第七話 名前のない場所
アデルとの授業は、思っていたよりもずっと楽しいものだった。彼女は聡明で、好奇心旺盛で、フランス語混じりの舞台がかった仕草で、私を何度も笑わせてくれた。
だが時折、彼女は授業の途中で、ふいに窓の外を見つめて黙り込むことがあった。
「アデル、どうしたの?」
そう尋ねると、彼女は慌てたように笑顔を作り直す。
「なんでもないわ、ミス・エア。続けましょう」
その切り替えの早さに、私はいつも胸を突かれた。悲しみを、誰かに気づかれる前に隠す術を、この子はもう身につけてしまっている。
ある日の授業の後、アデルは珍しく自分から母親の話を始めた。
「お母様はね、パリの劇場で、いちばん綺麗なドレスを着ていたのよ。みんな、お母様に拍手を送っていたわ」
「素敵なお母様だったのね」
「うん。でも……」
アデルは人形を抱きしめ、しばらく黙った。
「お母様は、わたしより、拍手の方が好きだったと思う」
その言葉を、彼女はまるで天気の話でもするように、あっさりと口にした。だからこそ、私にはその言葉の重みが、余計に堪えた。幼い子供が、母親に愛されていたかどうかを、すでに冷静に測ってしまっている——そのこと自体が、一つの小さな悲劇だった。
「ロチェスター様が、わたしを引き取ってくださったの。お母様がいなくなった後」
「あなたのお父様だから?」
その問いに、アデルは初めて、明確に困った顔をした。
「わからないの。旦那様は、そう言わないから」
「言わない?」
「うん。わたしのこと、『娘』って呼んでくれたこと、一度もないの。いつも『被後見人』って。フェアファックス夫人も、みんなも、そう呼ぶわ」
私はその言葉に、言いようのない痛みを覚えた。血の繋がりがあるのかもしれない、ないのかもしれない——その曖昧さの中に、この少女はずっと置き去りにされているのだ。「娘」でも「他人」でもない、名前のない場所に。
「わたし、旦那様に嫌われているのかしら」
「そんなことないと思うわ」
「でも、旦那様は、わたしのこと見るとき、時々、悲しそうな顔をするの。まるで、わたしを見ると、何か嫌なことを思い出すみたいに」
その観察に、私は返す言葉を失った。子供の目は、時に大人よりもずっと正確に、周囲の感情の機微を読み取ってしまう。
「アデル、もし旦那様があなたを見て悲しそうな顔をするとしても、それはきっと、あなたのせいじゃないわ。大人には、大人だけの、複雑な事情があるものなの」
「ミス・エアも、複雑な事情があるの?」
思いがけない問いに、私は微笑んだ。
「ええ、誰にでもあるものよ」
アデルはしばらく私を見つめた後、ふいに人形を差し出した。
「これ、ミス・エアにあげる。お母様がくれたものだけど、ミス・エアに持っていてほしいの」
「どうして?」
「だって、ミス・エアは、わたしのこと、ちゃんと見てくれるから」
その言葉に、私は胸が熱くなった。この屋敷で、誰からも明確な居場所を与えられていないこの少女にとって、「ちゃんと見てくれる」という、たったそれだけのことが、どれほど貴重なものだったのか。
私は人形を受け取らなかった。その代わり、アデルの手を握った。
「これはあなたの、大切な思い出よ。私はただ、あなたのそばにいるから」
アデルは少し驚いた顔をした後、久しぶりに、演技ではない、本物の笑顔を見せてくれた。
その夜、私は日記にこう書いた。「この屋敷には、名前を与えられないまま彷徨っている者が、一人だけではないのかもしれない」と。
三階から、また、あの笑い声が聞こえた気がした。




