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春を届ける船  作者: みやしー


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5/5

春を置かずに


 岸へ着いたとき、ラナは鐘の紐を離さなかった。


 艇が桟橋へ寄っても、まだ鐘を鳴らしていた。


「もう、大丈夫だよ!」


 ニルが叫んだ。


 ラナは兄を見た。


 それから、ようやく手を止めた。


 鐘の最後の音が、霧の中へ広がった。


     *


 ロムは、待っていた人たちへ引き渡された。


 カイも毛布を掛けられ、暖かい建物へ連れていかれた。


 ニルは自分で歩けたが、石段へ足を掛けたところで膝をついた。


 ラナが、兄の肩を殴った。


 強くはなかった。


 けれど、二度、三度と続けた。


「痛い」


「知ってる」


「もう、やめろ」


「煙、出してよ」


 ニルは答えなかった。


「何でもいいから、出してよぉ」


 ラナの声が、そこで崩れた。


 ニルは妹の腕を掴み、引き寄せた。


 セトは、そちらを見ないふりをして艇の縄を結んだ。


 結び終わった時、指先が震えていた。


     *


 船へ戻ってから、マーテに手を取られた。


 掌へ刺さった棘を見て、眉を寄せる。


「手袋はどうした?」


「外しました」


「捨てたのかい?」


「道具袋の中です」


「なら、大丈夫だね」


 セトは椅子へ座らされた。


 処置が終わるまで、食事には触らせてもらえなかった。


 湯気の立つ椀が、目の前へ置かれる。


 豆と肉の、濃い煮込みだった。


 セトは匙を持った。


 一口目でようやく腹が減っていたことに気づいた。


 向かいへバルが座った。


「鎹はどうした」


 セトは上着の袋から、曲がった鉄を出した。


 バルはそれを見た。


「持って帰ってきたのか」


「手元に残ってたので」


「今度から捨てろ。手を空ける方が大事だ」


「わかりました」


 バルは少し黙り、続けた。


「順番は、よかったぞ」


 セトは顔を上げた。


 バルはもう、自分の椀を持っていた。


     *


 翌朝、港長が船を訪ねてきた。


 手には、厚い封筒があった。


「観測所の三人を戻してくれたこと、礼を言う」


 オルドは、まずそう言った。


 ディナは頷いた。


「ロムは」


「しばらく休めば歩けるようになるだろうと言われた。ニルとカイも大丈夫だ」


「そうか」


 オルドは封筒を差し出した。


「だが、春はまだ受け取れん」


 セトは、荷口のそばで手を止めた。


 昨日の三人を助ければ、終わる話ではなかった。


 イオは何も言わず、港長を見ていた。


 ディナが封筒を開ける。


 中には、正式な引き取り延期の書付があった。


「期限は」


「まだ、決められない」


 ディナは紙を折り直した。


「こちらもいつまでもは待てない。残る三つの港がある」


「分かっている」


「分かっているだけでは、船は止められない」


 オルドは目を伏せた。


 昨日より、少し年を取ったように見えた。


     *


 セトは岸へ渡り、ラナに会った。


 ラナは港の外れで紐を巻いていた。


 昨夜使った鐘の紐だった。


「お兄さんは」


「寝てます。たぶん、昼まで起きません」


「そうか」


 ラナは頷いた。


 セトは少し迷ってから聞いた。


「春が来て困るのは、観測所の人たちだけじゃないんだね」


「向こうを、見たんですか?」


 ラナは湾の奥を指した。


 遠く、白い陸の縁に、小さな煙が何本も上がっていた。


「あっちにも家があります。冬は氷道を渡って粉も薬も、こっちから運ぶんです」


「渡し船がなくなったから」


「はい。春になると風渡りが来ます。小舟じゃ毎日は通えないんです」


「歩いては回れないの?」


「山を越えると遠いし。荷車も通れないので」


 ラナは紐を引き寄せた。


「町の人は春が嫌いなんじゃないんです」


 セトは黙って聞いた。


「早く畑を掘りたい人もいます。もう、雪は見たくないって言う人も。でも、あっちに家族がいる人もいて」


 遠くで、煙が一本、風に倒れた。


「だから、どっちを向いて春を迎えればいいか、分からないんだと思います」


     *


 船倉ではイオが春壺の水を確かめていた。


 セトが下りていくと、使い終えた灯を見せた。


 瓶の中の金色はほとんど消えていた。


「昨日の分ですか」


「そうだよ」


「減ったら戻らないんですか?」


「戻らないね」


 セトは瓶を見た。


 あの小さな光がなければロムの手は動かなかった。


 帰りの艇でも寒さを少しだけ和らげてくれた。


「もったいなかったですかね」


 口にしてから嫌な聞き方だと思った。


 イオは瓶へ栓をした。


「使うために持っているんだよ」


 それから、春壺へ目を向けた。


「ただ、何に使ったかは覚えておこう」


 セトは頷いた。


 四つの壺はまだ船に乗っている。


 最初の一つも減らさずそのまま渡せるわけではない。


 届くまでの時間も仕事の一部だった。


     *


 出港の支度を命じられたのは昼前だった。


 ベルカ湾をいったん離れる。


 次の港へ向かいながら、戻れる日と残せる春を考える。


 ディナは船員を集め、そう伝えた。


「延期は決定だ。拒否ではない」


 バルが腕を組んだ。


「戻ったときに、受け取れるようになってるかね」


「それはわからん」


「渡し船はどこかから拾ってくるつもりか」


「拾っただけで春を受け取ってくれるならそうする」


 ディナは真顔だった。


 何人かが笑った。


 笑ったあと、誰も簡単な話だとは思っていなかった。


 セトは、壁に掛かったベルカの地図を見た。


 壊れた渡し船。


 氷の道。


 向こう岸の煙。


 次に戻るとき、同じものを見ているだけでは済まないのだろう。


     *


 船長室へ呼ばれた。


 セトは木札を持って入った。


 仮雇いの、あの札だった。


 ディナは机の上に船員名簿を広げていた。


「ベルカで降りるか」


 セトは首を振った。


「いいえ、乗せてください」


「春は見られなかったな」


「少し、見られました」


 ディナの眉が動いた。


「岸壁の花と灯の中の。それから、受け取れない人たちを」


 言葉にすると、どれも小さかった。


 最初に想像していた、町いっぱいの花は見ていない。


 けれど、その景色を見ないまま帰りたくはなかった。


「縄はまだ下手です」


「知っている」


「船にも酔います」


「ああ」


「でも、仕事は覚えます。最後まで」


 ディナは、しばらくセトを見た。


 それから、名簿の一行を指した。


「自分で書け」


     *


 出港するとき、迎えの鐘は鳴らなかった。


 代わりに、防波堤の先で小さな鐘が二度鳴った。


 ラナが立っていた。


 隣には毛布を肩へ掛けたニルもいる。


 セトは手を上げた。


 向こうも手を上げた。


 バルに呼ばれ縄へ戻る。


 今度は結び目の向きを間違えなかった。


 岸が離れていく。


 ベルカの春はまだ船倉にある。


 セトは懐へ手を入れた。


 木札の裏には仮雇いの字を削った跡が残っている。


 その下に、新しく自分の名が彫られていた。


 甲板の向こうでディナが次の針路を告げた。


 セトは返事をし帆を上げる縄を引いた。

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