第5話「真意の深淵」
麻痺していた全身の神経が、暴力的な速度で再接続されていく。
指先から這い上がるような痺れとともに、唐突に視界が開けた。
肺が痙攣し、喉の奥からひゅう、という情けない音が漏れる。
アルスはシーツを蹴り飛ばし、寝台から転げ落ちるようにして床に四つん這いになった。
毛足の長い絨毯に指を立て、何度も何度も酸素を吸い込む。
窒息の苦しみは消え去ったが、四肢の末端にはまだ氷のような冷たさが残っていた。
五度目の朝。
またしても、すべてが振り出しに戻ったのだ。
あの暗殺者の針。
緑色の毒液。
そして何より、動けなくなった自分を冷ややかに見下ろしていたセスの瞳。
もはや疑いようはなかった。
専属護衛であるセス・オブシディアンは、宰相である主の命を意図的に危険に晒している。
あるいは、彼自身がこれまでのすべての暗殺を裏で糸引いている張本人なのかもしれない。
これまでの周回で、自分は常に受け身だった。
襲い掛かってくる刃をどう躱すか、そればかりに気を取られていた。
だが、盤面そのものを支配している黒幕が傍らにいるのなら、小手先の回避など無意味だ。
根本的な戦略を変えなければならない。
アルスはふらつく足で立ち上がり、洗面台に向かった。
張られた水に顔を沈め、冷たさで無理やり意識を覚醒させる。
水滴を滴らせたまま顔を上げ、鏡の中の冷酷な瞳を睨みつけた。
敵の懐に飛び込む。
それしか道はない。
扉の外から気配が近づいてくる。
セスが毎朝の挨拶に訪れる時間だ。
アルスは急いで身支度を整え、彼がノックをするよりも早く、自ら扉を押し開けた。
「おはようございます、閣下……」
扉の向こうで、セスがわずかに目を丸くした。
完璧な仮面が一瞬だけ崩れたのを見逃さず、アルスは彼を通り越して廊下へと足を踏み出す。
「着替えは済ませた。ついてこい」
「どちらへ向かわれるのですか。本日は就任式が」
「第三皇女殿下の宮へ向かう」
振り返ることなく告げると、背後でセスの足音がわずかに遅れた。
「エレオノーラ殿下のもとへ、ですか。事前の通達もなしに訪問されるのは、礼を失するかと存じますが」
「構わん。緊急を要する事態だ」
アルスは早足で皇宮の広大な廊下を進む。
セスを遠ざけることはできない。
彼が黒幕であるなら、常に目の届く範囲に置いてその行動を制限する必要がある。
同時に、この巨大な宮廷内でギルベルトの権力に対抗し得る存在を巻き込む。
それが、次期皇帝の座を狙う野心家、エレオノーラ皇女だった。
◆ ◆ ◆
彼女の宮殿に到着すると、色めき立つ侍女たちを押し除け、アルスは強引に面会を要求した。
ほどなくして通された応接室は、燃えるような真紅の調度品で統一されていた。
壁には大ぶりな剣の飾りが掛けられ、床には魔獣の毛皮が敷き詰められている。
皇族の私室というよりは、将軍の野戦幕僚陣のような趣があった。
「朝から随分と野蛮な振る舞いね、宰相閣下」
ガウン姿のエレオノーラが、不機嫌そうにソファに腰を下ろす。
彼女の背後には、護衛の上級魔法使いが油断なく杖を構えていた。
アルスはセスに部屋の外で待機するよう命じ、エレオノーラと相対する。
「無礼を詫びるつもりはありません。殿下にとって、極めて有益な情報を持参しました」
「有益な情報。あなたが私に」
「本日の祝賀会において、私への暗殺計画が複数進行しています。一つはヴェイン伯爵による毒殺。もう一つは庭園での魔道爆弾によるテロ。そして夜には、他国からの刺客が執務室を襲撃する手はずになっています」
