第3話「忠誠という名の檻」
唐突に肺が限界まで膨張し、空気を貪り食うように喉の奥が引き攣った音を立てた。
目を見開くと、視界を覆い尽くしているのは見飽きた寝室の風景だ。
背中には嫌な汗がびっしりと張り付き、心臓が肋骨を内側から叩き割らんばかりに乱打している。
腹部を深く切り裂かれた熱と絶望は、とうに幻となって消え失せていた。
しかし、魂の根底に刻み込まれた死の感触だけが、重い鉛のように沈殿している。
三度目の朝。
アルスは声を出さず、ただ静かに奥歯を噛み締めた。
身体を起こすことすらひどく億劫だった。
この完璧に整えられた空間そのものが、自分を外の世界から切り離す巨大な牢獄のように感じられる。
枕元の精緻な木彫りの装飾をなぞる指先が、かすかに震えていた。
生き延びるための最適解を導き出したはずだった。
最初の死因であった毒を回避し、政敵を完膚なきまでに排除した。
それなのに、死の運命は容赦なく別の形で牙を剥いたのだ。
盤上の駒を動かしたつもりが、自分自身が誰かの手の上で踊らされているに過ぎないのではないか。
そんな疑念が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。
ガルマディア帝国は、魔法の才を絶対的な身分基準とする歪な社会構造を持っている。
貴族階級に連なる者は、例外なく強力な魔力を宿しており、その力の強さがそのまま政治的な発言力に直結していた。
中でも、若くして宰相の座に登り詰めたギルベルト・フォン・オブシディアンの魔力は群を抜いている。
過去の歴史を紐解いても類を見ないほどの膨大な魔力。
それは帝国軍の一個師団に匹敵するとさえ噂されていた。
だが、今のギルベルトの中身は、しがない小国の騎士に過ぎないアルスだ。
魔法など一度も使ったことがなく、剣の腕と忠誠心だけで生き抜いてきた男である。
血脈を駆け巡るこの途方もない熱量を、どう扱えばいいのか全くわからない。
強力すぎる武器は、使い手を選ばなければ単なる自爆装置でしかないのだ。
己の内に潜む爆弾に怯えながら、同時に外からの凶刃にも警戒しなければならない。
扉の向こうで、かすかな衣擦れの音が響く。
足音すら立てないその気配の主を、アルスはすでに知っている。
「失礼いたします、閣下」
寸分の狂いもないタイミングで、扉が開かれた。
朝の光を背にして、セスが姿を現す。
その顔に張り付いたような柔和な笑みを見るだけで、アルスの内側に底知れぬ疑念が渦を巻く。
あの暗殺者の凶刃が迫ったとき、なぜこの男は間に合わなかったのか。
一級の武芸者であるはずの彼が、あんな素人じみた刺客の動きを見逃すはずがない。
あえて見捨てたのではないかという推測が、毒のように思考を侵食していく。
「セス」
着替えのために近づいてきた青年の名を、低く呼び捨てにした。
「はい。何なりと」
流れるような動作で漆黒の礼服のボタンを留めようとするその手を、アルスは無言で払いのけた。
セスがかすかに目を見開く。
「……私の護衛はお前一人か」
「はい。閣下の御身は、この私が命に代えてもお守りいたします」
澱みない返答。
アルスはセスの目を射抜くように見つめた。
その澄み切った瞳の奥にあるはずの、冷酷な真意を探り出そうとする。
しかし、表面上の態度はどこまでも忠実な臣下のそれだった。
呼吸の乱れも、視線の揺らぎもない。
「その言葉、決して忘れるなよ」
「もちろん、でございます」
深く一礼するセスの頭頂部を見下ろしながら、アルスは密かに息を吐いた。
今はこれ以上問い詰めても無意味だ。
敵は一人ではない。
この広大な皇宮に潜む、数え切れないほどの悪意が、ギルベルトという存在の命を狙っている。
◆ ◆ ◆
本日の行動予定を全面的に変更する。
そう決意したアルスは、祝賀会での立ち回りを大幅に簡略化した。
大広間に足を踏み入れた瞬間、ヴェイン伯爵が近づいてくるよりも早く、近衛兵に命じて彼を拘束させた。
国家への反逆の意図ありという苛烈な理由を告げたが、誰も宰相の決定に異を唱える者はいない。
毒入りの酒杯は、披露されることなく床に落ちた。
周囲の貴族たちが青ざめて後退する中、ひとりの人物だけが拍手をしながら近づいてきた。
「見事な手際ね、宰相閣下」
