春を置かずに
岸へ着いたとき、ラナは鐘の紐を離さなかった。
艇が桟橋へ寄っても、まだ鐘を鳴らしていた。
「もう、大丈夫だよ!」
ニルが叫んだ。
ラナは兄を見た。
それから、ようやく手を止めた。
鐘の最後の音が、霧の中へ広がった。
*
ロムは、待っていた人たちへ引き渡された。
カイも毛布を掛けられ、暖かい建物へ連れていかれた。
ニルは自分で歩けたが、石段へ足を掛けたところで膝をついた。
ラナが、兄の肩を殴った。
強くはなかった。
けれど、二度、三度と続けた。
「痛い」
「知ってる」
「もう、やめろ」
「煙、出してよ」
ニルは答えなかった。
「何でもいいから、出してよぉ」
ラナの声が、そこで崩れた。
ニルは妹の腕を掴み、引き寄せた。
セトは、そちらを見ないふりをして艇の縄を結んだ。
結び終わった時、指先が震えていた。
*
船へ戻ってから、マーテに手を取られた。
掌へ刺さった棘を見て、眉を寄せる。
「手袋はどうした?」
「外しました」
「捨てたのかい?」
「道具袋の中です」
「なら、大丈夫だね」
セトは椅子へ座らされた。
処置が終わるまで、食事には触らせてもらえなかった。
湯気の立つ椀が、目の前へ置かれる。
豆と肉の、濃い煮込みだった。
セトは匙を持った。
一口目でようやく腹が減っていたことに気づいた。
向かいへバルが座った。
「鎹はどうした」
セトは上着の袋から、曲がった鉄を出した。
バルはそれを見た。
「持って帰ってきたのか」
「手元に残ってたので」
「今度から捨てろ。手を空ける方が大事だ」
「わかりました」
バルは少し黙り、続けた。
「順番は、よかったぞ」
セトは顔を上げた。
バルはもう、自分の椀を持っていた。
*
翌朝、港長が船を訪ねてきた。
手には、厚い封筒があった。
「観測所の三人を戻してくれたこと、礼を言う」
オルドは、まずそう言った。
ディナは頷いた。
「ロムは」
「しばらく休めば歩けるようになるだろうと言われた。ニルとカイも大丈夫だ」
「そうか」
オルドは封筒を差し出した。
「だが、春はまだ受け取れん」
セトは、荷口のそばで手を止めた。
昨日の三人を助ければ、終わる話ではなかった。
イオは何も言わず、港長を見ていた。
ディナが封筒を開ける。
中には、正式な引き取り延期の書付があった。
「期限は」
「まだ、決められない」
ディナは紙を折り直した。
「こちらもいつまでもは待てない。残る三つの港がある」
「分かっている」
「分かっているだけでは、船は止められない」
オルドは目を伏せた。
昨日より、少し年を取ったように見えた。
*
セトは岸へ渡り、ラナに会った。
ラナは港の外れで紐を巻いていた。
昨夜使った鐘の紐だった。
「お兄さんは」
「寝てます。たぶん、昼まで起きません」
「そうか」
ラナは頷いた。
セトは少し迷ってから聞いた。
「春が来て困るのは、観測所の人たちだけじゃないんだね」
「向こうを、見たんですか?」
ラナは湾の奥を指した。
遠く、白い陸の縁に、小さな煙が何本も上がっていた。
「あっちにも家があります。冬は氷道を渡って粉も薬も、こっちから運ぶんです」
「渡し船がなくなったから」
「はい。春になると風渡りが来ます。小舟じゃ毎日は通えないんです」
「歩いては回れないの?」
「山を越えると遠いし。荷車も通れないので」
ラナは紐を引き寄せた。
「町の人は春が嫌いなんじゃないんです」
セトは黙って聞いた。
「早く畑を掘りたい人もいます。もう、雪は見たくないって言う人も。でも、あっちに家族がいる人もいて」
遠くで、煙が一本、風に倒れた。
「だから、どっちを向いて春を迎えればいいか、分からないんだと思います」
*
船倉ではイオが春壺の水を確かめていた。
セトが下りていくと、使い終えた灯を見せた。
瓶の中の金色はほとんど消えていた。
「昨日の分ですか」
「そうだよ」
「減ったら戻らないんですか?」
「戻らないね」
セトは瓶を見た。
あの小さな光がなければロムの手は動かなかった。
帰りの艇でも寒さを少しだけ和らげてくれた。
「もったいなかったですかね」
口にしてから嫌な聞き方だと思った。
イオは瓶へ栓をした。
「使うために持っているんだよ」
それから、春壺へ目を向けた。
「ただ、何に使ったかは覚えておこう」
セトは頷いた。
四つの壺はまだ船に乗っている。
最初の一つも減らさずそのまま渡せるわけではない。
届くまでの時間も仕事の一部だった。
*
出港の支度を命じられたのは昼前だった。
ベルカ湾をいったん離れる。
次の港へ向かいながら、戻れる日と残せる春を考える。
ディナは船員を集め、そう伝えた。
「延期は決定だ。拒否ではない」
バルが腕を組んだ。
「戻ったときに、受け取れるようになってるかね」
「それはわからん」
「渡し船はどこかから拾ってくるつもりか」
「拾っただけで春を受け取ってくれるならそうする」
ディナは真顔だった。
何人かが笑った。
笑ったあと、誰も簡単な話だとは思っていなかった。
セトは、壁に掛かったベルカの地図を見た。
壊れた渡し船。
氷の道。
向こう岸の煙。
次に戻るとき、同じものを見ているだけでは済まないのだろう。
*
船長室へ呼ばれた。
セトは木札を持って入った。
仮雇いの、あの札だった。
ディナは机の上に船員名簿を広げていた。
「ベルカで降りるか」
セトは首を振った。
「いいえ、乗せてください」
「春は見られなかったな」
「少し、見られました」
ディナの眉が動いた。
「岸壁の花と灯の中の。それから、受け取れない人たちを」
言葉にすると、どれも小さかった。
最初に想像していた、町いっぱいの花は見ていない。
けれど、その景色を見ないまま帰りたくはなかった。
「縄はまだ下手です」
「知っている」
「船にも酔います」
「ああ」
「でも、仕事は覚えます。最後まで」
ディナは、しばらくセトを見た。
それから、名簿の一行を指した。
「自分で書け」
*
出港するとき、迎えの鐘は鳴らなかった。
代わりに、防波堤の先で小さな鐘が二度鳴った。
ラナが立っていた。
隣には毛布を肩へ掛けたニルもいる。
セトは手を上げた。
向こうも手を上げた。
バルに呼ばれ縄へ戻る。
今度は結び目の向きを間違えなかった。
岸が離れていく。
ベルカの春はまだ船倉にある。
セトは懐へ手を入れた。
木札の裏には仮雇いの字を削った跡が残っている。
その下に、新しく自分の名が彫られていた。
甲板の向こうでディナが次の針路を告げた。
セトは返事をし帆を上げる縄を引いた。




