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1 野付崎隼人の日常(2)

 昼休みにオフィスの外に出る。約束のレストランは、そう遠くない。オフィスのあるブロックから信号のある交差点を2つ行った、模造(もぞう)大理石で外装が装飾(そうしょく)されたビルの角を曲がったすぐ先だ。ビルの角を右に曲がれば、『Capriccio』と緑の生地(きじ)に白い文字の浮き出た旗が店の軒先(のきさき)に下がっている。

 初めての店だ。少し気後(きおく)れしながら店の前に立って中を(のぞ)けば、丸テーブルを(かこ)む席に座ったカズと目が合う。茶色に染めて軽く波打つ前髪が、きっと彼は自分の容姿に自身があるのだろうと想像させる。いつもパーカーにジーンズを穿()いているが、色や(がら)が毎回違う。一体何着持っているのか、その組み合わせは無限にある(よう)だ。今日は臙脂(えんじ)色のパーカーだ。

 カズが隼人(はやと)の姿を見付けて、(うれ)しそうに小さく手を振る。カズの両脇(りょうわき)に男が座っている。向かって右手の席に座っているのはノリオ。長い足を組み、ダイヤモンド(がら)のセーターを着ている。喜怒哀楽(きどあいらく)が顔に出ないから、如何(いか)にも気難(きむずか)しそうに見えるが、話せば思い()りを感じさせる(おだ)やかな男だ。カズの動作で隼人の到着に気付いて振り向く。

 向かって左手の男は、斜め後ろの方向に位置する隼人に気付かないのか、気付いているけど振り返る必要はないと思っているのか、真っ直ぐ前を見たまま動かない。3人の中で一番大柄(おおがら)な、ラグビー選手の(よう)な広い肩幅の男。()り上げた髪が(なお)の事、その印象を深くしている。彼がムサシだ。

 隼人は、ムサシの背後からテーブルに近付き、当たり前の(よう)に黙って最後に残った席に腰を下ろす。

()ぐに分かったかい?」

 最初にカズが、中性的な(やさ)しい声で隼人に声を掛ける。

「ああ、(わけ)無い。」

「俺達は先に注文した。」横からノリオが張りのある声を出す。「アサリのガーリックパスタが今日のお(すす)めらしい。」

 隼人の背後から店員がやって来て、彼の前にメニューを差し出す。表紙に店の名前が(きん)(はく)押しされた赤い2つ折りの厚紙を(ひら)く。

「ねえ、ハヤトは何にする?」

 メニューを見始めたばかりなのに、カズに()かされる。

「ああ…、そうだな。」

 細かい字で長ったらしい料理名が羅列(られつ)されていて、読む気にならない。

(ちな)みに、俺はお(すす)めにした。」

 そう言って、隣のムサシが片側だけ口角(こうかく)を持ち上げて笑う。

 名前だけでは、どんな料理なのか今1つ分からない。トマトベースのソースなのか、違うのか…。そうじゃなくても、最後に来店した隼人だ。皆を待たしてしまっている。これ以上迷惑をかけるのは申し(わけ)ない。

「それじゃ、俺もそれにしよう。」

 隼人は、背後の店員にメニューを(もど)しながら、アサリのガーリックパスタを注文した。

 それほど待たされずに、パスタはテーブルの上に運ばれて来る。パスタから立ち上がる湯気に乗って、ニンニクの香りが周囲に広がり食欲をそそる。他人(ひと)と顔を合わせる仕事をしていたら、こんな時間にこの料理を食そうとはしないだろうと思いながら、隼人はフォークでパスタをすくう。

「ハヤトは、これから先の事、何か考えているか?」

 パスタの皿の中をフォークで()き回しながら、ノリオが突然、話題を振って来る。

「何だ、唐突(とうとつ)に。何か話したい事があるのか?」

「いや。ふと思い付いたから()いてみたんだが、迷惑だったか?」

「そんな、迷惑って(ほど)の事じゃない。そうだな…。」

 皿の中でパスタをフォークに巻き付けながら、隼人は考える。

 これから先の事なんて曖昧(あいまい)な言い方では、何が()きたいのか答えに迷う。ノリオは、きっちりした性格だ。お(かた)い銀行員って感じだ。本当はどんな職業なのか知らないが、ノリオが()きたい『これから先』と言うのは、午後の予定ではなく、将来のビジョンなのだろう。

