第14話「魔王の凱歌」
鼓膜を破るような爆発音が、執務室の空気を激しく揺さぶる。
エレオノーラの護衛たちが一斉に放った赤黒い火球を、セスは人間離れした速度で床を蹴って回避した。
着弾した炎がマホガニーの机を粉砕し、分厚い絨毯を焦がして黒い煙を立ち昇らせる。
だが、その煙幕を切り裂くようにして、銀色の流星が魔法使いたちの陣形へと突っ込んだ。
「迎撃なさい。その男ごと宰相を灰にしなさい」
エレオノーラの甲高い命令が響く。
十人の魔法使いは統制のとれた動きで散開し、セスの進行ルートを塞ぐように何重もの魔力障壁を展開した。
しかし、セスの剣術は最初から防御を捨てている。
自らの左腕が魔力の刃に深く抉り取られ、鮮血が宙を舞うのにも構わず、彼は最短距離で障壁の核となる術者の喉笛に剣を突き立てた。
肉が裂け、骨が砕ける生々しい音が響く。
返り血を浴びたセスの顔には、痛覚を完全に喪失したような狂気の笑みが張り付いていた。
「化物が。一斉掃射よ」
一人を失っても、残る九人の魔法使いの連携は崩れない。
彼らは杖の先端を合わせ、部屋全体を焼き尽くす広範囲の殲滅魔法の構築を始めた。
空中の魔力が異常な密度で圧縮され、息を吸うだけで肺が焼かれるような高熱が発生する。
いくらセスが超人的な身体能力を持っていようとも、逃げ場のない密室で空間そのものを焼却されれば、骨すら残らない。
そして、その射程にはアルス自身も含まれていた。
(……ここまでか)
アルスは立ち上がり、燃え盛る執務室の惨状を静かに見つめた。
ルミナ王国への物資援助は成功した。
レオンも無事に逃げ延びた。
ここで自分が死ねば、帝国はエレオノーラを中心とした権力闘争の泥沼に陥り、他国を侵略する余裕など数十年は失われるだろう。
騎士としての使命は、すでに果たした。
ここで炎に焼かれて死ぬのも、悪くない結末かもしれない。
だが。
そのとき、アルスの脳裏に、地下牢で自分を睨みつけていたレオンの青い瞳がフラッシュバックした。
『アルス様はお前のような悪魔から国を守るために、最後まで剣を振り続けて死んだのだ』
教え子の悲痛な叫びが、耳の奥で反響する。
まだだ。
帝国がルミナを狙い続ける限り、根本的な脅威は消え去っていない。
エレオノーラのような野心家が生き残っていれば、必ず再び国境は火の海になる。
自分はルミナの騎士アルスとしての魂を捨て、悪魔になると決めたのではなかったか。
自らの手を血で染め、二度と故郷の土を踏めぬ化物になり果ててでも、すべての脅威を根絶やしにすると。
アルスは自身の血脈の最奥に封じ込めていた、ギルベルトという肉体が持つ魔力の源泉へと、意識の底を沈めていった。
それは、これまで小出しにしてきた重力操作などとは比較にならない、純粋で暴力的なエネルギーの海だ。
触れれば自身の精神すら焼き尽くされかねない、破滅の力である。
アルスはそこに、騎士として培ってきた強靭な精神力と、故郷を守るという執念を叩きつけた。
「消え去れ、ギルベルト」
エレオノーラの残酷な宣告とともに、九人の魔法使いから極大の炎が放たれる。
視界のすべてを白く染め上げる、死の業火。
だが、その炎がアルスとセスに届くことはなかった。
カァン、と。
時が止まったかのような、澄み切った無音が世界を支配する。
アルスの肉体を中心に、黒い波動がドーム状に展開されたのだ。
それは重力などという生易しいものではない。
空間そのものの因果を捻じ曲げ、あらゆるエネルギーを無に帰す、理不尽なまでの破壊の力。
放たれた業火は黒い波動に触れた瞬間、燃焼するという現象そのものを否定され、幻のように消え去った。
「な、何が……」
エレオノーラが顔を引きつらせ、後ずさりをする。
アルスはゆっくりと一歩、前へ踏み出した。
体内の血管がすべて引き裂かれそうな激痛。
両目から一条の血が流れ落ち、視界が赤く染まっていく。
だが、アルスの歩みは止まらない。
その姿は、帝国全土を恐怖で支配する魔王そのものだった。
「ひっ」
九人の魔法使いのうち、前列にいた数人が、アルスから放たれる桁違いの圧力に耐えきれず、白目を剥いて泡を吹き、その場に倒れ伏した。
立っているだけで、精神を根こそぎ粉砕される極限の恐怖。
無意識のうちに、残された者たちは武器である杖を取り落とし、床に這いつくばって命乞いを始める。
だが、アルスは無慈悲に歩を進め、エレオノーラの目の前で立ち止まった。
「私を殺すと言ったな、殿下。その野心に敬意を表して、命だけは助けてやろう。だが、二度と私に牙を剥けぬよう、その両手足の自由は奪わせてもらう」
血の涙を流しながら、アルスは冷酷に微笑む。
「あ、ああ……」
完全に心をへし折られた皇女は、床に崩れ落ち、ただ歯の根を合わさず震えることしかできなかった。
背後で、生き残った魔法使いたちをセスが機械的な動作で次々と斬り捨てていく。
床一面に血の海が広がり、高価な調度品はすべて破壊され尽くした。
アルスは血まみれの執務室の中央に立ち、赤く染まった視界で荒れ果てた皇宮を見下ろした。
これで、ルミナ王国を脅かす帝国の指導層はすべて消え去った。
残されたのは、恐怖と力で帝国全土を支配する、最悪の宰相ギルベルトただ一人。
故郷を守る戦いは終わった。
だが、それは同時に、誰も近づくことのできない氷のように冷たい玉座での、永遠に続く孤独な統治の始まりでもあった。
「おめでとうございます、閣下。ついに、すべての敵は排除されました」
全身を血に染めたセスが、静かに歩み寄り、アルスの足元に深く一礼する。
その狂信的な言葉を聞きながら、アルスは目を閉じ、遠く離れた故郷の空を想った。
もう二度と、あの青い空の下で剣を振るうことはない。
自らの魂を黒曜石の玉座に縛り付け、悪魔として生き続ける。
それが、ルミナの騎士アルスが選び取った、魔王の凱歌だった。




