10 ユニバース25(1)
オノゴロの中の穏やかな日々は1年と続かなかった。本来1万人規模の人間を収容する事を想定して設計されている。2千人を養うのならば、食料供給能力にも余裕がある筈だ。事実、初期故障が収まり、オノゴロの運営が軌道に乗ると、住民の暮らしは安定した。だが、学者や技術者が完璧だと考えたコロニーは、物理的な計算では計れない2つの要素を見逃していた。つまりそれは、人間の心の中の『希望』と『欲望』だ。
オノゴロを計画した学者と技術者は、半永久的にこの中で人々が暮らしていく事を想定した。避難した人達が次の世代をオノゴロの中で産み育て、やがてオノゴロの中で暮らしているのが当たり前に変わっていく…。そんな未来を夢想をしていた。そう考えたのは仕方の無い事だ。一般人には明言されていなかったが、一部の専門家は気付いていた。恐らく、2度と外界に戻れないと。
一方、多くの一般人は、エリスによる災厄を病原菌によるパンデミックの様に捉えていた。今は未知の病原菌が猛威を振るっているから、コロニーという閉ざされた空間に逃げ込んで、災厄が過ぎ去るのを待つのだと。やがて寄生できる生物がいなくなれば、病原菌は自然に数を減らし、元の日常が戻ってくると期待していた。だが、エリスは違う。活動のためのエネルギーを必要としない化学物質だ。次に浸蝕する獲物が見付かるまで、いつまでも待ち続けられる。事実、火星の砂の中で40億年もの間、じっと待ち続けてきた。地球が草一本生えない荒野に成り果てようと、空気中を彷徨いながら、何億年でも次の機会を待ち続ける。人類がエリスを撲滅する対策を打ち出せない限り、それは終わらない。
対策…。オノゴロにエリス対策を研究する機能は無い。余りに時間が無く、完成したのすら奇跡なのに、エリス対策を検討する設備や人材まで手が回る筈が無い。後は、世界のどこかで有効な対策が考案され、それによって地球上のエリスが壊滅させられるのを祈るしかない。
オノゴロでの生活が始まり、それを取り囲む外界から人が消え、荒れ果てた廃墟に変わった後、一般人達の中に不安が広がり始める。
一体、これからどうなってしまうのか?
最初は、死の危険を免れ、安全な地に逃げ込めた事だけで安堵していた。それが既成事実になってしまえば、今度はこの先が心配になる。そして気付いてしまう、再び元の生活に戻れない事に。それまで人々の心の中に何となく不確かながらもあった、いつか元の生活に戻れるという希望は、一生、いや子々孫々までこの施設の中に閉じ込められると言う事実を突き付けられて、絶望に変わった。
欲望はどんな状況でも、人間を突き動かす原動力になる。混乱の兆しは、B-3ブロックの自治会から始まった。
その日は、住民が集まって、自治会の打ち合わせが行なわれていた。パイプ椅子に座る住民の中から、1人の男が手を上げる。太めの大きな体に、天然パーマのもさもさした髪、無精髭が喉まで生えている。
「そんでもよぉ、なんで俺っちが我慢しなきゃなんねぇんだ。みんな平等な筈だろ。」
男は少しかすれた野太い声を張り上げる。男が不満を言っているのは、住居割りの件だ。元々この地に住んでいた人は少数だ。多くの人間は、オノゴロができて閉鎖される直前に逃げ込んで来た住人だ。閉鎖時の混乱のため、夫々の住まいは、逃げ込んで来た時に、空いているマンションの部屋を勝手に占拠したまま定着している。マンションの部屋はどこでも条件が同じという訳ではない。日当たりが悪い場所や、出入りに不便な場所ができてしまうのはどうにもならない。逃げ込んだ時は、『やれやれ、これで生き延びられた』と言う事ばかりに意識がいっているが、生活が落ち着けば、それは当たり前になって、他の事が気になり始める。
「いや、貴方だけじゃない。皆さん、今の場所に落ち着いて、夫々多少なりとも不自由がありながらも我慢しているのです。何とか理解してもらえませんか。」
自治会長である中年の男が答える。頭頂部の毛が薄くなりかけた面長の顔は、眉間に皺を寄せ苦しそうだ。
「いやいや、だから、なんで我慢しなきゃなんねぇんだって。俺んとこは、午前中ぜんっぜん日が入らねぇ。かーちゃん、洗濯干すのに困ってるって。そう前にも言ったよなぁ、自治会長さん。他にも空いている部屋があるんだろ?」
無精髭の男の声が大きくなる。周囲の人間は、できるだけ関わらない様に黙り込んでいる。1万人収容するだけの部屋が準備されている。そこに2千人しか入らなかったのだから、当然空き部屋はある。
「ですから、勝手に好きな所に移ってもらう訳にはいきません。」
