壊す順番
氷は、白い板ではなかった。
近くで見ると、幾つもの層に割れている。
重なったもの。端だけ浮いたもの。海水の中へ沈み、色が青くなったもの。
作業艇の脇を、小さな塊が擦っていく。
船の上から見た海より、ずっと狭かった。
「右、半分だ」
バルが言った。
セトは右の櫂を浅く入れた。
「引くな。押して離せ」
言われた通りにする。
櫂の先が氷へ当たり、腕に硬い振動が返ってくる。
イオは舳先に座り、緑の灯を低く掲げていた。
灯の近くでは、氷の表面から細い水が走る。
けれど、大きな塊が消えるわけではない。
「もっと強くできないんですか」
セトが尋ねると、イオは首を振った。
「強くしすぎると、動く氷が増えるだけ。道ができるとは限らないよ」
灯の瓶の中には、小さな金色の欠片があった。
昨日見せてもらった、春のカケラだった。
「残りはあとに取っておこう。人を運ぶとき、手が動かなくなる方が困るからね」
セトは櫂の柄を握り直した。
*
観測所の窓に、人影が見えた。
一人が腕を振った。
バルが片手を上げる。
艇は岩の南へ回り、小さな桟橋へ近づいた。
桟橋は、半分沈んでいた。
脚の一本が傾き、上の板も波に合わせて動いている。
「そこはダメだ!」
上から声がした。
「端が抜けるぞ!」
セトは板の色を見た。
濡れて黒いだけではない。
木の繊維が、縁で裂けていた。
「あの柱なら」
セトは奥を指した。
「根元はまだ立ってます。縄を掛けるならあっちです」
バルが見た。
一度、艇を離す。
回り込んで、柱へ縄をかけた。
上にいた若者が受け取り結ぶ。
「動けるか?」
バルが叫んだ。
「一人、足をやってる」
「分かった。先にそいつからだ」
*
三人いた。
ラナの兄のニル。
観測所を預かる年配のロム。
それから、手伝いのカイ。
足を痛めていたのはロムだった。
昨夜、氷道の割れ目を確かめようとして、倒れた板に挟まれたという。
イオが灯を持って上がった。
セトはそのあとへ続いた。
板の中央を踏まず、脚の上だけを選ぶ。
観測所の中はひどく冷えていた。
薪は隅に残っていたが、竈の煙道が雪で塞がれ、火を使えなくなっていた。
ロムは毛布にくるまっていた。
「手が利かんのだ」
イオが灯を近づける。
緑の光が毛布の端を照らした。
しばらくして、ロムの指が動いた。
「春か」
「端だけです」
「贅沢な迎えだな」
イオは笑わなかった。
「帰ってから、もう少し贅沢してください」
*
戸板を外し、ロムを載せた。
ニルとバルが運ぶ。
セトは前を歩き、足を置く場所を示した。
艇へ下ろすと、船体が低く沈んだ。
カイが乗る。
イオが乗る。
ニルが、観測所を振り返った。
「帳面を——」
「置け!」
バルが言った。
「でも、一年分も——」
「命より重いものなら俺が戻ってやる! そうでないなら、乗れ!」
ニルは歯を食いしばり、艇へ下りた。
セトは最後に綱を解いた。
そのとき、波が来た。
*
艇の舳先が持ち上がり、桟橋の下へ入り込んだ。
板が、頭上で鳴った。
バルが櫂を突く。
「後ろへ!」
セトも櫂を入れた。
動かない。
船縁へ、桟橋の横木が掛かっていた。
潮が上がるたび、艇が下から押しつけられる。
「荷を、後ろへ寄せろ!」
バルの声がした。
けれど、六人乗った艇は、思うほど傾かなかった。
木が軋んだ。
セトは頭上を見た。
横木の片側に古い鉄の鎹があった。
もう片方は脚ごと折れている。
以前、解体場で似たものを見たことがあった。
引っ掛かった廃材へ無理に力を掛けてはいけない。
力の逃げる向きを先に。
「艇じゃなく、上を外します!」
セトは言った。
バルがこちらを見た。
「どこだ!」
「あの鎹です! 片側を抜けば、横へ落とせます!」
セトは道具袋へ手を突っ込んだ。
短い釘抜きがあった。
手袋をしたままでは、うまく握れなかった。
片方を口で引き抜く。
「波が下がってからだ!」
バルが櫂で横木を支えた。
艇が下がる。
セトは立ち上がり、釘抜きを差し込んだ。
動かない。
もう一度。
指が滑った。
木の棘が、掌へ刺さる。
「下がれ、来るぞ!」
セトはしゃがんだ。
波が艇を押し上げた。
頭上で、太い音がした。
横木に、新しい裂け目が走っていた。
次に上がれば、艇の縁が割れるかもしれない。
セトは鎹を見た。
片脚は、少し浮いていた。
「もう一回!」
バルは返事をせず、櫂の角度を変えた。
波が引く。
セトは釘抜きを奥まで差し、両手で引いた。
抜けた。
横木が傾く。
「離れろ!」
バルが櫂を押した。
艇が、後ろへ滑った。
次の波が来る前に、桟橋が横へ崩れた。
水が顔へ掛かった。
セトは座り込んだ。
手の中に、曲がった鉄が残っていた。
*
帰り道には、霧が出た。
町も、船も見えなかった。
イオの灯は、来たときより小さくなっていた。
「左だ、ゆっくり」
バルの声も、少し掠れている。
セトは櫂を引いた。
どちらへ進んでいるのか、分からなかった。
そのとき、音がした。
かん、かん。
少し間を置いて、もう一度。
ラナの鐘だった。
バルが顔を上げる。
「聞こえたな」
「はい」
「なら、まだ漕げる」
セトは頷いた。
掌が痛んだ。
それでも、今度は櫂を握る場所が分かっていた。
霧の向こうで、鐘が鳴った。
セトはその音へ向かって、もう一度、腕を引いた。




