、前世の僕がビールと聞いたときに連想する爽快感はあまりない。
美味しい。美味しいが、あれを思い出してしまった僕には少し物足りない。
この味だと、使われているハーブの中にホップは入っていないか、入っていてもごくわずかだろう。
まずはうちのハーブに何が使われているのか、父上に聞いてみよう。
僕は家に引き返した。




