第4話「反逆の業火を越えて」
肉を焦がす熱の幻影が、全身の神経を駆け抜けた。
アルスは寝台の上で大きく跳ね起き、乱れた呼吸を必死に整える。
汗が目に入り、視界がにじんだ。
両手を震えさせながら自身の胸や顔をまさぐる。
皮膚は滑らかで、火傷の痕ひとつない。
豪華な天蓋の下、またしても就任式当日の朝に戻ってきたのだ。
四度目の目覚め。
喉の奥には、吸い込んだ熱風の感覚がまだ生々しく張り付いている。
死の記憶が蓄積されるたびに、アルスとしての自我が擦り切れ、ギルベルトという存在の暗い影に飲み込まれそうになる。
故郷を愛した誇り高き騎士の精神が、冷酷な宰相の権力と死の恐怖によって汚されていく。
このままでは、精神が崩壊するのが先か、本当の死を迎えるのが先か。
焦燥感が、じわじわと理性を侵食し始めていた。
扉が開く。
セスの登場、そして寸分違わぬ朝の挨拶。
アルスは何も答えず、ただ冷酷な視線を彼に向けた。
言葉を交わす気にもなれなかった。
この男が黒幕である確証はないが、すべての死の背後に、不自然なほど周到な誘導の気配を感じる。
ヴェイン伯爵の毒、近衛兵の短剣、そして侍女の自爆テロ。
背後関係が全く異なる三つの暗殺が、まるで一つの線で繋がっているかのように、アルスの選択を先回りして襲い掛かってくるのだ。
まるで、誰かがアルスの行動パターンを観察し、次々と新しい罠を仕掛けているかのような不気味さがあった。
「セス。執務室へ向かう」
着替えを終えるなり、アルスは命令を下した。
予定されていた祝賀会の準備を無視し、早足で自室を出る。
「お待ちください、閣下。本日は就任式が」
「黙って従え」
低い声で威圧すると、セスはそれ以上口を開かなかった。
執務室に到着したアルスは、分厚い羊皮紙の束を広げ、帝国の警備体制と各派閥の動向を頭の中に叩き込む。
地図上に引かれた境界線、各貴族の領地と兵力、そして国庫の収支報告。
どれもルミナ王国には存在しなかった、桁違いの数字が並んでいる。
この巨大な帝国を動かしているのは、魔法の力だけではない。
緻密に計算された官僚機構と、血も涙もない政治的搾取だ。
後手に回れば殺される。
ならば、先手を打ってすべての脅威を物理的に排除するしかない。
アルスは羽根ペンを手に取り、次々と冷酷な命令書をしたためていった。
一つ。ヴェイン伯爵の即刻拘束と、その一族の資産凍結。
二つ。回廊警備を担当する近衛兵部隊の全面入れ替えおよび、該当兵士の苛烈な尋問。
三つ。庭園周辺に出入りするすべての使用人の身辺調査と、不審者の即時排除。
これまでの周回で得た情報を元に、暗殺の芽を根こそぎ摘み取るための布石だ。
命令書を受け取ったセスの瞳が、わずかに細められた。
「……閣下。これでは、あまりにも反発が大きすぎます。確たる証拠もなしに大貴族を拘束すれば、宮廷内が修復不可能な混乱に陥ります」
「私の決定に異を唱えるのか」
「滅相もございません。ですが、これほどの強権発動は、かえって閣下の御身を危うくするやもしれません」
「実行しろ。今日中にだ」
アルスの有無を言わせぬ態度に、セスは深く一礼して執務室を辞した。
彼が部屋を出ていくのを待ち、アルスは背もたれに深く身体を沈めた。
強権の発動は、諸刃の剣だ。
帝国内に新たな敵を生み出すことになる。
罪のない者まで巻き込むかもしれない。
騎士としての良心が、胸の奥で鋭く痛んだ。
だが、まずは今日という日を生き延びなければ、ルミナ王国を救うという最大の目的すら果たせないのだ。
正義を捨ててでも、今は悪に染まりきるしかない。
机の引き出しから白紙を取り出し、今度は故郷を救うための軍事命令書の起草に取り掛かる。
国境地帯に展開している帝国軍の進軍停止。
食糧補給の遅れというもっともらしい理由を並べ立て、宰相の権限で前線部隊の足を止めるのだ。
総司令官であるバルツ将軍への親書を偽造し、可能な限りの時間を稼ぐ。
ペンを走らせる手のひらには、じっとりと冷たい汗がにじんでいた。
◆ ◆ ◆
時間が経つにつれ、宮廷内はアルスの下した苛烈な粛清によって恐怖と混乱の渦に巻き込まれていた。
祝賀会は形ばかりのものとなり、誰もが宰相の影に怯えて言葉を少なにした。
エレオノーラ皇女ですら、アルスの常軌を逸した行動に警戒を強め、遠くから探るような視線を向けるにとどまった。
夕闇が皇宮を包み込み、ようやく一日の公務が終わる。
アルスは静まり返った執務室で、一人机に向かっていた。
すべての暗殺を未然に防ぎ、訪れた静寂。
これで、明日を迎えることができる。
そう安堵しかけたときだった。
窓ガラスが、音もなく溶け落ちた。
夜風が部屋に吹き込み、卓上の羊皮紙が乱舞する。
窓枠に音もなく着地したのは、黒装束に身を包んだ小柄な影だった。
『まだ、いるというのか』
アルスは瞬時に立ち上がり、机の引き出しに隠してあった護身用の短剣を引き抜く。
侵入者は言葉を発することなく、手首を軽く振った。
月明かりに反射して、極細の鋼糸が鋭い軌道を描いて襲い掛かってくる。
他国の間者。
あるいは、粛清を逃れた派閥の雇った凄腕の殺し屋か。
アルスは短剣で鋼糸を弾き飛ばすが、細い刃は金属の糸に絡め取られ、力ずくで手放させられた。
丸腰になったアルスに対し、暗殺者は無駄のない動きで間合いを詰める。
その手には、緑色の液体が塗布された短い針が握られていた。
「させるか」
アルスは机を蹴り飛ばし、相手の体勢を崩そうとする。
インク壺が床に落ちて砕け、黒い液体が絨毯に染み込んでいく。
しかし、暗殺者は軽やかに宙を舞い、机の破片を足場にしてアルスの胸元へと肉薄した。
避ける間もなかった。
首筋に、ちくりとしたかすかな痛みが走る。
ただそれだけだった。
だが、次の瞬間、全身の筋肉が意志を無視して硬直した。
膝から崩れ落ち、冷たい床に顔を打ち付ける。
「任務完了」
暗殺者のくぐもった声が聞こえる。
指先ひとつ動かせないまま、アルスは床に倒れ伏した。
神経毒。
呼吸すら麻痺し、窒息していく苦しみが怒涛のように押し寄せる。
肺が酸素を求めて痙攣し、口の端から泡がこぼれ落ちた。
薄れゆく意識の中で、静かに開かれた執務室の扉の方へ視線を動かす。
そこに立っていたのは、セスだった。
騒ぎを聞きつけて駆けつけたはずの彼は、やはり剣を抜くことなく、ただ冷ややかに主の最期を見届けている。
『お前が、手引きしたのか……』
声にならない絶望の問いは、虚空に溶けて消えた。
あらゆる手を尽くしても、死の運命からは決して逃れられない。
抗いようのない無力感とともに、アルスは四度目の深く冷たい闇へと堕ちていった。




