2 ドアの向こう(1)
毎朝通る駅の連絡通路。その壁から飛び出したドアノブがどうしても気になる。長い真っ直ぐな通路を歩いて行くと、飛び出したノブがLED灯の光を反射して、視界の端で存在を主張している。隼人は同じ速度で歩きながら、視線だけノブに向けて通り過ぎる。最初は、単に周囲と調和しない存在に注意が向いただけの事だった。綺麗に白く塗られた平面の壁なのに、それを無視して、そのノブだけここにドアがあるぞと主張している。毎日の事だ。連絡通路を通る度にドアノブを見て、どんどん気になる度合いが増していく。今では、連絡通路を通り過ぎて駅のホームで電車を待っている間も、頭の中に鈍く輝やくドアノブの像が残っている。それでも、そのドアに近付こうとしなかった。何故だか、同じ日常のリズムからはみ出してはいけないと言う強迫観念の様なものが、隼人を縛っていた。
その日も、朝7時5分前に起きていつも通りに支度をし、ドアノブを見ながら通路を通り抜け、駅のホームまで降りて来た。徐にポケットから携帯情報端末を取り出す。手の中のそれを見下ろす。これを開けば、きっと食事仲間からのメッセージが入っている筈だ。だが、携帯端末を手の中で弄びながら、何だか開く気にならない。これを開いてしまえば、いつもの日常に呑み込まれて、何かを立ち止まって考える気力すら吸い取られてしまいそうだ。頭の中には通路のあのドアノブが光っている。
『今、思うところがあるなら、行動する方が良い。』
いつだろう。誰かに言われた気がする。
隼人は意を決すると、携帯端末をポケットに捻じ込み、踵を返し、改札口へ向かう。連絡通路のドアの前まで取って返し、その前に立つ。左右を確かめる。誰もいない。
今なら大丈夫だ。誰にも見咎められない。大抵こういう所は鍵がかかっていて、関係者以外は開けられない様になっている。それが分かれば、残念な気持ちは残るが、諦めが付くだろう。もし、鍵がかかっていなくても、ちょっと覗いてみるだけだ。きっと、空調設備の点検口とか、駅職員の通路とか、何かそんな物で、『ああ、なんだ』と思う筈だ。そうすれば、明日からこのドアノブを見ても、もう気になる事は無くなる。
隼人は思い切ってドアノブに手を伸ばすと、できるだけ音を立てない様にゆっくりとノブを回す。鍵は掛かっていない。ラッチボルトが金属の擦れる音を立てて外れる。その音に、隼人の心臓は縮み上がる。ドアが僅かに開く。すかさず人の体が入るだけ開けて中を覗く。
ドアの中は真っ直ぐな通路になっている。意外にも、照明がしっかりと灯り明るい。清掃ロボットが常に巡回するドアの外と違い、通路には灰色の埃がうっすら積もっている。長い間、誰もこの通路を利用していないのだろう。埃は柔らかなカーペットの様に、床面を覆っている。隼人の視線は通路の先、もう1つのドアに注がれる。アルミ製のそのドアにはネームプレートが掛けられている。
『枡渕生体化学総合研究所』
あの名前には憶えがある。一体、どこでこんな名前を聞いたのだろう。この名前を見た途端、深い記憶の奥に沈んでいる何かの先端に、微かに触れた気持ちになる。その記憶の正体が思い出せそうで思い出せない。何かが引っかかっている。もどかしい。
隼人の開けたドアから続く通路は、真っ直ぐにネームプレートの付いたもう1つのアルミ製ドアへと繋がり、脇に逸れる道筋はない。隼人は前方のドアから目を離さずに、そっと通路へと入り込む。
自分の中で顔を出し掛けている記憶の正体が知りたい。あのドアを開けられれば、もしかしたら、何か思い出せるかも知れない。いや、きっと思い出せる。