燃えるような赤い瞳を持つ少女。
帝国第三皇女、エレオノーラ・ガルマディアだった。
真紅のドレスの裾を揺らしながら、彼女はアルスの正面に立つ。
彼女の背後には、常に数人の上級魔法使いが影のように付き従っている。
皇位継承権を持つ者としての威厳と、他者を平然と見下す傲慢さが、その小さな身体から立ち昇っていた。
「就任の祝いも受けずに政敵を排除するとは。随分と性急なこと」
「帝国の腐敗を取り除くのに、時と場所を選ぶ必要はありません、殿下」
アルスは感情を交えずに返答する。
エレオノーラは扇で口元を隠し、目を細めた。
「ふふ。まるで別人のように冴え渡っているわ。これまでのあなたなら、彼を泳がせてからより残酷な方法で追い詰めたはずなのに。それとも、辺境の小国を滅ぼしたことで、血の匂いに飢えでもしたのかしら」
「ルミナ王国への侵攻は、帝国の国益を最優先に考えた結果に過ぎません」
自らの故郷を滅ぼした理由を、自らの口で肯定しなければならない。
胃袋の奥が焼け焦げるような屈辱感がせり上がってきたが、アルスは鉄の意志でそれを押さえ込んだ。
表情筋ひとつ動かさず、ただ冷酷な宰相としての仮面を保ち続ける。
「そう。なら、その高い場所から足を踏み外さないように気をつけることね。狩る側だと思っていた獣が、いつの間にか狩られる側に回っていることなんて、この宮廷では日常茶飯事よ。下には無数の槍が上を向いて待ち構えているわ」
意味深な言葉を残し、エレオノーラは背を向けて立ち去っていった。
彼女の忠告は、暗殺の危機が至る所に潜んでいるという事実を、残酷なほど正確に言い当てていた。
◆ ◆ ◆
祝賀会を早々に切り上げ、アルスは帰路につく。
向かったのは、暗殺者が潜んでいたあの薄暗い交差路ではない。
中庭を通る別ルートを選択したのだ。
手入れの行き届いた生垣が迷路のように入り組む庭園には、夜風が冷たく吹き抜けている。
月明かりが白い石畳を照らし出し、視界は十分に開けていた。
季節外れの青い薔薇が咲き乱れ、甘ったるい香りが鼻をつく。
死と隣り合わせの状況には似つかわしくない、美しすぎる空間だった。
ここなら、奇襲を受ける心配はない。
背後を歩くセスとの距離を一定に保ちながら、アルスは歩みを進める。
「閣下」
不意に、進行方向から声が掛かった。
生垣の切れ目から姿を現したのは、ひとりの見習い侍女だった。
両手にはリネンが山のように積まれた籠を抱え、ひどく怯えた様子で立ちすくんでいる。
「も、申し訳ございません。道に迷ってしまい……」
震える声で弁明する少女。
その姿は、どこからどう見てもただの使用人に過ぎない。
しかし、アルスの騎士としての直感が、けたたましく警鐘を鳴らした。
この厳重な警備が敷かれている夜の庭園に、見習いの侍女が一人で迷い込むはずがない。
そもそも、彼女の足元には土埃ひとつついていない。
迷い歩いた形跡が欠落しているのだ。
「下がれ」
アルスは冷たく言い放ち、歩みを止めなかった。
関わり合いになる前に、この場を立ち去るべきだ。
だが、少女は逃げるどころか、すがるような視線を向けて一歩前へ出た。
「どうか、お許しを」
足をもつれさせ、彼女の抱えていた籠が派手にひっくり返る。
真っ白な布が石畳に散乱した。
その布の隙間から、鈍い光を放つ手のひらほどの金属球が転がり出てきた瞬間。
『魔道爆弾』
帝国の軍事技術の結晶であり、平民には到底手に入らない代物。
アルスがそれに気づいたときには、少女の顔から怯えの色は消え去っていた。
代わりに浮かんでいたのは、虐げられた平民の、貴族に対する狂信的な憎悪。
「帝国の犬め、死ね」
少女が金属球に触れた途端、目も眩むような閃光が弾けた。
爆風が周囲の空気を一瞬で灼き尽くし、轟音とともに衝撃波が襲い掛かる。
アルスは両腕で顔を覆い隠そうとしたが、爆炎は容赦なく黒い礼服を飲み込んだ。
皮膚が焼け焦げ、肺の中に熱風がなだれ込んでくる。
後方からセスの叫び声が聞こえたような気がしたが、もはや振り返る余裕はなかった。
全身の細胞が炭化していく凄絶な苦痛。
視界が真っ赤に染まり、やがてすべてが灰色の灰となって崩れ落ちていく。
三度目の死は、あまりにも唐突で、暴力的な熱量に満ちていた。




