第13話「反逆の炎」
地下牢から若き騎士が脱走したという報告は、翌朝の宮廷に小さな波紋を広げた。
だが、巨大な帝国の中枢において、辺境国の捕虜が一人逃げ出した程度の手落ちは、本来であれば歴史の片隅にも残らない些細な出来事に過ぎない。
しかし、その脱走劇からわずか半月後。
帝国の南西部に位置するルミナ王国との国境線から、信じ難い凶報が次々と皇宮へ舞い込んできた。
事実上の休戦状態にあったルミナ軍の残存部隊が、突如として帝国軍の補給拠点を複数同時に襲撃したのだ。
それも、無謀な特攻ではない。
帝国軍の重装歩兵が持つ盾の死角を正確に突き、巡回ルートの隙を完全に掌握した、恐ろしく計算し尽くされた局地戦術。
奪われたのは、アルスが意図的に国境付近へと再配置していた大量の保存食と医療品、そして防寒具だった。
数年にわたる徹底的な弾圧で枯れ枝のように痩せ細っていたはずのルミナの騎士たちは、その物資を得て再び反逆の炎を燃え上がらせたのだ。
「国境の防衛部隊は何をしている。たかが小国の残党数千に、なぜ三つもの城塞を落とされる」
午後の強い日差しが差し込む執務室で、アルスは意図的に声を荒らげて机を叩いた。
精緻な彫刻が施されたマホガニーの執務机が、重々しい音を立てて抗議する。
報告に上がっていた軍務局の役人は、顔面を蒼白にして床に額を擦り付けていた。
アルスの内側では、安堵と誇りが静かに渦巻いている。
レオンは無事に国境を越え、物資の隠し場所と帝国軍の弱点をルミナの同胞たちに伝えたのだ。
自分が教え込んだ剣技の修正点も、見事に部隊全体へ浸透させているに違いない。
これで、ルミナ王国は冬を越せる。
帝国軍が本格的な侵攻を再開しようとしても、容易には突破できない強固な防衛線を構築できるはずだ。
「申し訳ございません、宰相閣下。ルミナの部隊は、我が軍の補給物資の配置を、まるで事前に知っていたかのように正確に狙い撃ちしておりまして」
「言い訳など聞いていない。下がれ」
役人を冷酷に追い払うと、執務室にはアルスと、扉の前に立つセスの二人だけが残された。
計画は最終段階に入った。
ルミナ王国が国力を回復するまでの時間を稼ぐためには、帝国の心臓部であるこの皇宮を、さらなる混乱の渦に突き落とす必要がある。
「……面白いように帳簿が合わないわね、宰相閣下」
唐突に、分厚い両開きの扉が外側から押し開けられた。
本来であれば面会謝絶の時間帯。
護衛の近衛兵たちを物理的に排除して入ってきたのは、黒いドレスに身を包んだ第三皇女エレオノーラだった。
彼女の背後には、以前の茶会で影のように控えていた魔法使いを含め、十人近い凄腕の術者たちが音もなく随伴している。
全員が、実戦用の杖の照準をすでにアルスへと合わせている状態だ。
「何の真似ですか、殿下」
「とぼけないでちょうだい。財務省の裏帳簿を洗わせてもらったわ。南西部の国境地帯へ、不自然なほどの物資が流出している。しかも、その輸送ルートはルミナの残党に強奪されることを前提としたような、穴だらけの配置。あなたがルミナに内通している証拠は揃ったわ。第二皇子を失脚させたのは見事だったけれど、あなたの役目はここまでよ。反逆罪の汚名を着て、この場で死んでもらうわ」
エレオノーラは優雅な足取りで執務室の中央まで進み出ると、赤い瞳を鋭く細めてアルスを睨みつけた。
クーデターの混乱に乗じて第二皇子を排除し、今度はその鎮圧の功労者であるアルスを「敵国への内通者」として処断する。
そうして軍部と政治の実権をすべて掌握し、次期皇帝の座を確実なものにする。
それが、エレオノーラが最初から描いていた盤上のシナリオだったのだ。
彼女にとって、アルスは用済みの駒に過ぎない。
「セス」
アルスは椅子に深く腰掛けたまま、静かに護衛の名を呼んだ。
「その女と、後ろの羽虫どもを排除しろ。一人も生かして帰すな」
命じられた瞬間。
セスの銀色の甲冑が、陽光を反射してギラリと輝いた。
長剣が鞘から滑り出る金属音が、張り詰めた執務室の空気を真っ二つに切り裂く。
「御意に」
血の匂いに飢えたような、ひどくゆがんだ笑み。
皇女の暗殺という大逆罪の命令を下されてなお、セスの瞳には主への狂信的な忠誠しか宿っていない。
十人の特級魔法使いと、一人の殺人機械。
帝国の権力を賭けた、最後で最大の死闘が、この密室で幕を開けようとしていた。




