父さんのトゥーキック
オランダでのシーズンを戦い抜き、プロ生活の日々からようやく解放されたダンがたどり着いたのは、湖畔に佇む我が家のモッキ(サマーコテージ)だった。
白夜に近いフィンランドの柔らかな夕暮れ。
テラスの重い木製のドアを開けると、懐かしい声が真っ先にダンの耳に飛び込んできた。
「おかえり、ダン! オランダのしつこいディフェンダーたちに揉まれて、また少し逞しくなったかしら?」
エプロン姿の母、真由美が、両手にミトンをはめたまま満面の笑みで迎えてくれる。テラスからは、彼女が焼いたばかりのカレリアンピーラッカと、オーブンの中でじっくり脂の乗ったサーモンの香ばしい匂いが漂っていた。
「さあ、突っ立ってないで荷物を置きなさい。今夜はあなたの好きなサーモンスープよ。あっちのリーグは身体への負担も大きいでしょうから、ハーブを多めにして胃に優しくしておいたわ。……あなた、ダンが着いたわよ!」
真由美が部屋の奥へ声をかけると、父、マルクが書棚から顔を出す。
大学教授の父。普段は湖の水質データや環境シミュレーションの数式ばかりを相手にしている学者肌の男だ。
「よく帰ってきたな、ダン」
マルクは短くそう言うと、手元で転がっていた古びたサッカーボールを、モッキ用のラフな格好のまま軽く蹴り上げて微笑んだ。「食事が出来上がるまで、少し外の空気を吸わないか」と。
「もう、あなたったら。ダンは長旅で疲れているのよ? フライトの直後にあなたの退屈な研究の話なんて聞かせたら、スープが冷めちゃうわ。スタジアムの熱気とは大違いなんだから」
真由美が呆れたように笑うと、マルクは「研究の話じゃないさ。少し、身体を動かすだけだよ」と、どこか子供のように弁明しながら芝生へと歩み出ていく。
夕闇が迫る緑の上で、親子二人の静かなパス交換が始まった。
ぽん、と返ってくるボールの軌道を見ながら、ダンの胸にふと、懐かしい記憶が蘇る。
(そういえば……小さい頃も、こうしてよく遊んでもらったな)
ダンが物心ついた頃、研究や論文執筆で多忙を極めていたマルクは、それでもわずかな合間を見つけては、ダンのサッカーの相手をしてくれた。
時には学会帰りのスーツ姿のまま、窮屈そうな革靴を履いたままで、庭の隅でボールを蹴ってくれたこともある。
力学や流体力学にも通じているはずなのに、そのキックは日々浴びている洗練されたプロのインサイドパスとは程遠いものだった。
つま先で無骨に押し出すような、父さんのトゥーキック。
革靴の先端がカツンとボールを叩く、あの独特の乾いた音が、幼いダンの耳には妙に心地よく残っていた。
今、目の前でボールを蹴る父は相変わらず普通に元気で、少しだけ白髪が増えたくらいだ。けれど、プロの世界に身を置いている今のダンだからこそ、その無骨なトゥーキックの温かさが、痛いほど胸に染みた。
「相変わらず、変な回転がかかるな、父さんのキックは。教授なんだから、ボールの回転軸の計算くらいできそうなのに」
ダンが少しからかうように言うと、マルクは目を細めて照れくさそうに笑った。
「ハハ、プロの目から見ればな。流体力学的には説明がつかん不規則な軌道だろう。だが、お前をここまで育てるくらいには、しっかりと届いていただろう?」
「はいはい、そこまでよ。二人とも、スープが最高の状態よ。冷めないうちにテーブルにつきなさい!」
テラスの窓を開けた真由美の、弾んだ声が夕暮れの湖畔に響く。
「今行くよ」と応えながら、ダンは足元に転がってきたボールを一度、じっと見つめた。
(サッカーの常識としては、足指骨折リスクのあるキック。でも、僕のサッカーの始めは父さんのキックにあるんだ。いつか使えないかな)




