2 ドアの向こう(2)
会社のオフィスに行ってもいつもと変わらない。会社の入り口のドアを開ければ、先に来た川崎が既に仕事を始めている。隼人が入って行っても見向きもせず、キーボードを叩いている。隼人は川崎の様子を気にしながら、自分の席に着く。
「なあ。」
川崎から話し掛けてくる様子が無いから、仕方なく隼人から声を掛ける。
「…ん?」
漸く手を止めて、川崎が隼人を見る。
「昨日、俺はここに来なかったんだよな。」
フンと鼻で笑うと、川崎は再びモニター画面に向かい、手を動かしながら口を開く。
「なんだ、自分の事なのに憶えていないのか?どうしちまった。」
「良いから教えてくれ。俺は昨日、出勤して来たのか、来なかったのか。」
川崎は再び手を止めて、片手で頭を掻きながら溜息をつく。
「俺に言えるのは、昨日は野付崎を見ていない。…それだけだ。」
「そうか…、ありがとう。」
川崎は軽く笑みを浮かべてから素に戻り、再び仕事に集中する。
やっぱり、俺は会社に来なかったのか。食事仲間と昼食も摂っていないのだから、まあ、想像してた通りだ。それじゃあ、昨日の朝、あのドアを開けて研究所の廃墟を見付けたのは、現実だったんじゃないのか?だが、記憶にある出来事は長くても大体10分だ。丸1日潰す様な出来事じゃない。ただ確かなのは、俺は神経生理学の研究員だと言う認識だ。ここでこうやって、パソコンに向き合って仕事をするのが俺の実体なのも確かなのだが、俺は枡渕生体化学総合研究所の神経生理学の研究員な筈だ。この2つはどうやって結びつくのだ?
隼人は、パソコンの電源も入れず、真っ暗なモニター画面に映る自身の呆然とした表情を見つめ、矛盾する意識の落としどころを探し続けた。
「どうした、何か悩み事か?」
とんかつ屋のテーブルを囲んで4人が席に着くとすぐ、ムサシが力加減もせずに隼人の肩をバンバンと叩く。
「いや、ちょっと。体調が悪いんだ。」
隼人は当たり障りの無い理由を口にする。
「何だ?どの部分の調子が悪い?」
「いや、大丈夫だ。そのうち良くなる。」
隼人は、体を傾げてムサシの手を避ける。
「良くなる?放っておいて良くなるものなのか?」
「ムサシ」見かねたカズが横から声を掛ける。「あんまり、質問攻めにしちゃ駄目だよ。」
「なんで?心配しているだけだ。」
「そういうの、親切の押し売りって言うんだよ。」
「押しつけてなどいない。」ムサシが少しムキになる。「心配だから、心配だって言っているだけだろ。見て見ぬふりをしていろって言うのか。」
「そうじゃないよ。」カズの言い方は、小さい子に諭す様だ。「ハヤトが『大丈夫』って言ったんだから、それでよしとしなくっちゃ。」
「いや、駄目だ。ハヤトは俺達に心配させまいと、無理しているかも知れないだろ。仲間って言うのは、そう言う所までケアするもんだ。」
「ハヤト、大丈夫だよね。」
2人の言い争いに隼人も巻き込まれる。カズは、意味有り気に微笑んでいる。
「ああ、大丈夫だ。気にしないでくれ。」
笑顔を取り繕う。正直、そんな話は2人だけで勝手にやっていて欲しい。
「ほら。今は見守る時だよ。」
ムサシは、不満を表情に表して黙る。
「早く注文しよう。」頃合いを見計らって、ノリオが声を掛ける。「話はそれからだって充分できる。」
「俺は、Bランチにする。」
話を変えたい隼人は、即座に宣言する。
「量はどっちが多いかだな…。」
ムサシは真剣に悩んでいる。
「僕は、カツ丼にするよ。」
カズはまだ微笑んでいる。
「それじゃ、俺はAにする。」
ノリオも決めてしまって、ムサシだけ残されても、少しも気にせず悩み続けている。ノリオがメニューで口元を隠して隼人に顔を寄せて来る。何事かと、隼人は耳を傾ける。
「俺達じゃ頼りにならないかも知れないが」ノリオは小声で話す。「何か困っているなら、相談してくれ。」
「ああ、分かった。ありがとう。」
なんだ、みんな心配してくれているじゃないか。
仲間外れにされた様な気分になっていた自分が恥ずかしくなる。周りに心配掛けないためにも、早く白黒つけた方が良い。
はっきりさせなければ。
隼人はもう1度、今度こそしっかり意識して、あのドアを開けてみようと決めた。
夕方までしっかり仕事をした後、地下鉄駅で降りて、連絡通路を通る途中で、隼人はドアノブの前で立ち止まる。
ムサシ達には、今日の夕食会に参加しないと、昼食の後、別れる際に告げている。このドアの中に入っても、後でまた記憶が曖昧になっては元も子もない。今回は、ちゃんと記録に残る様に、携帯情報端末で動画を撮りながら入ろうと決めた。
連絡通路に突き出たドアノブに向かって立ち、隼人は左右に視線を走らせる。いつもだって、誰もいない。確かめる必要は無いと分かっていても、そうせずにはいられない。誰もいない事を確かめると、あらためてドアノブを見つめて、1つ深呼吸をする。携帯端末のカメラを作動させると、空いている手でノブを握る。迷いを吹っ切る様に力いっぱいノブを回す。金属同士が擦れる音を立ててドアが開く。その先には、自分が憶えているのと同じ通路が現れる。ただ、少し様子が違う。隼人の憶えている風景は、埃が新雪の様に均一に降り積もった通路だ。今目の前にある通路は、いくつもの足跡で埃がかき乱されている。
1つは、俺自身の足跡だろう。だが、それ以外は何だ?
