第1話「終焉と始まりの毒」
ふっと現実に引き戻される。
重苦しいまぶたを持ち上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れぬ豪華な天蓋だった。
上質な絹が滑らかな光沢を放ち、部屋の隅からは甘く重たい香の匂いが漂ってくる。
ここは戦場ではない。
冷たい泥に顔を沈めた記憶が、脳裏にこびりついている。
降り注ぐ冷雨が血の匂いを薄め、しかし死の気配だけは濃厚に漂っていたあの戦場ではないのだ。
傷ついた仲間たちのくぐもったうめき声。
喉を焼くような硝煙と鉄の臭い。
ルミナ王国を守るための戦いは、絶望的な敗北に終わった。
空を覆い尽くすほどの軍勢と地鳴りを上げる魔法を操る帝国軍の前に、小国の騎士団は為す術もなく蹂躙された。
燃え盛る城壁。
悲鳴を上げて逃げ惑う民衆。
泥にまみれ、折れた剣を握りしめたまま息絶えた戦友たちの顔。
胸を貫かれた鋭い刃の冷たさを、今もはっきりと覚えている。
敬愛する主君を逃がすための盾となり、騎士アルスとしての生はあの泥の中で確かに終わったはずだった。
死の淵で最後に見たのは、帝国軍の旗が故郷の城に翻る光景。
己の無力さへの怒りと、守るべきものを守れなかった絶望が、冷たい泥の感触とともに魂に刻み込まれている。
上半身を起こすと、寝台の軋む音が不自然に大きく響いた。
手のひらを顔に当てる。
皮膚の温度が、やけに低い。
自分の手ではないような違和感が指先から這い上がってくる。
絹の掛け布団を跳ね除け、ふらつく足取りで部屋の隅にある大きな姿見へと向かった。
磨き上げられた鏡面に映っていたのは、アルスではない。
鏡に映る男の顔を、穴があくほど見つめる。
青白いほどに透き通った肌。
感情の起伏を一切感じさせない、鋭角的な顎のライン。
銀色の髪が、窓から差し込む冷たい朝日に透けている。
氷のように冷酷な青い瞳が、鏡の向こうからこちらを見つめ返していた。
ギルベルト・フォン・オブシディアン。
ガルマディア帝国の若き宰相。
ルミナ王国を蹂躙し、数多の命を奪うよう指示を下した張本人。
その憎悪すべき敵国の権力者の顔が、今の自分自身の顔だった。
アルスは怒りのあまり、鏡の中の自分自身に向かって拳を振り上げそうになる。
だが、振り上げた手は空を切って震えるだけだった。
息を呑む。
冷たい空気が肺を満たし、混乱が渦を巻く。
なぜ自分がこの男の身体に宿っているのか、全く理解が追いつかない。
神の悪戯か、それとも悪魔の呪いか。
故郷を救えなかった強い後悔と、自らの命を犠牲にしてまで生かしてくれた者たちへの罪悪感が、胸の奥で黒く渦巻いている。
もし、この時間が本当に巻き戻っているのだとしたら。
もし、ルミナ王国が滅亡する前の時間軸に存在しているのだとしたら。
狂気に近い希望が、冷え切った胸の奥で小さな火種となって瞬いた。
扉を叩く音が、静寂を破る。
「失礼いたします、閣下」
返事を待たずに静かに開かれた扉から、ひとりの青年が入ってくる。
磨き上げられた銀の甲冑に身を包み、腰には長剣を佩いている。
柔和な笑みを浮かべたその男は、ギルベルトの専属護衛であるセスだった。
『落ち着け』
アルスは心の中で自分に強く言い聞かせる。
今はギルベルトとして振る舞わなければ、すぐに狂人として処理されるか、最悪の場合は殺される。
喉の奥の渇きを堪え、なるべく低く、威厳のある声を意識して口を開いた。
「ああ。入れ」
声帯の震え方が、記憶にある自分のものとは全く違う。
セスは数歩の距離を取り、優雅な動作で一礼した。
「本日は宰相就任の祝賀会がございます。お召し物の準備は整っております」
就任式。
アルスの記憶と照らし合わせれば、ルミナ王国が陥落する数ヶ月前の出来事だ。
時間が巻き戻っている。
それも、敵国の宰相の身体として。
セスが差し出した重厚な黒の礼服に袖を通す。
黒曜石を削り出したボタンが留められるたび、首元が締め付けられるような息苦しさを覚える。
漆黒の布地には、帝国の象徴である双頭の鷲が銀糸で緻密に刺繍されていた。
分厚い生地の重みが、そのまま帝国の権力の重さのように感じられる。
衣服を着せられる間、アルスは自身の内側に眠る異質な力に気づく。
底知れぬ巨大な魔力が、血脈の中を駆け巡っている。
呼吸をするたびに、肺の奥で静電気のようなピリピリとした刺激が走る。
まるで休火山のように静かに、しかし肌を焦がすほどの熱量を持ってそこに存在していた。
この力が一度解放されれば、周囲のすべてを灰に帰すだろう。
魔法の才が貴族の条件である帝国において、ギルベルトは最高峰の魔力を持っているはずだ。
だが、ただ剣を振るうことしか知らなかった騎士アルスの魂には、その力を制御する術が全くわからない。
