↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
屋根裏の花嫁――ソーンフィールドの三つの魂  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/13

第十二話 封を切れなかった手紙

 グレースからの手紙が届いたのは、いつものように、乾いた事務的な文面で始まっていた。だが最後の一文を読んだ瞬間、僕は椅子から立ち上がっていた。


『旦那様が、近く御結婚なさるとのことです。お相手は、屋敷の家庭教師とのこと』


 結婚。その文字を、僕は何度も読み返した。ロチェスターが、結婚する。


 最初に湧いたのは、単純な驚きだった。あの男が、また誰かを娶るのか、と。だがすぐに、もっと重く、もっと冷たい感情が、腹の底から込み上げてきた。


 バーサは、どうなる。


 彼は、まだ結婚しているのだ。僕の妹と。屋根裏に閉じ込められた、あの妻と。法律上、彼に新しい結婚など、できるはずがない。


 だが同時に、僕は理解していた。ロチェスターという男は、法律や道徳を、都合よく踏み越えることのできる人間だということを。そして、この結婚が、密かに、誰にも知られぬまま進められようとしているのだということも。


 僕は、あの家庭教師——ジェーン・エアという女性の顔を思い浮かべようとした。だが会ったこともない相手の顔など、思い浮かぶはずもなかった。ただ、彼女がこれから足を踏み入れようとしている闇の深さだけが、はっきりと想像できた。


 彼女は知らないのだ。夫となる男に、すでに妻がいることを。その妻が、屋根裏で、何年も声を殺して生きてきたことを。


 僕はグレースへの返事を書こうとした。だが何度もペンを取り、何度も止めた。何を書けばいい。「結婚を止めろ」と? だが僕にそんな資格があるのか。妹を差し出したのは、他ならぬ僕自身なのに。


 ふと、去年届いた別の手紙のことを思い出した。バーサの様子を尋ねた僕に、グレースはこう書いていた。


『奥様は、時折、階下の話し声に耳を澄ませていらっしゃるようです。特に、家庭教師の方の声を』


 あのとき、僕はその一文を、深く考えずに読み流してしまった。だが今、あらためて思い返すと、それは恐ろしい意味を持って迫ってきた。バーサは、知っていたのだ。あの家庭教師の存在を。そしておそらく、彼女が夫にとってどんな存在になりつつあるのかも。


 妹は、屋根裏の暗闇の中で、何を思っていたのだろう。あの女性を、憎んでいたのだろうか。それとも——かつての自分を、重ねていたのだろうか。


 僕はもう、これ以上逃げていられないと悟った。


 結婚式の日取りを、グレースへの返信で尋ねた。三週間後だという返事が届いた。三週間。決断するには、あまりにも短い時間だった。だが同時に、これ以上先延ばしにする言い訳も、もう残されていなかった。


 僕は、旅行鞄に荷物を詰めた。何年もかけて避け続けてきたイングランドへの帰還を、ついに決めた瞬間だった。


 鞄の底に、僕は一枚の古い書類を忍ばせた。バーサとロチェスターの結婚証明書の写しだった。何年も前、父の死後の財産整理の際に、僕が保管しておいたものだ。まさかこれを、こんな形で使うことになるとは、あの頃の僕には想像もできなかった。


 船に乗り込む前夜、僕はグレースに最後の手紙を書いた。


『結婚式に、僕も向かう。バーサのために、そして、あの家庭教師のために』


 自分でも、その言葉に少し驚いた。バーサのため、というのは分かる。だがなぜ、会ったこともないジェーン・エアという女性のためにも、僕は動こうとしているのだろう。


 おそらく、答えは単純だった。かつて僕は、一人の女性が、真実を知らされないまま、運命の中に引きずり込まれていくのを、黙って見過ごした。同じ過ちを、二度は繰り返したくなかったのだ。


 船が港を出るとき、僕は甲板から、遠ざかる陸地を見つめていた。何年もかけて逃げ続けてきた場所へ、今、自ら向かっている。その皮肉に、僕は乾いた笑いを漏らした。


「バーサ、待っていてくれ」


 風に向かって、僕はそう呟いた。今度こそ、逃げない。今度こそ、妹のために、そして、まだ何も知らないあの女性のために、僕は声を上げる。


 イングランドの灰色の空が、水平線の向こうに見えてきた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。