「…特に、これと言って考えている事は無い。ノリオはどうなんだ?折角(せっかく)だから自分の考えている将来について話したいんじゃないのか?」

「いや、別に。本当に思い付きで口にしただけだ。」

「だとしても、何かお(すす)めみたいな事があるんじゃないのか?」

 ノリオの事だ、何か人生設計のアドバイスをしたいのだろう。

「いや…、すまん。それも無い。」

「おい、ハヤト。」ムサシが話に割って入る。「気を付けろ。ノリオはきっと何か(たくら)んでいるぞ。」

「人を詐欺師(さぎし)(よう)に言うな。」ノリオがムキになる。「単に思い付きで()いただけだろ。」

「いやいや、(あや)しいもんだ。」ノリオを見るムサシの目は笑っている。「そうやって相手を安心させておいて、危ない投資話でも始めるつもりじゃないのか?」

「馬鹿を言うな!誰がそんな話しするもんか。」

 資産運用の話とかじゃないんだ。まあ、そんな話をされても興味がない。と言うか、自分がいくら金を持っているかも知らない。地下鉄の乗り降りも、この店の支払いだって、全部カードだ。一体自分がいくら使って、いくら残っているのか、その上、仕事でいくら(もら)っているのかすら気にしていない。

「おい、カズ。」ムサシはノリオの不機嫌(ふきげん)そうな顔を見たまま、隣でパスタを頬張(ほおば)るカズに話し掛ける。「お前、ノリオに有望な投資先があるって話を持ち掛けられたら、その話、乗るか?」

 やっぱり、ノリオは金融(きんゆう)関係の仕事をしているのだろうか?それとも、ノリオを見ていだく印象はみんな一緒って事なのか。

 カズは、頬張(ほおば)っていたパスタを()み込んでから口を(ひら)く。

「ううん、やらないよ。」

「そうか、そうだよな。」

 ムサシは満足した(よう)に1つ(うなず)いて、自分の皿の中のパスタに意識を集中する。

「なんだ、失礼な奴等(やつら)だな。」

 長身のノリオが上体を()らして2人を(にら)む。

「僕はノリオを信用しているよ。」(かす)かに()みを(たた)えて、カズが静かに言う。小柄(こがら)童顔(どうがん)だからなのもあるが、笑うと十代の若者の(よう)だ。「でも、投資する様なお金は持ってないからね。」

「だから、誰も投資の話なんかしていないだろ。」

 ノリオは怒っていると言うより、(あき)れている。

「資産形成の話じゃないのか?」

 隼人もノリオに念押(ねんお)しする。

「そうじゃない。」ノリオは気分を害する事も無く、隼人に対して丁寧(ていねい)に話し始める。「誰でも大抵(たいてい)何かしらあるんじゃないか?やってみたい事とか、気になっている事とか。」

「え?うーん…」

 そう言われて、隼人は考え込む。随分(ずいぶん)長い間、そんな感情が働かなかった(よう)に思えてくる。そういう感情が人間には(そなわ)わっている事に、あらためて気付かされた様な感覚。

「何だ、そんな事か。」一頻(ひとしき)り、パスタを口の中に()き込む事に集中していたムサシが顔を上げる。「そんな話で良いなら、俺にだって言えるぞ。」

 何だか、とても自信ありそうだ。

 背筋を伸ばし、居住(いずま)いを(ただ)すと、ムサシが声を張る。

「将来に(つな)がるかは別として、今思うところがあるなら、行動した方が良い。時間は巻き戻らないからな。」

 ()(かく)行動って感じが如何(いか)にもムサシらしい。立派(りっぱ)な体格のムサシなら、どんなスポーツでも苦も無くこなすだろう。きっと何かの社会人チームに所属しているのに違いない。隼人は、ムサシの自信の(みなもと)を知りたくなる。

