第11話「氷解せぬ疑惑」
ユリウス皇子のクーデター未遂事件から、季節が一つ巡った。
皇宮の権力地図は徹底的に塗り替えられ、逆らう者のいない静寂が帝都の隅々にまで行き渡っている。
軍部の急進派を地下牢へ追いやったことで、ルミナ王国への侵攻作戦は事実上の凍結状態にあった。
前線の帝国部隊は国境線での睨み合いを維持したまま、補給線の再構築という名目で不自然な足止めを食らっている。
宰相ギルベルトの執務室には、毎日山のような決裁書類がうずたかく積まれる。
アルスは宰相の権限を最大限に行使し、帝国の物資流通網に密かな細工を施し始めていた。
表向きは、国境地帯の防衛拠点である城塞群の補修と、過酷な環境に駐留する部隊への待遇改善。
だが、その真の目的は、ルミナ王国に向けた秘密裏の物資援助である。
長期保存が可能な干し肉や麦、兵士の命を繋ぐ貴重な医療品、そして粗悪だが実用的な防寒具。
軍用物資として莫大な国家予算から計上されたこれらの品々を、意図的に警備の薄い輸送ルートに乗せ、ルミナ側の残存部隊が容易に強奪できるような状況を意図的に作り出している。
分厚い帳簿の数字を巧みに改ざんし、財務省の監査の目を欺くための二重三重の偽装工作。
かつては重い長剣の振り方しか知らなかった不器用な騎士が、今は一本の細い羽根ペンを武器にして、数万の兵士の命を左右する緻密な算段を立てていた。
◆ ◆ ◆
その日の午後。
アルスは視察という名目で、帝都の外縁部に位置する巨大な軍事倉庫群へ向かっていた。
どんよりと垂れ込めた分厚い雨雲が、街全体から鮮やかな色彩を奪い去っている。
装甲馬車の車内は、分厚い車輪が濡れた石畳を叩く規則的な振動だけが響き、向かいの席にはいつものようにセスが彫像のような無表情で座っていた。
視界が開け、倉庫街の入り口に差し掛かったときだった。
空気を切り裂くような鋭い風切り音が、重たい雨音を切り裂いて馬車の側面に突き刺さった。
強固なはずの馬車の扉が外側から爆砕され、鋭利な鋼の刃が車内へと飛び込んでくる。
木端が弾け飛び、冷たい雨粒が一気に車内へとなだれ込んだ。
飛び込んできた刺客の動きは、帝国で一般的な魔法使いのそれではない。
基礎から徹底的に鍛え上げられた、純粋な騎士の剣技。
その切っ先の軌道を見た瞬間、アルスの心臓が鷲掴みにされたように激しく収縮した。
右下段の死角から滑り込むように放たれる、螺旋を描く突き。
ルミナ王国の近衛騎士団にのみ伝わる、対重装甲用の特有の剣技。
そして何より、その素直すぎる太刀筋は、生前のアルス自身が幾度となく手取り足取り教え込んだ直弟子のものだった。
「死ね、ギルベルト」
雨に濡れて額に張り付いた金色の髪。
若く、しかし底知れぬ憎悪に満ちた青い瞳。
レオン。
アルスが最も期待を寄せ、次代の騎士団を背負って立つと信じて疑わなかった、ルミナ王国の若き騎士。
祖国を滅亡の淵へと追いやった元凶を討つため、危険を承知で単身帝都に潜入したのだろう。
決死の覚悟を乗せたレオンの刃が、アルスの喉元に真っ直ぐ迫る。
「……愚か者が」
アルスが身を躱すよりも早く、向かいの席にいたセスが長剣を抜き放ち、レオンの刃を根本から弾き飛ばそうと動いた。
セスの凶刃が、レオンの細い首を無造作に刎ね飛ばす未来が、アルスの脳裏に凄惨な映像としてフラッシュバックする。
殺させてはならない。
アルスは咄嗟に、自身の体内に渦巻く途方もない魔力の奔流に、自らの意識の楔を深く打ち込んだ。
バチン。
車内の空間が局所的に歪み、不可視の圧力の壁がレオンとセスの間に強引に割り込んだ。
致死量の重力を周囲に撒き散らすのではなく、レオンの四肢だけをピンポイントで拘束する、極めて繊細な魔力操作。
レオンの体が、目に見えない巨大な掌で力任せに押さえつけられたかのように、泥まみれの石畳へと縫い付けられる。
激しい雨が、身動きの取れなくなった若き騎士の顔を容赦なく打ち据えた。
セスがわずかに目を見開き、振り下ろそうとした剣を引き戻してアルスへ視線を向ける。
「閣下。この男はルミナの残党です。ここで息の根を止めるのが定石かと」
セスの冷ややかな進言を、アルスは冷徹な眼差しで切り捨てた。
「殺すのは簡単だ。だが、これほどの腕を持つ騎士が、単独でこの帝都の中心部まで潜入できるはずがない。背後に必ず協力者がいる。地下の特別牢へ放り込め。私が直接、痛みを伴う尋問を行う。それまで絶対に殺すな」
アルスは冷酷な暴君の顔を作って命じる。
泥の中で必死にもがくレオンを冷たく見下ろしながら、アルスは自身の膝がかすかに震えているのを、厚い布地の下で必死に隠し通していた。




