第2話「盤上の死角」
ふっと現実に引き戻される。
重苦しいまぶたを持ち上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れぬ豪華な天蓋だった。
上質な絹が滑らかな光沢を放ち、部屋の隅からは甘く重たい香の匂いが漂ってくる。
荒い息を吐き出しながら、跳ね起きるように上半身を起こした。
全身が冷や汗で濡れている。
肺いっぱいに空気を吸い込むと、確かに酸素が胸を満たした。
内臓をかき回されるような激痛は、どこにもない。
手のひらを顔に当てる。
冷たい皮膚。
頬には、グラスの破片が突き刺さった傷跡すらない。
部屋の隅にある姿見には、やはり銀色の髪と青い瞳を持つギルベルトの顔が映っていた。
夢ではない。
あの凄絶な苦痛も、喉からあふれ出した血の熱さも、すべてが鮮明に脳裏に焼き付いている。
自分は毒殺され、そして再び、この就任式当日の朝に戻ってきたのだ。
扉を叩く音が、静寂を破る。
「失礼いたします、閣下」
返事を待たずに静かに開かれた扉から、ひとりの青年が入ってくる。
磨き上げられた銀の甲冑。
柔和な笑み。
ギルベルトの専属護衛である、セス。
すべてが、先ほどと全く同じ手順で繰り返されている。
「本日は宰相就任の祝賀会がございます。お召し物の準備は整っております」
セスの一言一句違わぬ言葉を聞きながら、アルスはシーツを強く握りしめた。
死の螺旋。
原因はわからないが、自分は死ぬたびにこの時間に戻ってくるらしい。
ならば、生き延びるしかない。
この不可解な現象の謎を解き明かし、故郷のルミナ王国を救う道を探るために。
セスが差し出す黒の礼服に袖を通す。
一回目のときよりも、落ち着いて行動できている自分がいた。
血脈を駆け巡る巨大な魔力の感覚にも、ある程度は心の準備ができている。
暴走させないように、ただひたすらに意識を静め、力を奥底へと押し込める。
額ににじんだ汗をセスが白い布で拭い取る。
その指先の動きすら、今は警戒の対象だった。
「お加減でも悪いのですか、閣下」
セスの問いかけに、アルスは鋭い視線を返す。
一回目のときには見せなかった反応だ。
わずかな沈黙が落ちる。
セスの微細な表情の変化を読み取ろうとしたが、あの完璧な微笑みが崩れることはなかった。
「問題ない。行くぞ」
短く言い捨て、部屋を出る。
セスの微かな戸惑いの気配を背中に感じながら、アルスは歩みを進めた。
◆ ◆ ◆
馬車での移動中、アルスは頭の中で作戦を練っていた。
差し迫る危機は、祝賀会での毒殺だ。
ヴェイン伯爵が差し出す酒を飲まなければいい。
だが、ただ拒絶するだけでは周囲に疑念を抱かせる。
宰相としての権力を利用し、敵を封じ込める必要がある。
魔法が使えない以上、頼れるのは政治的な圧力と知略だけだ。
帝国の権力構造を思い出しながら、ヴェイン伯爵の背後にいる勢力を探る。
伯爵は単なる使い走りに過ぎないはずだ。
真の黒幕は別にいる。
窓の外を流れる豊穣な帝都の景色を眺めながら、アルスは静かに闘志を燃やしていた。
再び足を踏み入れた大広間。
シャンデリアの光、肉と香水の匂い、ざわめきが静まる瞬間。
すべてが記憶の通りに進行していく。
畏怖と敵意の視線を浴びながら、アルスは広間の中央へと進む。
一段高い場所からこちらを睨みつけるエレオノーラ皇女の視線が、物理的な重さを持って突き刺さった。
彼女の赤い瞳には、明らかな侮蔑の色が混じっている。
アルスは彼女の視線を真っ向から受け止め、わずかに顎を引いて見せた。
エレオノーラがかすかに眉をひそめ、不快そうに視線を逸らす。
そのやり取りの直後だった。
「閣下、この度のご就任、誠におめでとうございます」
ふくよかな体型のヴェイン伯爵が、愛想笑いを浮かべて近づいてきた。
額ににじむ汗も、差し出される二つのグラスも、一回目の記憶と寸分違わない。
アルスはグラスを受け取らなかった。
