第六話 新しい生活
馬車がソーンフィールド・ホールの前で止まったとき、私——ジェーン・エアは、その建物の大きさに、まず圧倒された。
ロウード慈善学校での八年間を経て、ようやく手に入れた最初の職。それが、この屋敷の一室で、家庭教師として一人の少女に読み書きを教えることだった。石造りの壁は古く、蔦が這い、どこか威厳と孤独を同時に纏っているように見えた。
出迎えてくれたのは、フェアファックス夫人という、ふくよかで穏やかな老婦人だった。彼女は私を温かく迎え入れてくれたが、その口ぶりには、どこか言葉を選んでいるような慎重さがあった。
「屋敷の主人、ロチェスター様は、あまりこちらにいらっしゃらないの。旅がお好きな方で」
その言い方に、私は小さな引っかかりを覚えた。まるで、この屋敷にいたくない理由が、彼にはあるかのような。
私の生徒となる少女、アデルに会ったのは、その日の午後だった。
小さなフランス人形のような少女だった。巻き毛を揺らしながら駆けてきて、私の前でくるりと一回転してみせた。
「わたし、踊れるのよ! 見て!」
彼女はそう言って、拙いながらも情熱的なステップを踏んでみせた。その仕草には、どこか場慣れした、大人びた愛らしさがあった。まるで、誰かに褒められることに慣れている——いや、褒められることでしか、自分の価値を確かめられずにいるような、そんな危うさが。
「とても上手ね」
私がそう言うと、アデルは満面の笑みを浮かべた。だがその笑みの奥に、一瞬、不安げな影が差すのを、私は見逃さなかった。
「わたしのお母様も、踊りがお上手だったのよ。パリで、みんなに褒められていたの」
「お母様は……」
「もう会えないの。でも、ロチェスター様がわたしを引き取ってくださったから、大丈夫」
その言葉を、あまりにも軽やかに、あまりにも慣れた調子で口にする少女に、私は胸が締め付けられる思いがした。この子は、自分の立場を——親に「引き取られている」という不安定な立場を、幼いながらに理解しているのだ。そして、その不安を、無邪気さという鎧で覆い隠すことを、すでに覚えてしまっている。
フェアファックス夫人は、後になって静かに教えてくれた。アデルの母親はフランスの舞台女優で、ロチェスター氏とは浅からぬ関係にあったこと。だが彼女はすでに亡くなり、ロチェスター氏が彼女を「自分の娘として」ではなく、あくまで「後見人として」引き取ったこと。
「旦那様は、あの子を実の娘だとは、はっきりおっしゃらないの」
その言葉に、私は何とも言えない違和感を覚えた。もし血の繋がりがないのなら、なぜ彼はこの少女をここまで引き取り、育てているのだろう。もし血の繋がりがあるのなら、なぜ彼はそれを認めようとしないのだろう。
その夜、私は屋敷の中を、ろうそくを片手に歩いてみた。長い廊下、閉ざされた扉の数々。屋敷の三階に差し掛かったとき、私はふと、奇妙な笑い声を耳にした。低く、乾いた、どこか人間離れした響きの笑い声だった。
「あれは何の音?」
翌朝、フェアファックス夫人にそう尋ねると、彼女は一瞬、目を泳がせた。
「ああ、グレース・プールという使用人がいるの。少し変わった人でね、ときどきああして……気にしないでちょうだいね」
その説明は、あまりにも滑らかで、あまりにも準備されすぎていた。私は納得したふりをして頷いたが、心の中では、その言葉の裏に何かがあることを、確かに感じ取っていた。
アデルの不安定な立場。屋敷の主人の不在がちな暮らし。そして、三階から聞こえる、あの笑い声。
この屋敷には、まだ私の知らない物語が、いくつも眠っているのだと——その夜、私は静かに、そう確信した。




