第9話「絡みつく思惑」
バルツ将軍の失脚から数週間。
皇宮の空気は、張り詰めた薄氷のように冷たく、そしてひどく脆くなっていた。
軍部の急進派を事実上解体したことで、ルミナ王国への侵攻は凍結されている。
前線の部隊は国境線での睨み合いを維持し、補給線の再構築という名目で足止めを食らっていた。
宰相ギルベルトの執務室には、毎日山のような決裁書類が運び込まれる。
そのすべてに目を通し、帝国全体の物流と資金の流れを把握することが、今のアルスに課せられた最大の任務だった。
広大なガルマディア帝国は、単なる暴力だけで統治できるほど単純な機構ではない。
北方の鉱山から産出される魔石の採掘量、東部の穀倉地帯における天候被害の補填、そして南方の海上貿易網に課せられる関税率の調整。
これら複雑に絡み合う国家運営の数字を、アルスは前世の騎士としての規律と忍耐力で一つ一つ紐解いていく。
剣を振るう肉体的な疲労とは異なる、脳髄を直接削られるような精神的消耗。
羊皮紙の上を滑る羽ペンのカリカリという音だけが、深夜の執務室に虚しく響き続けていた。
国家予算の再配分を行い、軍事費の削減とそれに反発する地方貴族への威圧的な通達を作成する。
これらすべてを、血も涙もない暴君の筆致で処理しなければならない。
少しでも温情を見せれば、あるいは為政者としての弱さを露呈すれば、背後に控えるセスの凶刃が容赦なく襲い掛かってくるのだから。
冷酷な宰相という仮面は、今やアルスの皮膚に深く食い込み、剥がすことのできない新たな顔になりつつあった。
「閣下。第三皇女殿下から、非公式の茶会への招待状が届いております」
書類の山から重い頭を上げると、セスが精緻な彫金が施された銀の盆に載せた、漆黒の封筒を差し出していた。
封蝋には、エレオノーラが好んで使う赤い薔薇の紋章が深く刻まれている。
アルスはペンを置き、凝り固まった眉間を指先で強く揉みほぐした。
目の奥には絶えず鈍い痛みが居座り、睡眠不足による疲労が全身に鉛のようにのしかかっている。
「非公式の茶会だと。場所は」
「皇立大図書館の特別閲覧室です。護衛の同行は一人までと指定されています」
皇宮の敷地内とはいえ、人目のつかない場所での密会。
罠の匂いが充満しているが、無視するわけにはいかない。
ルミナ王国を救うという最終目標を達成するためには、帝国内部の権力構造をさらに利用する必要がある。
軍部を抑え込んだ今、次に警戒すべきは皇位継承を巡る血生臭い暗闘だ。
「準備をしろ。一時間後に向かう」
◆ ◆ ◆
指定された特別閲覧室は、天井まで届く巨大な本棚に四方を囲まれた、薄暗く埃っぽい空間だった。
ステンドグラスの窓からは色とりどりの光が差し込み、宙を舞う無数の埃をキラキラと照らし出している。
古い羊皮紙の匂いと、革装丁の糊の匂い、そして微細な魔力の名残が空気を満たしていた。
部屋の中央に置かれたアンティークの円卓に、エレオノーラが優雅に腰掛けていた。
今日はいつもの真紅のドレスではなく、動きやすさを重視した黒の乗馬服に身を包んでいる。
その装いが、この会合が優雅な茶会などではなく、実務的な密談であることを雄弁に物語っていた。
「よく来たわね、宰相閣下」
エレオノーラはティーカップを傾けながら、アルスを値踏みするように一瞥した。
彼女の背後には、顔の下半分を布で覆った影のような魔法使いが一人控えている。
アルスはセスの待機を入り口付近の扉の前に命じ、円卓の対面に座った。
「用件を手短にお願いします、殿下。私には帝国の全土を管理する職務がある。優雅に紅茶を楽しむ余裕はありません」
「相変わらず可愛げのない男ね。まあいいわ。単刀直入に言うけれど、第二皇子派が軍部の残党と結託して、大規模なクーデターを画策しているわ」
ティーカップをソーサーに置く甲高い音が、静寂の部屋に鋭く響いた。
アルスの心臓がわずかに跳ねる。
軍部の急進派を抑え込んだ反動が、最も最悪な形で別の派閥の暴発を招いたのだ。
第二皇子は武断派として知られ、力による他国の制圧を強く主張している人物だ。
「彼らの狙いは、あなたへの糾弾と処刑。そして、空席となった宰相の座と軍の指揮権を奪還し、ルミナ王国を一気に焼き払うことよ。バルツ将軍を失脚させたあなたのやり方に、彼らの不満は沸点に達しているの」
ルミナ王国の滅亡。
その言葉を聞いた瞬間、アルスの内側で冷たい怒りが燃え上がった。
自分がどれほどの精神をすり減らして国境線を維持していると思っているのか。
私利私欲のために他国を蹂躙しようとする帝国貴族たちの浅ましさに、吐き気すら覚える。
「なぜ、その情報を私に提供するのです」
アルスは感情のうねりを完全に押し殺し、冷徹な声で問い返した。
「簡単なことよ。私の派閥単独で彼らを潰すよりも、宰相であるあなたが直接手を下した方が、後々の権力闘争において私の手が汚れないから。それに、あなたがここで失脚するのは、私の皇位簒奪計画にとって少しだけ都合が悪いわ。今はまだ、あなたには生きて働いてもらわなければ困るの」
エレオノーラの赤い瞳に、野心と打算の炎が揺らめいている。
彼女はアルスを便利な盾として利用するつもりなのだ。
第二皇子派のクーデターをアルスに鎮圧させ、両派閥を共倒れに近い状態まで消耗させる。
その隙に皇位継承権のトップに躍り出るのが、彼女の真の狙いだろう。
「……情報提供に感謝します、殿下。そのクーデターの首謀者たちを、今夜の宮中晩餐会でまとめて処理しましょう」
「ずいぶんと自信があるのね。彼らは相当な数の実戦魔法使いを動員しているわよ。あなたの近衛兵だけで対処できるとは思えないけれど」
「私を誰だと思っているのです」
アルスは冷たく唇の端を吊り上げ、ギルベルトとしての傲慢な笑みを作ってみせた。
エレオノーラがわずかに目を細め、警戒の色を濃くする。
会談を終えて図書館の外へ出ると、初夏の強い日差しがアルスの目を白く焼いた。
第二皇子のクーデター。
これを乗り切れなければ、帝国は内乱状態に陥り、その余波でルミナ王国は間違いなく滅びる。
生き延びるため、そして故郷を守るための最大の政治的賭けが、今夜の晩餐会で幕を開けようとしていた。