ただ冷ややかに、ヴェイン伯爵の目を見据える。
沈黙が落ちた。
周囲の貴族たちが、何事かと息を呑む気配が波紋のように広がっていく。
「その酒は、誰が用意したものだ」
低く、響き渡る声で問いかける。
ヴェイン伯爵の顔から、愛想笑いが引き剥がされた。
「え、あ、わたくし自ら厳選した葡萄酒でございます」
「ほう。私を祝うための酒だと言うのなら。まずは卿自身が、そのグラスを空けてみせよ」
広間の空気が凍りついた。
ヴェイン伯爵のふくよかな頬が、みるみるうちに土色に変わっていく。
額から噴き出した汗が、震える顎を伝って床に落ちた。
彼の喉仏が大きく上下し、ひきつった唇からは意味のある言葉が紡がれない。
グラスを持つ手がカタカタと震え、銀の盆が耳障りな音を立てる。
周囲の貴族たちは事態を察し、血の気を引かせて後退した。
「飲めないのか」
アルスの静かな声が、大広間に響く。
もはや言い逃れはできなかった。
ヴェイン伯爵は悲鳴のような声を上げ、盆を放り出した。
ガシャーン、という音とともにグラスが砕け、赤い液体が床に広がる。
甘い香りが立ち昇り、猛毒が混入されていることは誰の目にも明らかだった。
「捕らえよ」
アルスが短く命じると、控えていた近衛兵たちが一斉に伯爵を取り押さえた。
床に引き倒され、無様に命乞いをする声が遠ざかっていくのを、アルスは無表情で見送る。
背後で、セスがわずかに息を呑む気配がした。
「見事な采配でございます、閣下」
セスの言葉には、一回目のときにはなかったかすかな熱がこもっていた。
だが、アルスは警戒を解かない。
あの死の瞬間に見せた、セスの冷ややかな瞳を忘れることはできない。
この賞賛の言葉も、どこまでが本心なのかわからなかった。
◆ ◆ ◆
祝賀会は重苦しい空気のまま幕を閉じた。
自室へと続く長い回廊を歩きながら、アルスは密かに深い息を吐き出した。
冷たい石造りの壁に肩を預けたくなるほどの疲労感が、足取りを重くしている。
政治という名の戦場は、剣を振るうよりもはるかに精神をすり減らした。
だが、最初の危機は乗り越えたのだ。
ここからルミナ王国を救うための手を打つことができる。
背後から、セスの規則正しい足音がついてくる。
回廊を照らす魔石の灯りが、二人の影を長く伸ばしていた。
その影が、交差路に差し掛かった瞬間のことだった。
空気の揺らぎ。
騎士としての勘が、強烈な危機感を知らせる。
柱の陰から、黒い影が唐突に分離した。
近衛兵の制服を着た男。
しかしその手には、儀礼用の剣ではなく、黒くくすんだ短剣が握られている。
『暗殺者』
アルスは咄嗟に身を躱そうとした。
だが、ギルベルトの身体は騎士の反応速度についてこない。
重厚な礼服が足に絡みつき、姿勢が崩れる。
魔法を使おうという考えすら、咄嗟には浮かばなかった。
男が踏み込む。
音を置き去りにしたような鋭い突きが、アルスの横腹に迫る。
「閣下」
セスの声が響いた。
剣を抜く甲高い音が回廊に響き渡る。
だが、遅かった。
刃が肉を裂く、嫌な感触が全身を貫いた。
肋骨の間をすり抜け、内臓を深く切り裂く。
鋭い痛みが遅れて到達し、アルスは壁に激突して崩れ落ちた。
熱い血が止めどなくあふれ出し、黒い礼服をさらに黒く染め上げていく。
薄れゆく視界の中で、セスが暗殺者を一刀両断する光景が見えた。
鮮血が石畳を濡らす。
「……申し訳ございません。私の、不徳の致すところでございます」
セスは剣を振り払い、倒れ伏すアルスの傍らにひざまずいた。
その声は悲痛に震えているように聞こえる。
だが、アルスの目には、セスの瞳の奥にある冷酷な光がはっきりと見えていた。
なぜ、あの距離で間に合わなかったのか。
セスの腕前なら、暗殺者が動く前に斬り捨てることもできたはずだ。
疑念が渦巻く中、再び急激に体温が奪われていく。
血の池に沈みながら、アルスは二度目の死を迎えた。




