エピローグ「名もなき墓標」
第三皇女の失脚と粛清から、さらに数年の歳月が流れた。
ガルマディア帝国は、宰相ギルベルト・フォン・オブシディアンによる徹底的な恐怖政治の下、不気味なほどの沈黙と安定を保っている。
軍部の急進派は完全に解体され、新たな反乱を企てる貴族も、過酷な見せしめによってことごとく地下牢へと送られた。
周辺諸国への侵略戦争は「帝国内部の治安維持を最優先とする」という宰相の命令によって事実上凍結され、軍事予算は厳しい監視の下で大幅に削減されている。
一方で、かつて滅亡の危機に瀕していた辺境の小国、ルミナ王国は、この数年の間に目覚ましい復興を遂げていた。
帝国からの理不尽な圧力が消失したことで、豊かな農業生産力を取り戻し、独自の防衛体制を強固に再構築している。
ルミナの民は青く澄み渡る空の下で豊穣な秋の収穫を祝い、若き騎士たちは王都の練兵場で汗を流しながら、かつて祖国を救うために命を落とした偉大なる英雄たちの伝説を語り継いでいるという。
帝都の中央にそびえ立つ皇宮。
その最上階にある宰相の執務室は、相変わらず冷たく張り詰めた空気に満たされていた。
アルスは分厚い書類の束から視線を外し、窓の外に広がる灰色の空を静かに見つめた。
冷たい風が窓の隙間から吹き込み、彼の青白い頬をなでていく。
「ごほっ、ごほっ」
口元を押さえた純白のハンカチに、鮮やかな赤い斑点が広がった。
アルスは表情を変えることなく、その布切れを丁寧に折りたたみ、上着のポケットへとしまい込む。
強大すぎるギルベルトの魔力を強引に行使し続けた代償は、確実にアルスの肉体を内側から深く蝕んでいた。
血管は悲鳴を上げ、内臓は目に見えない炎で焼かれたように絶えず鈍い痛みを訴え続けている。
一流の宮廷医師ですら原因を特定できないその衰弱は、もはや回復の余地を残していなかった。
己の命の灯火が、あと数ヶ月、あるいは数週間で完全に燃え尽きることを、アルス自身が誰よりも正確に理解している。
だが、彼の心は、かつてないほどに静かで、穏やかに澄み切っていた。
背後の扉の前には、相変わらずセスが音もなく控えている。
帝国の誰もが恐れる冷酷な暗殺者は、主の衰弱に気づいているのかいないのか、一切の口を挟むことなく、ただ影のように寄り添い続けていた。
アルスはゆっくりと椅子から立ち上がり、重い足取りで執務机の最下段の引き出しを開けた。
厳重な鍵を外して取り出したのは、一枚の色褪せた粗末な布切れ。
それは、かつてルミナ王国の騎士として命を落とした日、彼自身が身にまとっていた青いマントの、焼け焦げた切れ端だった。
血と泥にまみれ、本来の鮮やかな色彩を失ってしまったその布地を、アルスはひどく愛おしげに、優しく指先でなぞる。
ルミナの民は、帝国宰相ギルベルトを、歴史上最も恐ろしく、最も邪悪な大悪党として未来永劫語り継ぐだろう。
彼の真意を知る者は、この世界のどこにも存在しない。
名誉も、誇りも、称賛も、すべてを泥の底へ投げ捨てて、ただ一人でこの孤独な玉座を守り抜いた。
しかし、その対価として、故郷の青い空と、教え子たちの未来は確実に守り通すことができたのだ。
アルスの唇に、誰にも見せることのない、純粋な騎士としての穏やかな微笑みが浮かんだ。
己の魂の在り処は、今もあのルミナの青い空の下にある。
この薄暗い帝都の片隅で、誰にも看取られることなく静かに朽ち果てていくとしても、それが自らの選び取った誇り高き結末だった。
「……セス」
「はっ。ここに」
「今日の執務は、これまでだ。少し、眠る」
アルスは青い布切れを胸の奥深くにしまい込み、深く目を閉じた。
窓の外では、長く厳しい冬の終わりを告げる、柔らかな春の雨が静かに降り始めていた。