ゆっくりと通路を歩き、アルミ製ドアの前に立つ。冷静になったら、こんな通路に勝手に入り込んで、一体自分は何しているんだと思うだろう。だが、今の隼人は何か別の衝動に突き動かされている。存在に気付いてしまったからには、このドアを開けて、自分の頭の中のドロドロとした沼の中に沈んでいる記憶を引き上げずにはいられない。
アルミドアのドアノブを回す。ガチャリとラッチボルトが外れてアルミ製のドアが開く。想像したセンセーショナルな遭遇は、そこに無い。今入って来たのと同じ様な通路が、ずっと続いている。
ここまで来て引き返せない。
呼吸を整え、奥の通路に足を踏み入れる。隼人が進むのを感知して、通路の先の照明が順に点灯し、通路を照らしてくれる。行き止まりに見えた長い通路は、その末端で左に直角に折れる。そこまでは単なる通路だったが、左に折れた先には両側にドアが並んでいる。床は水色の樹脂製タイルに変わり、その上にも、うっすらと埃が積もっている。ドアはアイボリーの化粧板でできており、夫々のドアには、樹脂板の切り文字で部屋番号が表示されている。
この通路には見覚えがある。
隼人の頭の中に沈んでいる記憶と、今見ている通路の風景が共鳴する。
この先だ。この先にある。
何があるのか理解していない。だが、確かにこの先に行けと彼の中の何かが叫んでいる。
ドアが不規則に並ぶ通路を歩く。両側のドアの番号を1つ1つ確認する。10m程進んだドアの前で立ち止まる。
118
樹脂の切り文字を見上げる。
ここだ。ここに違いない。
目的が何なのか理解しないまま、躊躇する事も無く、118号室のドアノブを握る。
通路の入口にあったドアのノブは、どこでも見掛けるステンレス製の丸いノブだったが、このドアノブは施錠部が別になったハンドル式の物だ。精巧に作られた錠は、かかっていたら鍵無しでは解錠できない。そもそも隼人は鍵を持っていないし、破錠する道具もテクニックも持ち合わせていない。
静かにレバーを回す。カチリと金属音がしてドアが開く。このドアも施錠されていない。ドアを開けると、それを検知して部屋の照明が点く。ドアノブのハンドルに手を掛けたまま、隼人は部屋の中を見回す。
個人用の執務室。正面奥に幅広のデスクが置かれ、革張りの椅子がセットになっている。左手の壁には大きなモニター画面。その前には簡素なガラステーブルとそれを囲んで布張りの1人掛け用ソファが4脚、反対側の壁際には本棚と書類を入れるキャビネットが並んでいる。全てが埃まみれだ。
そう、ここだ。思い出した、憶えている。何度もここに来た。
隼人は黴臭い空気の中に足を踏み入れる。
デスク右端には、部屋に入って来た人から見える様にネームプレートが置かれている。これも埃を被っているが、書かれている文字は読める。
小笠原 佳純
漢字の下には、小さいロゴのローマ字で同じ名前が書かれている。
佳純。ここは佳純の執務室。ここで彼女とどれだけ話したろう。彼女は…、そう、彼女は俺の恋人だ。
頭の中、奥底に眠っていた記憶が呼び覚まされる。一気に押し寄せる記憶の波に呑み込まれて眩暈を起こし、隼人はその場で失神した。
朝7時5分前。いつもの様にベッドで目を醒ます。隼人はふらつく頭を庇いながら上体を起こす。
あれ?どうして俺はここに居るんだっけ?
頭がぼんやりしている。寝不足な訳ではないだろう。曖昧な記憶を辿る。
確か、地下通路のドアが気になって、1度地下鉄ホームまで行ったのに、戻って開けてみたんじゃなかったか?確かその向こうに研究所の廃墟があって、そこで…。そう、小笠原佳純の執務室を見付けたんだ。
記憶はそこまでしかない。自分の部屋に戻って来た記憶どころか、研究所から外に出た覚えも無い。
あれは、夢か?
