保健室
6.保健室
一日中、騒がしい情報が頭を駆け巡り、疲れ切った次の日。
空調の音も聞こえない朝。窓の日射しが気に障る。枕の向きを変えて二度寝しようとしたが、どんどん意識がはっきりしてくるばかりだった。悪夢の中に起きてしまった、昨日より気分は悪くない、オーバーヒートした熱が少し冷めたのか、朝食をぼーっとした頭でゆっくり飲み込み、精神安定剤を喉に落とし込む。
何もすることがないなら何もしなきゃ良い。布団に入って、寝るのか寝ないのか分からない微睡み状態を行き来していた。
一日一回、この隔離病棟でも家族との面会が認められていた。1日ぶり、普段と会っていない時間は同じなのに、意識だけで一ヶ月は待った感覚を持った。色んな土産話を聞かせてもらった。病棟の外はどうなっているとか、ニュースの記事とか、家庭のこととか。頭に新しい情報がまた巡り始めた。何だかふらついてくる。何がそうさせてくるのか。面会が終わって、今日の体温を測っている時間に看護師に聞くと、この治療は、まず何もない部屋に隔離する事で頭をリセットする。ここまでは聞いていた。リセットしたため、今日は少しぼーっとして、そこに新しい情報が入るとそれが負担になるらしい。
土産話を聞いて、外の知識を吸った事で頭が重くなったらしい。なるべく頭を軽くする為、情報からシャットアウトした何もない部屋が意味を持つ。この何もないが、よく見れば自傷できないよう、色々な工夫の成されている部屋に守られている事がわかった。
3日目の午後、この部屋の外を見る事が叶うらしい。つまり脳の再起動に3日必要だという事だ。
初めに入院するときは「2.3日だけ休んで様子を見よう」と言う話だったはずだが。
身体の為を思えば仕方ない事だろう。
と、その時、産まれて初めて、自分の体調を労った事に気が付いた。
風邪で学校を休む事はあっても、その意識は全くなかった、受験を前にして休んでいる暇など無いからだ。
それに気が付いた時、笑みが零れた。自然と目頭も熱くなる。責めるべきは自分自身ではなく、休む事を知らなかったその生活にあった事に安堵した。
健康な生活を取り戻せるなら、取り戻そう。少し前向きになった心を持って、自然と昼食、夕食がくるのが早く感じた。
何も考えない練習も小慣れてきた。
睡眠薬を渡される度、今日が終わる事、意識がなくなる事に死ぬ事を重ね合わせて、寝る事と死ぬ事はほぼ同義なのだと思い、睡眠薬を飲むのが嫌な時期があった。
そんな事も笑い飛ばせるような、そんな軽い心持ちで、何もない、本当に何もない2日目は終わった。
3日目の朝、夢は見たような、見てないような、相変わらずだ。
世間から切り離されて3日、休む事を体が覚えて来た。頭の中は初日より煩くもない。退屈しのぎの面会、食事、午後は外を見られる。退院出来るのだろうか。
外の戸が開いた時、洪水が流れ込んでくるように、頭の中に外の景色を見回した。
狭い何もない部屋から出られた事が嬉しかった。外は案外窓が大きく、外の景色住宅街がよく見えた。
ここにタクシーできた事を思い出すと、電車や車の音が聞こえないこの病棟は、設備が充実しているようだ。交通に不便な事を除くとそう感じた。
すぐに昨日と同じ感覚が来た。新しい情報が頭に入り、重くなってきた。今度は自分から、部屋に戻る事を選んだ。
ざわざわする。大量の情報を壊れたコンピュータには処理しきれなかった。
これは退院できない、そう思った。看護師も分かっていた様な顔をしていたから、また騙されたような気がした。いつになったら楽になれるのか。何もない部屋に自分から望んで入った所から察すると、少し遠い気がした。
入院した夜に殴り続けた戸は鍵が開いていたが、パンク寸前の脳で外に出たいとは思えなかった。
