第6話「水面下の亀裂」
差し込む朝日の眩しさに、アルスはゆっくりと目を開けた。
見慣れた天蓋、甘い香の匂い。
だが、決定的な違いがあった。
窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずり。
昨日の就任式の朝には、決して聞こえなかった音だ。
壁掛け時計の針が、新たな一日の始まりを告げている。
ついに、運命の分岐点を越えたのだ。
アルスは寝台の上に座り込み、両手で顔を覆った。
安堵のあまり、奥歯がカチカチと鳴る。
死の螺旋から抜け出したという実感が、じわじわと全身に染み渡っていく。
だが、感傷に浸っている時間はなかった。
ルミナ王国を救うための戦いは、ここからが本番なのだ。
身支度を整え、セスとともに執務室へと向かう。
セスの態度は昨日と変わらず、完璧な護衛としての振る舞いを崩さない。
だが、アルスの中ではすでに彼に対する警戒が最高潮に達していた。
◆ ◆ ◆
皇宮の奥深くにある最高意思決定会議室。
円形の巨大なテーブルを囲むように、軍部や財務を司る重鎮たちが席についている。
アルスが上座につくと、重々しい空気が部屋全体を包み込んだ。
「宰相閣下。ルミナ王国への最終侵攻作戦について、軍部の承認をいただきたく存じます」
軍務卿が、分厚い作戦計画書を机に叩きつけるように置いた。
大軍でルミナの王都を包囲し、一気に殲滅するという非情な作戦だ。
かつてのギルベルトなら、迷わず承認のサインをしていただろう。
だが、アルスは計画書をパラパラと捲り、冷ややかに机へ放り返した。
「承認できないな」
会議室にどよめきが走った。
「な、なぜでございますか。ルミナの戦力はすでに虫の息。今こそ息の根を止める絶好の機運」
「軍の補給線が伸びきっている。これ以上の侵攻は、莫大な戦費を垂れ流すだけだ」
アルスは財務卿の方へ視線を向けた。
「昨年度の国庫収支報告書を見たが、軍事費の割合が異常に膨れ上がっている。ルミナを焦土にしたところで、帝国に得られる利益は少ない。むしろ、あの地を経済的な属国として生かし、関税と労働力を搾取する方がはるかに国益に適う」
それは、徹夜で考え抜いた詭弁だった。
冷酷な帝国の宰相としての体裁を保ちながら、軍の進軍を止めるための唯一の論理。
「しかし、それでは軍の士気が」
「士気で飯が食えるのか、将軍。感情論で国家の財産を浪費することは、この私が許さない。作戦は白紙撤回。国境線の維持と、経済的な属国化による搾取へと方針を転換する」
抗いようのない権力による鶴の一声。
軍務卿は顔を真っ赤にして怒りを堪えていたが、反論することはできなかった。
会議を終え、アルスは疲労を隠すようにゆっくりと立ち上がる。
ルミナ滅亡の危機を、ひとまず遠ざけることに成功したのだ。
己の知略が国家を動かしたという事実に、手がかすかに震えた。
執務室への帰り道、人払いをされた回廊で、セスが唐突に口を開いた。
「閣下。本日は随分と、弱腰なご決断でしたね」
その声には、いつもの柔和さが欠けていた。
アルスは立ち止まり、振り返る。
セスの瞳は、氷のように冷たくアルスを観察していた。
「弱腰だと。国益を最優先した合理的な判断だ」
「以前の閣下であれば、あのような小国など跡形もなく焼き尽くすべきだと仰ったはずです。徹底的な恐怖による支配こそが、帝国の礎であると」
セスの言葉には、明らかな失望が混じっている。
アルスの背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。
この男にとっての理想の宰相像。
それは、冷酷無比で徹底した暴君なのだ。
そこから少しでも外れた行動をとれば、たちまち排除の対象となる。
これまでの暗殺劇が、すべてセスの手引きによるものだとすれば、今の自分の行動は彼にとって最大の反逆行為に等しい。
「私は変わったのだ、セス。より大きな盤面を見るためにな」
「……そうですか。人が変わるというのは、恐ろしいことですね」
セスは再び柔和な笑みを浮かべ、一歩下がった。
だが、その笑顔に温もりは一切ない。
危険だ。
アルスは直感する。
今日、この決断を下したことで、セスは完全に自分を敵と認定したのだ。
◆ ◆ ◆
その日の夕刻。
アルスは市街地にある視察用の別邸へ向かうため、装甲馬車に乗り込んでいた。
皇宮の堅牢な壁を出て、石畳の敷かれた大通りを進む。
向かいの席にはセスが座り、窓の外を流れる夕暮れの街並みを無表情で眺めている。
車内の空気は張り詰め、息苦しいほどの沈黙が続いていた。
大通りを外れ、少し細い路地に差し掛かったときだった。
鼓膜を突き破るような轟音。
馬車が激しく跳ね上がり、視界がぐるぐると回転する。
強烈な衝撃に全身を打ち付けられ、アルスは呻き声を上げた。
装甲馬車が横転し、ひしゃげた鉄の扉が吹き飛ぶ。
もうもうと立ち込める煙と炎。
魔法による直接的な砲撃だ。
アルスは血の滲む額を押さえながら、這いずるようにして馬車の残骸から抜け出した。
夕闇に包まれた路地裏に、十人近い黒装束の男たちが立ち塞がっている。
全員が、手に手に魔法の光を宿した杖を構えていた。
その洗練された動きは、ただの暴漢ではない。
帝国軍の特殊部隊に匹敵する統率力だ。
「閣下、お下がりください」
背後の残骸から、セスがゆっくりと姿を現す。
銀の甲冑には煤ひとつついておらず、手には抜身の長剣が握られていた。
彼が襲撃者たちを切り伏せるのか。
それとも、あの刃が自分に向くのか。
アルスは炎の熱に焼かれながら、絶望的な数的不利の中で、次なる一手を探し求めていた。
水面下で広がっていた亀裂は、ついに音を立てて砕け散ったのだ。