もし今、魔法を使おうとすれば、力の奔流に飲み込まれて暴走し、自滅する未来しか見えない。
魔力という最大の武器をもがれた状態で、この血で血を洗う権力闘争の渦に身を投じなければならない。
背筋が凍るような緊張感が、全身の産毛を逆立てた。
わずかな表情の変化すらも命取りになる。
ギルベルトとしての冷徹な仮面を、皮膚の下に縫い付けるように意識した。
◆ ◆ ◆
馬車に揺られながら、窓の外を流れる帝都の街並みを眺める。
巨大な石造りの建物が立ち並び、整備された大通りを行き交う人々は豊かな衣服をまとって笑い合っている。
沿道に並ぶ街路樹は美しく刈り込まれ、どこを見渡しても豊かさと繁栄の象徴であふれていた。
炎に包まれ、悲鳴に満ちていたルミナの光景と重なり、胸の奥が冷たくなる絶望を感じた。
同じ空の下で、一方は絶望に泣き叫び、もう一方は勝利と繁栄を享受している。
向かいの席に座るセスは、窓の外から視線を外し、ただ静かにこちらを見つめている。
車輪が石畳を叩く規則正しい音だけが、車内の沈黙を埋めていた。
セスの瞳は深く澄み切っており、一見すると疑う余地のない忠誠を誓う騎士のそれにしか見えない。
だが、その穏やかな微笑みの奥に何が隠されているのか、今のアルスには読み取ることはできない。
敵地の真ん中、唯一味方と思えるこの男すら、真の意味で信用することはできなかった。
皇宮の広大な大広間には、色とりどりのドレスや礼服に身を包んだ貴族たちがひしめき合っていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアの眩い光が、無数に行き交うグラスの表面で乱反射している。
焼き上げられた肉の香ばしい匂いと、濃厚な香水の匂いが混ざり合い、息が詰まるほどの熱気を生み出していた。
華やかな管弦楽が響き渡る中、ギルベルトが姿を現すと、広間のざわめきが波が引くように静まる。
人々は慌てて道を空け、深々と頭を下げた。
畏怖と、隠しきれない敵意。
それが、若くして宰相の座に就いたこの男への、帝国貴族たちの偽らざる評価だった。
誰もが目を伏せる中、ただ一人だけ、真っ向からこちらを見据えている者がいた。
広間の奥、一段高い場所からこちらを見下ろしている少女がいる。
帝国第三皇女、エレオノーラ・ガルマディア。
黄金の髪を複雑に結い上げ、燃えるような赤い瞳でギルベルトを睨みつけている。
華奢な身体を包む真紅のドレスは、彼女の内に秘めた激しい闘志を体現しているようだった。
次期皇帝の座を狙う野心家である彼女にとって、強大な権力を握るギルベルトは最大の政敵なのだ。
「閣下、この度のご就任、誠におめでとうございます」
ふくよかな体型の貴族が、愛想笑いを浮かべて近づいてきた。
ヴェイン伯爵。
対立派閥の急先鋒として知られる男だ。
額にうっすらと汗をにじませながら、彼は精緻な細工が施された銀の盆に載せられた二つのグラスを差し出した。
ギルベルトとしての尊大さを崩さぬよう、アルスはゆっくりとグラスを手に取る。
「ご苦労」
短く応じ、グラスを口元へ運ぶ。
毒見役を通していない酒を飲むことのリスクは承知していたが、ここで怯む姿を見せれば、周囲の貴族たちに付け入る隙を与えることになる。
騎士としての勘が、かすかに警鐘を鳴らしていた。
だが、権力を誇示しなければならないという重圧が、その警鐘を強引にかき消す。
芳醇なぶどうの香りが鼻を抜け、冷たい液体が喉を滑り落ちた。
直後、舌の付け根でひどく甘い風味が弾ける。
胃袋へと落ちていく感覚が、唐突に焼け付くような熱へと変わった。
『しまった』
気づいたときには、すべてが遅かった。
視界が唐突に傾斜する。
手からこぼれ落ちたグラスが、大理石の床に激突して甲高い音を立てて砕け散った。
膝の力が抜け、無様な音を立てて床に這いつくばる。
肺が酸素を拒絶し、呼吸をするたびに内臓を刃物でえぐられるような激痛が走った。
砕け散ったグラスの破片が頬に突き刺さり、生暖かい血が流れるのを感じる。
周囲の音が極端に遠ざかり、自分の荒い呼吸音だけが耳膜を叩いていた。
「閣下」
周囲の貴族たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
ヴェイン伯爵が、わざとらしく驚いたような声を上げていた。
アルスは苦痛に顔をゆがめながら、這うようにして傍らに立つセスを見上げる。
セスの表情からは、あの柔和な笑みが完全に消え失せていた。
ただ冷ややかに、氷のような瞳で倒れ伏す主を見下ろしている。
その手は剣の柄に掛かってさえいない。
なぜ、助けを呼ばない。
なぜ、犯人を捕らえようとしない。
疑問を口にする前に、喉からどす黒い血があふれ出した。
全身から急速に熱が奪われていく。
伸ばしかけた指先から感覚が消え、深い闇がすべてを飲み込んだ。




