番外編「錆びた銀の忠誠」
血の匂いは、錆びついた鉄と湿った土の香りにひどく似ている。
セスは薄暗い兵舎の片隅で、布に染み込ませた研磨油を使って、愛用の長剣の刀身を丹念に磨き上げていた。
窓の外からは、深夜の帝都を叩きつけるような冷たい雨の音が絶え間なく聞こえてくる。
エレオノーラ皇女の反乱分子たちを執務室で鏖殺してから、すでに数ヶ月の歳月が流れていた。
あの日のすさまじい惨劇の記憶は、セスの脳裏に今も生々しく、そして美しい絵画のように刻み込まれている。
炎の魔法を空間ごとねじ伏せ、皇女の野心を文字通りにへし折った宰相ギルベルトの姿。
人間という脆弱な生き物が到達し得る、最も残酷で、最も孤高なる支配者の顕現。
その光景を思い出すたび、セスの皮膚の奥で冷たい興奮が鳥肌となって立つような感覚を覚える。
セスは幼い頃から、帝国の暗殺機関という陽の当たらない場所で、純粋な殺人機械としてのみ育て上げられてきた。
彼にとって、他者が抱く喜びや悲しみ、あるいは愛情といった感情は、ひどく曖昧で不合理なノイズにしか見えなかった。
親兄弟を殺されて泣き叫ぶ者の顔も、命乞いをして見苦しく這いつくばる貴族の顔も、すべては等しく滑稽な肉の塊の反応に過ぎない。
人間とは、脆く、矛盾に満ちており、いつかは必ず崩れ去る砂上の楼閣。
それが、何百という命をその手で刈り取ってきたセスの、世界に対する唯一の冷徹な認識だった。
だが、現在の主であるギルベルト・フォン・オブシディアンだけは、彼が見てきたどの人間とも異なっていた。
以前のギルベルトは、権力欲に塗れた単なる俗物に過ぎず、セスの目にはいつでも切り捨てられる退屈な雇い主として映っていた。
しかし、あのルミナ王国への侵攻が決定された日を境に、宰相は突如として別次元の怪物へと変貌を遂げたのだ。
迷いのない冷酷な決断。
他者の命はおろか、自らの命すら盤上の駒として冷徹に扱い切る、底知れぬ狂気。
暴君としての仮面を顔面に縫い付け、誰にも理解されない孤独な玉座にただ一人君臨し続ける、氷のような鋼の意志。
「……美しい」
刀身に反射する蝋燭の灯りを見つめながら、セスは誰に聞かせるでもなく独り言をこぼした。
宰相の背中には、常に濃密な死の影が付き纏っている。
軍部からの怨嗟、残存する貴族たちからの恐怖に裏打ちされた憎悪。
帝国内のあらゆる刃が、あの孤高の男の喉元を狙って暗闇の中で研ぎ澄まされている。
だが、宰相は決してその重圧から逃げようとはしない。
自らを世界で最も恐ろしい化物へと仕立て上げ、恐怖という強固な鎖で広大な帝国全土を強引に縛り上げている。
セスは布を置き、磨き上げられた長剣を静かに鞘へと納めた。
アルスが実はルミナ王国の騎士の記憶を持ち、祖国を救うためにこの帝国を内部から作り変えようとしていることなど、セスは知る由もない。
彼が理解しているのは、目の前の主が、自分という殺人機械の存在意義を最も完璧な形で満たしてくれる、唯一の支配者であるという事実だけだ。
もし、あの鋼の意志にわずかでも綻びが生じ、かつての俗物のように恐怖に顔をゆがめる日が来れば、セスはためらうことなくその首を刎ね落とすだろう。
だが、今の宰相に限って、そのような醜態を晒すことは万に一つもあり得ない。
あの男は、自らの魂を地獄の底へと沈めてでも、その冷酷な覇道を突き進む覚悟をすでに完了させているのだから。
セスは静かに立ち上がり、主が一人で待つ執務室へと歩みを進める。
この錆びついた銀の忠誠は、主が破滅の淵へと落ちるその最後の瞬間まで、決して揺らぐことはない。