一息に告げられた内容に、エレオノーラの赤い瞳がわずかに見開かれた。
「随分と具体的な妄想ね。それが事実だとして、なぜ私に教えるの。あなたが一人で死ねば、私にとってはこれ以上ない有益な結果になるのだけれど」
「私が死ねば、その暗殺の罪はすべて殿下に着せられます。ヴェイン伯爵の背後にいるのは、殿下と敵対する第二皇子派です。彼らは宰相暗殺の混乱に乗じて、皇女殿下の派閥を一網打尽にする計画を立てています」
半分は推測だが、政治的な力学を考えれば十分にあり得るシナリオだった。
エレオノーラは扇を閉じ、顎に手を当てて思考を巡らせる。
彼女の優秀な頭脳なら、アルスの言葉が単なる脅しではないことを瞬時に理解するはずだ。
「それで。私に何を求めているの」
「殿下の影に属する暗部を動かし、これらの脅威を未然に排除していただきたい。私の近衛兵や護衛は、すでに信用できない状態にあります」
「自分の手駒すら掌握できていないのね。無能なこと。でも、悪い取引ではないわ」
エレオノーラは冷たい笑みを浮かべ、背後の魔法使いに目配せをした。
これで、少なくとも今日一日の安全は、皇女の強力な暗殺部隊によって担保された。
アルスは応接室を後にし、扉の外で控えていたセスと合流する。
セスの表情は相変わらず穏やかだったが、アルスを見るその瞳の奥には、明らかな探るような光が宿っていた。
自分が何の手を打ったのか、セスにはわからないはずだ。
盤面の主導権を、ついにこちらが握った。
◆ ◆ ◆
祝賀会は、これまでの周回とは全く異なる様相を呈した。
アルスが広間に姿を現す前から、ヴェイン伯爵はエレオノーラの暗部によって密かに拘束され、姿を消していた。
庭園に潜伏していた自爆テロの少女も、魔法によって音もなく処理されたという報告が届いている。
アルスは玉座の傍らに立ち、滞りなく進む就任式を静かに見下ろしていた。
広間には重厚な音楽が流れ、貴族たちが次々と恭順の意を示していく。
背後に立つセスは、予定されていた暗殺劇が一切起こらないことに対し、いかなる感情を抱いているのだろうか。
振り返ってその顔を確認したい衝動に駆られたが、アルスはぐっと堪えた。
まだ、勝ったわけではない。
夜の執務室襲撃を乗り越えなければ、この一日は終わらない。
深夜の執務室。
窓の外には深い闇が広がっている。
アルスは机に向かい、書類に目を通すふりをしながら感覚を研ぎ澄ませていた。
部屋の四隅には、エレオノーラが貸し与えた影の魔法使いが潜伏している。
窓ガラスが、音もなく溶け落ちた。
黒装束に身を包んだ小柄な影が着地した瞬間。
四方向から放たれた不可視の魔力刃が、暗殺者の四肢を壁に縫い付けた。
くぐもった悲鳴が響き、鋼糸と毒針が床に転がり落ちる。
「捕らえろ」
アルスが命じると、影の魔法使いたちが暗殺者を取り押さえた。
背後で控えていたセスが、初めて驚愕の色を顔に浮かべる。
「閣下、これは一体」
「私の命を狙うネズミだ。尋問にかける」
アルスは暗殺者の顎を掴み、顔を上げさせた。
しかし、その直後、暗殺者の口から泡が吹き出す。
奥歯に仕込んでいた毒を噛み砕いたのだ。
痙攣が全身を走り、数秒と経たずに暗殺者は息絶えた。
黒幕を聞き出すことはできなかった。
だが、アルスは深く安堵の息を吐き出した。
生き延びたのだ。
すべての暗殺を回避し、ついにその日の夜を越えることができた。
冷たい夜風が吹き込む執務室で、アルスは初めて勝利の美酒に酔いしれた。