ベッドの上に座り、ぼんやり思い返していると、何だかそんな気がして来る。地下通路のちゃちなドアの向こうに研究所の廃墟があるなんて、非常識だ。しかもその研究所を俺が知っているなんて、考えればそんな荒唐無稽な話は無い。夢の方がしっくりくる。
おっと、こうしちゃいられない。
隼人は、携帯情報端末の時刻を見てベッドから立ち上がり、朝食の準備に取りかかった。
部屋を出て駅に向かう前までは、やる事があるから考えずに済んだ。だが、地下鉄駅に向かって歩いていると、考えずにはいられない。
あれは本当に夢だったのか?俺が通路に飛び出したドアノブを気にし過ぎたために、有りもしない幻想が夢で形になったのか?じゃあ、枡渕生体化学総合研究所とか、小笠原佳純っていう言葉はどこから出て来た?今、俺はしっかり目を醒まし、歩いている。うん、確かにこれは現実だ。その現実に居る俺が感じている。俺は桝渕生体化学総合研究所の研究員で、小笠原佳純は恋人だと。
地下通路を通る。突き出したドアノブが見えて来る。隼人の意識はそこに集中する。そうしながらも、立ち止まらずに通り過ぎる。いつもと何も違わない。
あのノブ。確かに回した筈だ。冷たい金属の感触を覚えている。夢じゃそんな感触までないだろう。
そう思いながらも、ホームで電車を待つ。隼人は、気分を切り替える様に携帯端末を開いた。
〈今日の昼はどうする?〉
カズからのメッセージだ。いつもの調子に何となくほっとする。
〈トンカツ屋がオープンしたみたいだが、行ってみないか?〉
ノリオの提案。
〈カツの大きさはどのくらいだ?〉
ムサシも反応している。まるでいつもと変わらない。何も無かったみたい…いや、そうじゃない。昨日は?昨日はどんなやり取りをしている?
隼人はグループチャットの履歴を遡る。今日のカズのメッセージの直前のやりとりを確認する。
〈今日の昼は何が良いかな?〉
昨日もいつもと同じ様にカズの発信から始まっている。
〈この前のイタリアンはどうだった?〉
ノリオの応答。
〈味は悪くないが、もう少し量が欲しい〉
ムサシの応答。そこで、通信は終わっている。隼人のコメントは無いし、他の3人のチャットの続きも無い。
昨日、俺は何も発信していない。これは、あのドアの向こうに入り込んだのが、夢じゃなく現実だと言う証拠じゃないのか?あの場所で意識が途切れた後、どうしたのかは分からないが、こいつ等に会わずに、どういう訳か自宅のベッドの上で意識を取り戻したって事だろう。それにしても、俺からの返信が無いのに誰も心配しないのかよ、冷たい奴等だ。いつも最後にコメントを寄こすのが俺だから、コメントが入るのを待ち続けたのだろうが、いつまで経っても返信が無ければ、普通、誰か1人くらい、おかしいと思う人間が居るんじゃないのか。『おい、どうしてる』とか、『隼人、コメント寄こせ』とか、何か追加のメッセージを入れるだろ。それもせずに、返事が無けりゃ無視して、3人で昼食を摂ったと言う事か?俺の存在ってそんなもん?
隼人は、複雑な心境のまま携帯端末にメッセージを打ち込む。
〈昨日の事なんだが〉
これだけ送って、3人の反応を見る。
〈ハヤト、どうしてた?〉〈なんだ?昨日何があった?〉〈今日は来られるのか?〉
直ぐに3人から返信が飛んで来る。この感じだと、やっぱり昨日、3人に会ってない。今になって取り繕う様に心配してた感を出されても白ける。
〈俺が返事しなかったから、3人で食事したのか?〉
〈いや、食事会はしなかった〉〈なんだ、なんだ、何故返信くれなかった〉
そうか、食事会はしなかったのか。
〈済まない、体調不良で寝込んでいた〉
隼人は、当たり障りの無い理由をつける。
〈今日は大丈夫か?〉〈無理するなよ〉〈なあ、今日は昼飯食べるよな?〉
なんだ、一応は心配してくれているのか。
〈ああ、脂っこいトンカツだって大丈夫だ〉
隼人は、少し気分が楽になって、早く3人に会って、昨日すっぽかした事を謝ろうと思った。