楽なら、この部屋で過ごそうと、4日目を迎える準備の薬を飲んで、就寝時間にすぐに寝息を立てた。
また朝が来た。この部屋は朝日が眩しくて眠りにくい。布団に潜って二度寝をし、朝食を運んできた看護師に起こされた。
今日は主治医に体調を診察してもらう事になっていた。少し緊張しながら扉を開け、少し回復した頭に飛び込んでくる情報の波に逆らい診察室へ。
食事や睡眠が薬で制御出来ている事をカルテに書き込むと、すぐに診察が終わった。
今日は少し外を見てみる事にした。一日中鍵がかかっていないため、好きな時間に通常病棟を見る事が出来た。
精神病棟だから当たり前なのだが、普段目にする事の無い、うつ病の患者を20人ほど、顔を見てきた。どの人も自分より年上に見える。未成年者が重度のうつ病になるケースはあまり多くないだろうが、分かったことは、みんな何処か顔に陰があり、俯いて言葉を発せず、話をするにしてもかなり小声の人が多かった。
自分より軽症なのだろうか、心に病を抱えた者同士、馬が合うのかと思えば、話ができそうな人は殆ど見受けられなかった。自分も含めてだが。
5日目も同じ様な1日だった、1日何もしないでいる日に慣れると、早く時間が過ぎる様に思えた。
面会に来た親はいつもより饒舌で、1日会話すること自体が少ない自分にとって、情報が頭に入ってくる量が最も多かった。
会話をするだけでふらふらになる感覚を覚え、疲れたのがすぐ分かったそうだ。
何だか前より、人間らしくなった、と言われ、嬉しさの直後水を打たれた様に惨めになった。今まで人間じゃなかった、のか。
入院して一週間が経ち、通常病棟の人と食事を共にしたが、看護師が運んでくるのを待つ患者は1人として話をしなかった。
誰かと食事するのは久しぶりだが会話がないため、期待とは裏腹に代わり映えしなかった。
次の日から、テレビがある部屋に行ってみる事にした。話をしないで退屈してきて、新しい情報が入っても耐えられるか、気になったからだ。
案の定、1時間ほどで疲れてきた。部屋に戻り、何も考えない事に集中して体力を温存する。
夕食の時間まで休み、食事が運ばれるのを待っていた時、突然、目の前の老人に「君は話が出来るみたいだね」と、話しかけられた。驚いたが、考えてみれば食事が運ばれたときの「ありがとうございます」を言っていたのは僕だけで、辺りをキョロキョロするのも僕だけだったから、話をせずとも、分かったのだろうと、後で気付いたが、話が出来るのは、その老人にも言える事だ。何故、普通の人の様に話すのか、「まあ、少しなら話はできます」
「数日前から君を見ていたけど、君はどの部屋で寝ているんだ?」
など、会話を交わし、名前も話した。
見れば、俯いている様な陰も表情にはなく、精神病では無いらしかった。何故ここにいるのか、と尋ねると、綺麗に並んだ歯を見せて笑いながら、テニスを趣味でやっていたが、足が痛くなり色んな治療をしたが、精神的な物である可能性を疑われ、入院していると言う。なるほど、これならほぼ健常者である。若く見えて、70代だそうだが、年齢に負けない運動量のお陰でかなり元気そうだ。
少しずつ話をしながら、仕事の話を聞き、大手企業の外資系で活躍してきた腕利きで、英語がとても流暢な事に驚いた。
英語を交えて会話をして、退屈な入院生活は打って変わって楽しい話を何にも縛られずに出来る、そんな雰囲気に変わっていった。
頭の中が言葉で埋め尽くされる事も減り、免疫がついてきた。病院食も大盛りを注文して、健康な日々が始まった。
入院して9日目。外の木々は少し葉を落とし、秋風が吹いていた。完全に自傷や自殺ができない様、窓も固定された病棟なので、風は木の揺れを見るしかなかったが。