「そう言うからには、ムサシは何かやっているのか?」

勿論(もちろん)。」自信たっぷりにムサシが即答(そくとう)する。「やり甲斐(がい)のある仕事をしている。毎日考える事が多い。俺は、考えを(まと)めてから動くのは苦手(にがて)だから、行動した後で軌道(きどう)修正が必要ないか振り返る(よう)にしている。」

「仕事か…。」

 隼人の口から、思わず言葉が()れる。体育会系に見えるムサシの口からそんな言葉が出て来るなんて意外だ。

 自分はどうだろう。

 隼人は目を()せ考える。今の仕事に情熱は無い。毎日ダラダラと当てもなく続けているに過ぎない。一体、ムサシはどんな仕事をしているのだろう。

「うん、そうだな。」ノリオがしたり顔で(うなず)く。「難しいがやり甲斐(がい)のある仕事は良い。」

「そうだね。」

 毎日遊び回っている(よう)にしか思えないカズまで(うなず)いている。

 なんだ、みんな案外しっかりしているな。

 隼人は何だか、自分だけ取り残された様な気分になって黙り込んだ。


 昼食を終えて店の前で3人と別れた。

「それじゃ、夕飯はいつもの所で。」

 別れ(ぎわ)、彼等は隼人に向かってそう言って背を向ける。いつもの所。それは、隼人の家に近い地下鉄駅から、家と反対側に向かって数百メートル行った場所にある飯屋だ。午後7時過ぎになると、同じ4人がそこで顔を合わせる。

 隼人は、大抵(たいてい)午後6時には仕事を切りの良い所であげて、最寄(もよ)り駅まで(もど)って来る。7時までには余裕(よゆう)がある。駅近くのフィットネスクラブに寄り、軽く運動する。入店も退店も自由だ。顔認証システムか何かで、誰がいつ、何時間利用したのか把握(はあく)するのだろう。受付に男の店員が1人立っているが、声を掛ける事すらしない。(おそ)らくAIロボットだ。トレーニングルームの中も隼人だけだ。利用客と1人も顔を合わせない。飯屋に7時5分前に着くのを目安(めやす)に退店する。

 外に出てみれば、空はすっかり暗い。街灯の明かりだけが輝いている。周囲のビルは空室だらけなのか、通路灯が裏寂(うらさみ)しい光を放っているだけで生活の気配が感じられない。()ぐに飯屋が見えて来る。そこだけ白熱灯(はくねつとう)色の温かみのある屋外灯(おくがいとう)に照らされ、浮き上がって見える。店のドアを開ければ、(すで)に3人が座敷の四角いテーブルを囲んで胡坐(あぐら)をかいている。

「今日は(なべ)にした。」

 隼人が席に着くなり、ムサシが告げる。

「どんな鍋だ?」

「鍋って言っちゃったら、イメージできないんじゃない?」カズが笑顔で話す。「すき焼きだよ。」

「お、そうか。」

(いや)だったか?」

 ムサシは隼人を横目で(にら)む。

「そんな事は無い。良い選択じゃないか。」

 忖度(そんたく)などしていない。4人で鍋をつつくのも良い。

 (から)の鉄なべが火に掛けられ、具材の野菜類はざるに、肉は陶器(とうき)の皿に綺麗(きれい)に並べられて運ばれて来る。鍋がグツグツと()えるのを待つのも良い時間だ。それぞれが別の食材だった物が、鍋の中で1つの料理として完成していく(さま)(なが)めながら談笑する。

「そう言えば、ムサシのやり甲斐(がい)が仕事だとは意外だったよ。」

 気持ちがほぐれた隼人の口は軽くなる。

「そうか?ハヤトは、一体俺をどう見ていたんだ。」

 ムサシは気を悪くする様子もなく()き返す。

「その体格だから、何かしらのスポーツに打ち込んでいるのだろうと想像していた。学生の頃は何かスポーツやっていたんだろ?」

 一瞬の沈黙がその場を支配する。カズもノリオも黙って(なべ)を見つめている。

「それはハヤトが勝手(かって)に作り出した虚像(きょぞう)だ。」ムサシは、隼人の質問には直接答えず、静かに話し始める。「実体の俺はそうじゃない。確かにごつい体をしているが、だから必ずスポーツ選手だという(わけ)じゃない。」

