第8話「偽りの戴冠」
翌朝の皇宮は、異様な静けさに包み込まれていた。
市街地で発生した宰相襲撃事件の噂は、夜明けとともに宮廷内の隅々まで行き渡っている。
実行犯が軍部の特殊魔法部隊であったという事実。
そして、彼らが護衛ただ一人によって全員惨殺されたという結果。
貴族たちは宰相の苛烈な報復を恐れ、息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待っていた。
アルスは修復された黒の礼服に身を包み、大股で執務室への回廊を歩いていた。
背後には、昨日と同じようにセスが音もなく従っている。
彼の甲冑は新品に取り替えられており、惨劇の痕跡はどこにも残っていない。
だが、アルスの鼻腔には、今もあの路地裏の濃厚な血の臭いがこびりついていた。
◆ ◆ ◆
執務室の重厚な両開き扉を押し開けると、そこには一人の男が立たされていた。
バルツ将軍。
ルミナ王国侵攻作戦の最高責任者であり、昨日の襲撃を裏で指示したであろう軍部の急進派筆頭だ。
周囲を屈強な近衛兵に囲まれ、丸腰の状態でアルスの到着を待たされていた将軍は、焦燥と怒りに顔を歪めていた。
「宰相閣下。これは何の真似だ。国家の忠臣たる私を、このような罪人扱いにするとは」
怒声とともに詰め寄ろうとするバルツ将軍の前に、セスが静かに立ち塞がる。
その姿を見た瞬間、将軍の言葉が喉の奥で詰まった。
特殊部隊を単機で壊滅させた怪物の存在が、物理的な恐怖となって将軍の足を止める。
アルスは無言のまま執務机に向かい、豪華な革張りの椅子に深く腰を下ろした。
「……昨夜の余興は、随分と退屈だった」
冷え切った声で、アルスは告げる。
将軍の額から、じわりと油汗がにじみ出た。
「何のことか、私には全く」
「しらばくれるつもりか。帝国軍の特殊部隊を私兵として動かせる人間が、この宮廷に何人いるというのだ」
アルスの声に怒りはない。
ただ、氷のような殺意だけを言葉に乗せて放つ。
これまでの周回で、自分は何度も無残な死を迎えた。
毒で内臓を焼かれ、短剣で腹を割かれ、爆炎に焼かれ、神経毒で窒息した。
その死の記憶すべてを、目の前の男に叩きつける。
騎士としての高潔さを奥底に封じ込め、ギルベルト・フォン・オブシディアンという暴君の皮を完全に被り切る。
感情を制御し、体内の血脈を駆け巡る巨大な魔力に意識を集中させた。
魔法を発動させるわけではない。
ただ、内に秘められた抗いようのないエネルギーを、大気中に解放するだけだ。
アルスの肉体から、不可視の重圧が波動となって執務室内に広がっていく。
窓ガラスが細かい振動を起こして共鳴音を立て、机上の書類が風もないのに激しく波打った。
室内の温度が一気に下がり、空気が肺の中で凍りつくような錯覚に陥る。
バルツ将軍は両膝を折り、床に崩れ落ちた。
呼吸困難に陥ったかのように喉をかきむしり、顔面を土気色に変えている。
周囲を固めていた近衛兵たちですら、耐えきれずに後退し、壁に背中を預けて震えていた。
「貴様の薄汚い命など、いつでも消し飛ぶ」
アルスは座ったまま、将軍を見下ろす。
「だが、それではあまりにもつまらない。ルミナ侵攻の作戦指揮権は、即刻剥奪する。貴様には、北方の辺境警備という名誉ある任務を与えよう。食糧もろくに届かない極寒の地で、一生蛮族を相手に余生を過ごすがいい」
それは、事実上の完全な失脚宣告だった。
将軍を殺すことは簡単だ。
だが、それでは軍部全体の反発を招き、新たな暗殺者を生むだけになる。
恐怖で完全に心を折り、再起不能な辺境へと追いやる。
それが、政治的な最善手だった。
「ひっ、は、はい……御意に……」
将軍は床に額を擦り付け、原形を留めない声で服従を誓った。
アルスが魔力の解放を止めると、室内の空気がふっと元に戻る。
近衛兵たちに引きずられるようにして、廃人同然となった将軍が退出していく。
執務室に再び静寂が戻った。
「見事な采配です、閣下」
背後から、セスの声が響いた。
その響きには、昨日のような失望の色はない。
恐怖で逆らう者を蹂躙する、完全な暴君の姿。
それこそが、セスの求めていたギルベルトの在り方だったのだ。
「これで、軍部の不穏な動きもしばらくは鳴りを潜めるでしょう」
セスの賞賛を聞きながら、アルスは心の中で冷たく嘲笑していた。
これでいい。
セスを騙し、軍部を黙らせ、ルミナ王国への侵攻を事実上凍結させた。
清らかな騎士としての誇りを永遠に泥へ沈め、恐怖政治の頂点に君臨する魔王となる。
自らの魂を犠牲にしてでも、故郷を守る。
執務机の表面をなでるアルスの指先は、ひどく冷たかった。
部屋の隅の影から、その一部始終を監視していたエレオノーラの放った魔法使いの気配が、静かに消えていく。
皇女の目には、今のアルスがどう映っただろうか。
手がつけられない怪物として、新たな排除の対象と見なされたかもしれない。
だが、それでいい。
この血塗られた玉座の上で、偽りの戴冠を果たした男の孤独な戦いは、まだ始まったばかりなのだから。