「どうして、どうせ空いているんだろ。」
「そう言う例を作ってしまったら、我慢している人達が、我も我もと言う事態になってしまって収拾が…」
「良いじゃねぇか、それで。」無精髭の男は遂にパイプ椅子から立ち上がる。「みんな不満があるってぇなら、そうやって選び直せば良いだろ。取り合いになる部屋がありゃ、抽選にしたって構わねぇぞ。」
「自治会ですから、こういう事は、住民の総意で決めませんと、勝手をされては、混乱が生じてしまいます。」
「総意だって言うんなら、とっとと多数決でも何でも取ったら良いじゃねぇか。それがあんたの役目だろ。」
自治会長は、苦虫を噛み潰した顔で押し黙る。
「大体、部屋割りなんか、ここに来た時に勝手に入ってそれきりじゃねぇか。それをそのままにしておく方がおかしいんじゃねぇか?それこそ、早いもん勝ちを認めてるって事だろ。」
自治会長が反論しなくなったので、無精髭男もそれ以上言う事がなくなる。不満そうに大きな体を揺すりながら、ドスンとパイプ椅子に腰を下ろす。
「あの、発言良いかな。」
住民の中から、別の男が手を上げる。背の高い中年男。オールバックに綺麗に髪を整えている。
「どうぞ。」
嫌な流れから抜け出したい自治会長は、直ぐに許可する。男は立ち上がって話し始める。
「自治会長さん、あの人が、ああやって訴えてるんだから、他の住民に意見を聞いたらいいんじゃないかい?他にも今の住居に不満を持っている人が居るかも知れない。それとも自治会長さんは、どのくらいそんな人が居るのか、もう把握しているのかい?」
「いえ、まだですが、B-3ブロックだけで見直しをするのは難しいと思います。条件の良い場所はそうそうありません。良い場所は誰だって入りたい訳ですから、B-3ブロックだけでなく…」
「自治会長さん、あんた、いつだって、そうやって、あーだ、こーだ言っているだけじゃないか。」中年男は、急に大きな声になる。「自治会での役決めだって、おらぁ、食料係をずっとやらされてる。ありゃ、重たい荷物があるから、若い人に替えてくれって、何度も言ったじゃないか!」
自治会長はまた黙り込む。
「そんなんじゃ、任してられねぇ!」無精髭男が立ち上がって叫ぶ。「大体、あんた、何の権限があるってんだ!」
「わ、私は、皆さんの推薦を受けて…」
すっかり自治会長は腰が引けている。
「あんときゃ、よく知らなかったから、みんなが良いならって同意しただけだ。」
無精髭男は喧嘩腰だ。
「わ、私だって、やりたくてやっている訳じゃ…」
「良いさ、だったらやり直そう。今なら、みんな知った仲だ。」
中年男も同調する。周囲の住民は勢いに圧され、火の粉が自分の上に降り掛からない様に、ただ黙って成り行きを見守る事しかできない。
こうして、自治会は声の大きな者、威勢を張れる者に牛耳られていく。彼等は、何かと理由をつけて、自分達の良い様に運営していく。そのうち彼等は気付く、オノゴロの統治組織が張子の虎である事に。
政府の要人達は、こぞってオノゴロに逃げ込んだ。偉そうに文句を垂れる人間は揃っているが、彼等の手足となって動く役人共は、ほんの一握りだ。住人2千人は、謂わば小さな集落規模だ。だから、そんなに行政機関の人間が必要な訳でないが、少人数なのは役人だけではない。治安をあずかる警察組織も弱体化している。10人程度の現役警察官とオノゴロの出入り口を警備していて、そのまま家族と共にオノゴロ内に避難した機動隊の分隊の隊員が20名程度。携帯武器は、分隊が持っていた小銃と、警察官の拳銃が夫々数丁。銃器はあっても、弾は携行していた分しかない。補充は有り得ない。まして、住人に対して発砲するなど、余程の事が無い限りできはしない。
自治会を牛耳った男達は新たに行動を起こす。機動隊や警察官の中に知り合いを作り、敵対関係にならない様に関係を深め、威張り腐っているだけでお荷物でしかない政府の要人達を、オノゴロ内の社会の頂点から追い出した。実際に老人達は何の役にも立っていなかった。その上住民にしてみれば、オノゴロから出られない事実に絶望させられたのは、政府に騙された結果だと解釈している。だから、老人達が追い出される事態を、住民はむしろ歓迎した。こうして彼等は、オノゴロの頂点に上り詰めた。
何もしない支配者の方が、私欲のために一般市民を虐げる支配者よりもマシだと、その後になって気付いてももう遅い。オノゴロ全体は暴力が支配するスラムと化し、支配者におもねる小物がチンピラの様に街をうろつく。良識ある者や力の弱い者は、彼等を白い目で見ながらも、事を荒立てず、半ば隠れて暮らす様になった。