 ムサシは、グツグツ()える鍋の中から、器用(きよう)に焼き豆腐(どうふ)(はし)()まみ上げる。

「これがハヤトには何に見える。」

「なんだ、俺を揶揄(からか)っているのか?」

「そうじゃない。良いから、答えてみろ。」

「…(はし)(はさ)まれた豆腐だ。」

 隼人は、警戒しながら言葉にする。

「豆腐か…、本当に豆腐か?俺が、『これは、鍋の中に落っこちて(あやま)って煮込(にこ)まれたスポンジだ』と言ったら信じるか?」

 隼人は()ぐには答えない。3人の様子を注意深く見回す。誰も笑っていない。真剣(しんけん)な顔で隼人の答えを待っている。

「…何が言いたいんだ?」

 何だか(あや)しい雰囲気だ。

「ハヤトが(とら)えた知覚が本当に現実の世界かって話さ。恐らくハヤトの目には、焼き目の付いた四角い物に見えているだろう。(はし)(わず)かに食い込んでいて柔らかそうだし、その上、その表面から湯気(ゆげ)が出ていれば、ハヤトでなくても、これを豆腐と思う(はず)だ。」

 何だ、この話は。

 要領(ようりょう)(つか)めない話し方に、隼人はイラついてくる。

「目の前にある四角い物の一面しか、ハヤトの網膜(もうまく)(とら)えていなくても、それまでの経験で補完(ほかん)し、奥行きのある直方体の形をした柔らかい豆腐だと認識する。それをいくら俺がスポンジだと主張したところで信じはしない。(さら)に、これを口に入れて()めば、()ぐに形が(くず)れ、豆腐の味覚が感じられれば、豆腐以外あり()ないと確信するだろう。」

 ムサシは言葉を切る。

 ムサシが話している間、黙って聞いていたノリオとカズも含めて何だか変だ。3人(とも)不気味(ぶきみ)に思えてくる。

「…これは、何の講義(こうぎ)だ?それとも、宗教でも入ったか?」

「我々は直接対象を知る事ができない。」ムサシの言葉を受けて、ノリオが真剣な顔で話し始める。「我々の知覚は、感覚から得られた情報を元に、対象の構造や状態を推論して脳が作り上げたものだ。」

「それ…」思わず隼人の口から言葉が()れる。「それ、知ってる。ヘルムホルツだ。」

「お~。」

 ノリオ達3人の口から異口同音(いくどうおん)感嘆(かんたん)の声が上がる。

「それが分かっていれば良いさ。」

 ノリオはしたり顔で(うなず)く。

流石(さすが)、ハヤトだね。」

 カズまでそう言って、笑顔になる。

 ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ。ドイツの物理学者であり、生理学者。ノリオが言った言葉は、この生理学者が立てた知覚に関する理論だ。人間は、直接(そと)の世界を把握(はあく)できない。五感で得られた刺激を元に頭の中で世界を組み立て直して、それを自分の外の世界と認識している。

 ノリオの言葉を聞いた途端(とたん)、まるで静かな沼の水面に奥底(おくそこ)からガスの気泡が()き上がる(よう)に、突然その学者の名前が隼人の脳裏(のうり)に浮かび、口をついて出た。隼人自身がその事に驚いてしまっている。

 何故(なぜ)、俺はこんな事を知っているのだろう。俺はまるで畑違(はたけちが)いのソフトエンジニアにすぎない。この理論が人間の脳を理解する学問の端緒(たんしょ)になり、ひいてはAI技術の基礎(きそ)になっている。仕事でAIロボットのタスク入力ソフトに(かか)わっているから、仕事に取り掛かるための必要知識としてこの理論を勉強したのに、単に勉強した事そのものを忘れてしまっただけか?

「そろそろ頃合(ころあ)いだ。食べようぜ。」

 ムサシが生卵を()いた小鉢(こばち)を持ち上げる。隼人はその言葉で我に返ると、(あわ)てて生卵をかき混ぜた。

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