隼人は一瞬入るのを躊躇ったが、気を取り直して通路へと足を踏み入れる。真っ直ぐに正面のドアまで進む。枡渕生体化学総合研究所。その名板を携帯端末のカメラの視野に収めながら、しげしげと観察する。
この研究所の名前に心当たりはあるが、この看板は、昨日入った時に見たのが初めてだ。それ以前に見た憶えがない。
ドアを開けて、更に中へと進んで行く。真っ直ぐ伸びた通路を左に折れると、両側にドアが並ぶ通路に出る。ここまでは憶えている通りだ、通路上のかき乱された埃以外は。ここで再び、隼人の足が止まる。埃の上に残っている足跡は、皆1つのドアの中に向かっている。あれは、記憶が正しければ、小笠原佳純の執務室だ。それより向こうの床は、最初にここに来て見た時の様に、薄っすらと積もる埃で綺麗に覆われている。何だか嫌な予感に襲われながら、恐る恐る進み、『118』のくりぬき文字が取り付けられたドアの前に立つ。
ノブに手が伸びない。これだけ沢山の足跡が残っているのだ。もしかしたら、ドアの向こうには誰か居るかも知れない。どんな人間が居るにしても、自分に好意的とは思えない。少なくとも俺は勝手にここに入って来てしまっている。
思わずドアに耳を押し当て、物音を確かめる。厚いドアだ、部屋の中の微かな音など漏れてくる訳がない。耳を離し、フンと鼻から思い切り息を吐き出すと、ハンドルに手を伸ばして一気に開ける。勢いの付いたドアがストッパーに当たって跳ね返る。
誰もいない。正面のデスク、左手にモニター画面、右手に書棚とキャビネット。モニター画面の前に置かれた応接セットのソファの位置がずれている。物陰に誰か隠れていないか、隅々まで見回しながら、慎重に部屋の中に入る。
デスクの前、床の上の埃が酷く乱れている。乱雑に残されたいくつもの靴の跡。応接セットのソファが除けられているのは、邪魔だったからだと推定できる。隼人は、デスクの前の乱れた埃の跡を見下ろして立ち止まる。
もしかして、ここに俺が倒れたんじゃないか?
不意に背筋を悪寒が走る。
ここに長く居たら危ない。
得体の知れない恐怖に襲われた隼人は廃墟を飛び出し、慌てて自分の部屋へと逃げ帰った。
リビングの照明も点けずに、毛布を頭から被って長椅子の上に座っている。何だか体の震えが止まらない。手にした携帯情報端末のモニターで、撮って来た動画を何度も再生してみる。画面に映る通路は、さっき見た沢山の靴の跡まではっきり分かる。そして、118号室の室内。埃が大きく拭われた様になっている床。その周囲は酷く埃が乱れている。
やっぱり、これは俺が倒れていたのを、誰かが運び出したって事じゃないのか?
それならば、自分の記憶が118号室の佳純のデスクの前で途切れているのは説明できる。だが、1つ疑問が説明できる代わりに、幾つもの疑問が新たに浮かび上がってしまう。
俺を運び出したのは1人じゃないだろう。そいつ等は一体誰だ?何故、俺を運び出した?あれほど綺麗に埃の絨毯ができていたと言う事は、相当長い時間、誰もあの場所に入らかなかったのに違いない。それなのに俺が入った途端、偶然に誰かが倒れている俺を見付けるなんて有り得ない。そいつ等は、どうやって俺があそこに居ると知った?俺は、次の日の朝、ベッドの上で目覚めるまで、何の記憶も無い。そいつ等が、俺を家のベッドの上まで運んで来たと考えるのが自然だ。何故、俺の家を知っている?どうやって俺の家に入った?それに、あんな死ぬまで誰にも気付かれなくてもおかしくない場所に居た俺を、わざわざ助け出しに来て自宅まで運び、黙って立ち去るなんて、人助けだとしても相当不自然だ。じゃあ、なんで俺なんか助けたんだ?そもそも助けたのかどうかだって怪しくないか?宇宙人がやって来て、知らない間に人体実験をされていた…なんて事は無いだろうが、サプライズの仕掛けにしても手が込み過ぎている。唯一、確信を持って言えるのは、誰かが俺を監視しているんじゃないかって事。俺の行動を把握していればこそ、廃墟の研究所の中に居た俺を運び出す事ができる。
考えている内にどうにも眠気が耐えられなくなり、隼人はベッドで深い眠りに落ちた。




