冬の向こう岸
岸へ渡ったのは、ディナとイオ、そしてセトだった。
セトは荷物持ちとして連れていかれた。
イオの道具箱は見た目よりずっと重かった。
港の石段は凍っていた。
一段ずつ足を置いていると、上から声がした。
「そこ、右へ寄ってください。左は欠けてますから」
短い外套を着た少女が、手すりの脇に立っていた。
年は十五、六ほどに見える。
片手に、赤い布を巻いた棒を持っている。
「ありがとう」
セトが言うと、少女は頷いただけだった。
目は、沖へ向いていた。
*
港長の名はオルドといった。
詰め所へ入ると、濡れた上着を脱ぐ間もなく、地図を広げた。
ディナはその向かいへ立った。
「正式な引き取り拒否なら、理由を聞きたい」
「春が来たら、氷道が落ちちまう」
オルドは湾の奥を指した。
港のある岸から、対岸へ一本の線が伸びていた。
地図では、橋のように見える。
「冬の間だけ渡れる道だ。氷が厚くなれば荷橇も通せる」
「まだ使っているのか」
「使わなければ、向こうが困るんでな」
セトは地図を覗いた。
対岸には、小さな集落の印があった。
町より、ずっと奥にある。
「船はどうした?」
ディナが尋ねた。
「渡し船は、去年の風渡りで失っちまった」
オルドが答えた。
春が根づくと、この湾には強い風が続く。
小舟では対岸へ安定して通えない。かつては、幅のある屋根船が人も荷も運んでいたという。
しかし、その船は戻らなかった。
セトは、壁に掛けられた古い絵を見た。
ずんぐりした船が、荷車を載せている。
解体場で見たことのある形だった。
「次の船は」
「まだだ」
オルドの返事は短かった。
ディナは地図から手を離した。
「だから、冬を残すと?」
「向こうには、畑も、家も、人もいる」
「こちらにも畑があるが。春を遅らせれば、そのぶん種を播ける日が減るだろう?」
「分かっている」
オルドの指が、机の縁を押さえた。
セトはどちらを見ればよいか分からなくなった。
春を渡せばいい。
船に乗る前は、それだけの仕事だと思っていた。
*
詰め所を出ると、さっきの少女が待っていた。
「春、置いていくんですか?」
ディナは足を止めた。
「まだ、決まっていない」
「開けないで…ください」
少女は言った。
イオがこちらを見る。
「港長の娘さん?」
少女は頷いた。
「ラナです」
ディナは、視線を少女の高さへ下げた。
「誰か、向こうにいるのか」
ラナは答えなかった。
沖を見た。
対岸ではない。
岬の先に、小さな白い建物が見えていた。
「あそこで、煙が上がるはずなの」
セトは目を細めた。
岩の上に建つ観測所だった。
「昨日の朝まで出てた。でも、今日は出てない」
「誰がいる」
「兄と、他に二人。風と氷を見る人たち」
ディナの顔が変わった。
*
観測所への氷道は、昨夜割れていた。
港から救助に出した小舟は、浮いた氷に押され舷側を傷めて戻ってきた。
オルドは人を集めて次の方法を考えていた。
「その話を先にしてくれ」
ディナが言うと、オルドは目を伏せた。
「春を下ろされちまったら、残った氷も保たなくなるだろう」
「だからといって、船を追い返している場合か」
詰め所の空気が張り詰めた。
セトは道具箱の持ち手を握っていた。
ディナはすぐに地図へと戻った。
「潮が緩むのは」
「日没前だ。一度だけ。長くは続かん」
「岩の南へ回れば、舟を寄せられるか」
「そこは浅い。大きな船では無理だ」
「作業艇を使う」
オルドが顔を上げた。
ディナはイオを見た。
「灯を持て。バルに艇を出させる」
セトは思わず口を開いた。
「俺も行きます!」
全員がこちらを見た。
ディナの目が、冷たくなる。
「理由は?」
「荷物を、運べます。綱も」
「それだけならほかにも船員はいる」
セトは唇を噛んだ。
地図の端に、観測所の桟橋が描かれている。
古い木の足場だった。
「壊れた足場の上で働いたことがあります。腐った板も、これまでたくさん見てきました。
どこへ体重を掛けたらまずいかは少し分かります」
ディナは返事をせず、セトの足元を見た。
それから、バルを呼びに走った船員へ顔を向けた。
「本人に判断させる。無理なら、置いていく」
*
桟橋で、バルはセトの上着を掴んだ。
「俺の指示が聞けるか」
「はい」
「人より先に荷物を拾うな。落とした物は追うな。戻れと言ったら戻れ」
「はい」
「春を見に行くんじゃないぞ」
セトは頷いた。
今なら、その違いが少し分かった。
作業艇には、イオが先に乗っていた。
手の中に、小さな灯がある。
炎は赤くなかった。
若い葉を透かしたような、淡い緑だった。
ラナが、岸から声を掛けた。
「鐘、聞こえますから!」
セトが振り向く。
「戻ってくるときこっちで鳴らします。霧が出ても聞こえますから!」
バルが頷いた。
艇が、岸を離れた。
セトは櫂を握った。
手袋の内側は、もう汗で濡れていた。




