第10話「謀略の円舞曲」
シャンデリアの眩い光が、巨大な大理石の広間を昼間のように照らし出している。
皇宮のメインホールで開催された宮中晩餐会には、帝国の主要な貴族たちが集結していた。
華やかな管弦楽の調べが響き渡る中、豪華なドレスや仕立ての良い礼服を着飾った男女が、グラスを片手に談笑している。
芳醇な葡萄酒の香りと、濃厚な香水が混ざり合い、熱を帯びた空気が会場に充満していた。
だが、その空気の底には、針葉樹林の冷たい風のような異様な緊張感が張り詰めていた。
誰もが薄々、今夜何かが起こることを察知しているのだ。
アルスは広間の一段高いバルコニーから、眼下の有様を冷徹な視線で見下ろしている。
彼の背後には、いつものようにセスが静かに立っていた。
「閣下。第二皇子殿下の姿が見当たりません。また、彼に連なる派閥の有力貴族たちも、軒並み欠席している模様です」
セスの報告に、アルスは無言でうなずく。
クーデターの首謀者がこの場に現れない理由は一つしかない。
すでに軍を動かし、この広間を外から完全に包囲しているのだ。
「……ネズミが網にかかったようだな」
アルスのつぶやきと同時に、広間の巨大な扉が乱暴に蹴り開けられた。
音楽が唐突に鳴り止み、着飾った貴族たちの悲鳴が響き渡る。
土足で広間になだれ込んできたのは、重武装の帝国兵たちだった。
彼らの手には、抜身の剣と殺傷能力の高い魔道杖が握られている。
兵士たちを掻き分けるようにして、軍服を着崩した青年が前に出た。
第二皇子ユリウス。
酒と欲望、そして野心に濁った瞳で、彼はバルコニーに立つアルスを乱暴に指差した。
「反逆者ギルベルト・フォン・オブシディアン。帝国軍の指揮権を私物化し、国益を著しく損なった罪により、直ちに拘束する。抵抗する者は容赦なく斬り捨てよ」
ユリウスの宣言に、広間の貴族たちはパニックを起こして壁際へと逃げ惑う。
女性たちの絹を裂くような悲鳴と、グラスが割れる高い音が連鎖した。
バルコニーを取り囲むように、数十人の実戦魔法使いが杖の狙いをアルスに定めた。
「閣下」
セスが長剣の柄に手を掛け、迎撃の態勢をとる。
だが、アルスは片手で彼を制止した。
ここでセスを暴れさせれば、無関係な貴族たちまで巻き添えになる。
それに、ただ武力で鎮圧するだけでは、アルスの政治的権力は盤石にならない。
暴君としての真の恐怖を、この宮廷のすべての者たちの魂に刻み込む必要があるのだ。
アルスは手すりに手を掛け、ユリウスを見下ろした。
「反逆者、か。随分と陳腐な台詞を用意したものだ。私を処刑して軍の実権を握り、ルミナ王国を火の海にする。そして、その戦果をもって次期皇帝の座を確固たるものにする。……実につまらない、三流の絵空事だ」
広間に響き渡るアルスの声には、微塵の焦りもなかった。
「黙れ。貴様の命運はここで尽きる。撃て」
ユリウスの号令とともに、数十の杖の先端から致死量の魔力が一斉に放たれようとした。
その瞬間。
アルスは、自身の血脈の奥底で眠り続けていた巨大なエネルギーの塊に、自らの意識を直結させた。
魔法の理論など知らない。
呪文の詠唱も、精緻な術式の構築も不要。
ただ、戦場で培った純粋な殺意のベクトルを、魔力という形に変換して外部へ叩きつけるだけだ。
バチン、と。
空気がひび割れるような異音が、広間の中央で弾けた。
アルスの肉体を中心として、目に見えない巨大な重力場が唐突に発生した。
シャンデリアの輝きが歪み、空間そのものが圧縮されるような錯覚に陥る。
放たれようとしていた魔法使いの魔力は、術者の杖の先端で霧散し、霧のように消え去っていく。
「な、なんだこれは」
ユリウスがうめき声を上げ、その場に両膝をついた。
数十人の帝国兵たちも、見えない巨人に上から押し潰されたかのように、次々と床に這いつくばる。
大理石の床に微細な亀裂が走り、重力に耐えきれなくなったグラスや食器が粉々に砕け散った。
アルス自身も、体内の血管が破裂しそうなほどの激痛に襲われていた。
ギルベルトの魔力は、アルスの精神力で制御するにはあまりにも強大すぎる。
内臓を熱鉄で焼かれるような苦痛が全身を駆け巡る。
だが、ここで少しでも表情をゆがめれば、すべてが終わる。
アルスは奥歯を噛み砕くほどの力で耐え、微動だにせず立ち続けた。
「私の命を狙うなら、せめて一国を滅ぼすほどの覚悟を持ってこい」
アルスは冷酷な眼差しで、床に這い蹲るユリウスを見下ろす。
これが、真の恐怖。
たった一人の人間が放つ覇気だけで、軍の精鋭を沈黙させる。
広間の壁際で震える貴族たちも、そして遠くから監視していたエレオノーラの姿も、すべてがアルスの放つ力の前にひれ伏していた。
「反逆の首謀者たちを地下牢へ連行しろ。後日、私が直接苛烈な尋問を行う」
重圧を解き放ち、アルスは静かに命じた。
控えていた近衛兵たちが、怯えきった様子でユリウスたちを取り押さえ始める。
血を流すことなく、最大の政敵を徹底的に叩き潰した。
ルミナ王国滅亡のシナリオは、これで根底から粉砕されたはずだ。
アルスは疲労で崩れ落ちそうになる足に力を込め、振り返らずにバルコニーを後にした。
「……凄まじい御力でした、閣下」
回廊を歩くアルスの背後で、セスが深い感嘆の息を吐いた。
その声には、これまでのどの周回でも見せなかった、心底からの敬意と歓喜が混じっていた。
「あれこそが、帝国を統べるに相応しい絶対者の姿。私の見込んだ通りの御方です」
セスの瞳には、狂信的な光が宿っている。
アルスは暗い回廊の影の中で、誰にも見えないように自嘲の笑みを浮かべた。
故郷を守るために選んだ道は、自分を最も恐ろしい化物に変えてしまった。
もう、あの誇り高きルミナの騎士アルスはどこにもいない。
謀略と恐怖で帝国を支配する、孤独な宰相の果てしない戦いが、今ここに幕を開けたのだ。