今日はお風呂に入れる事になった。今まで一度も入浴していなかったのだ。それは病棟の浴室の数と患者数の問題もあったが、部屋の外で刺激を受けない様にする為でもあった。汗もかかないので着替えるだけで済んでいた。
暫く振りの入浴だったが、緊張していた為、30分時間が与えられていたが、10分で済ませてしまった。
そしていつものようにテレビ前に座り、おじいさんに近い年の人と談笑。普段知らなかった相撲の話など、年寄の人と話す機会が少なかった僕にとって、とても良い時間だった。全く知らなかった相撲は技と選手も覚え、食事中応援する事もあった。夜9時を回る頃には疲れてきて、しっかり座る事も出来ないが、会話をする時間は朝から晩までゆっくり楽しめた。
看護師から見ると、おじいさんと孫が話をしている様な光景に和むと、言われ、嬉しかった。
入院生活に慣れてきた時、親がとんでもなく重いニュースを持って面会に来た。
僕の自殺の計画についてばれたそうだ。それも警察から直接聞いたらしい。
インターネット上で友人に自殺する事を告げ、自分に刃を向けた時、携帯電話での自殺宣告を警察に見つかったらしい。文章を読み上げられたが自分のもので間違いなかった。若しくは、自殺を告げた友人が通報したのか、それにしては警察が来るのは遅い、恐らく通報は無かったと思われるが、事情聴取が自宅で行われた旨を親から聞き、叱られた。自分の命を投げる事くらい、自分でやらせて欲しいと思ったが。そんな事が許されるわけも無く、黙って嵐が止むのを待った。主治医にもその話は伝わり、退院の話は先送りになった様に見え、絶望感でいっぱいだった。
しかし、それ以外何の問題も起こさず大人しくしていたので、隔離病棟から一般の部屋に移る事が許可された。
どこで寝るのも大差無かったが、親と看護師の間でお金の話を小耳に挟んだ為、一般の部屋に移った。ここでは、漫画や本を持ち込む事も許可される様だったが、電子機器は危険なため、許可されなかった。
看護師は休日や夜間で交代しているらしく、担当の看護師が変わって行く時に全ての看護師から話を聞いて回った。
若い看護師の女性は、僕より一つ年上なだけだった、資格を取り、すぐに仕事をしている、僕とは全く違う立場で同じ病棟にいるのが何だか妙だった。
綺麗な笑顔を見て、早く退院したいと思っていたが、看護してもらえないと思うと何だか寂しく思った。そう思った自分の心にも、人間らしさが戻ってきているのを実感して、少し安心した。
勉強をする事だけ今までやって来て、壊れた受験用コンピュータは人工では無い感情を取り戻していた。
健常者に近づいて来て、12日目、外出許可が出た。家に帰り昼食を取り、夕食までに病棟に戻る。そして薬を時間通り飲める事を親同伴で、証明する事が課せられた。
退院の為には成功させなければならない宿題を出され、久しぶりの帰宅に胸を躍らせながら病棟を出た。
外の風は涼しく、通り抜ける真っ直ぐのコンクリートに沿って並ぶ林が季節を教えてくれた。
新鮮な思いで新しい情報を頭に入れ、久しぶりの帰宅。
なぜか、お邪魔します、と言いそうになった。すっかり入院先が家の様になってしまっている。
入浴も済ませて部屋でゆっくり過ごした。
早く家に帰りたい気持ちと病棟に残りたい気持ちが両方存在し、複雑な面持ちだったが、宿題をこなし、時間までに病棟に戻って自分の部屋へ。うつ病である事を受け入れ、心配事なども感じず過ごせる事に入院生活が徐々に好きになっていた。
他の患者も見てみたが、まともに話をするのはやはりいなかった。
誰もが辛い現実に耐えてきた、そんな顔をしている。
それでも社会はうつ病を、今日に至るまで、「怠け病」と呼んだり、差別的な目を向けられる事が多く、心を病んだ人は酷い待遇を受けてきた。些細な事に悩み、家庭環境でストレスを受け、辛い感情を吐き出す事もせず報われない努力を無償で注ぎ続けた結果に罹るものがうつ病だ。
理解がある人もいるだろう、経験者やその家族、それを乗り越え社会復帰を果たした人もいるだろう、しかしそれでも、友人関係は変わり、気を遣われ、面倒に扱われ、結果遠回しに避けている現実は変わらず存在する。問題は本人だけでは無い。必ず引き金になる因子がある。それを体調管理の一言で片付けるには余りに理不尽だ。
ストレスに耐える事を強いられて、身体を壊しても尚身を投じ続け病気になる人が愚かなのか、そうではない。国単位で認識を改める必要があると言える。
そんな社会にまた羽ばたく義務を持った僕は退院して、強く、生きていく力を自分で手に入れなければならない。
一度死を選んだ者が新たな生活を送る事が出来るのか、答えは簡単には出てこない。
入院13日目、次は外泊許可が出た、次の課題だ。家で1日過ごして病院に戻る。
薬を時間通りに飲めるか、が今回も要点になる。
主治医の指導の下、再び家に帰る。
コンクリートの床は冷たい。いつも通りに使っていた携帯電話、テレビ、冷蔵庫、手紙、机の教科書、病院に無かった物だらけで、いかに普段から頭に情報の中で生きてきたかを感じた。
携帯電話には大量の通知、開く気にはならなかった。音楽も聴く気にはならなかった。手紙も教科書も開かなかった。何故か、全て僕を自殺に追い込んだ因子に見えて仕方なかった。疲労困憊した脳に止めどなく英語や数式を叩き込み続けた青春の日々、部活で受けてきた人間関係のもつれのストレス、食べては吐いてを繰り返したコピー紙の山、自殺に使おうとした薬の山、全てが許せなかった。自分の生きる道を阻む物にしか見えなかった。ストレスを当たり前に受けてきた日々を返して欲しいと本気で思った。裁判を起こして全員を叩いて金をぶん取ってもこの怒りは満たされないだろう。偏差値でしか測れなかった人間の価値を疑問に思わず知識とストレスを溜め込んだ果てに壊れたお受験マシンの自分を見た自分に、「今の自分に何が出来る?」「将来の夢は?」
『分からない』『分からない』分からない。分からないけど生きていくしかない。何故、もっと早く、こんな簡単な事に気が付かなかったのか。悔やんでも仕方ない。悩む事の無意味さを病院で学んだ。生きる意味を学んだ。生きていて良いと受け入れてくれた。なら生きなければいけない。誰かの為に生きるんじゃない。誰かに言われて道を歩くんじゃない。自分のしたい事を見つけ、自分の足で歩いていく。その為に生きてきた。これからは自分の為に生きる。
入院から14日目、退院の許可が降りた。
卒業だ。病棟から抜け出す為に看護師の前で点数を稼ごうとした自分も卒業。夢もなく人の言葉を盲信して他人に褒められる為に媚びる自分も卒業。何より、自殺して逃げ出そうとした、生き方に不器用な自分を卒業。
そして、主治医の先生、看護師の方々、沢山社会を教えてくれたおじいさんに、生き方、生きる意味を教わった、それに恥じない生き方をしなければならない。
今度は本当に戻らない自分の部屋。
二度と食事をする事は無いだろう、おじいさんと話を交わした席。僕が外泊中病院にいない間、僕の席を服を置いて僕を待ってくれた、そして、退院を祝ってくれた。この御恩は決して忘れない。
看護師の方々、沢山お世話になった。しかし仕事の場である以上、全員に感謝を述べる時間は貰えなかった。でも、もう会わない事で病気を克服した事を証明したいと思った。




