春の行き先
初日の夜、セトは夕食を半分残した。
海はそれほど荒れていない。
それが余計につらかった。
これで静かな方だと言われたら、これから先、どうなるのか分からない。
「吐くなら、風下だよ」
炊事場のマーテが言った。
「食器へ戻さないでちょうだいね」
セトは頷き、返事をせずに外へ出た。
甲板には、冷たい風が吹いていた。
船体が持ち上がる。
胃の中だけ、取り残される。
セトは船縁を掴んだ。
「海を見ちゃダメだよ」
後ろからイオの声がした。
「遠くを見るんだ。近くの水を追うとね、余計に回るよ」
言われた通り、暗い水平線へ目を向ける。
そこにも波はあったが、足元ほど忙しくはなかった。
「春は…平気なんですか?」
「何が?」
「揺れてますし」
「私とは比べ物にならないぐらい船に慣れているよ」
イオは真顔で言った。
セトは笑いかけ、すぐに口を押さえた。
*
二日目の朝、セトは船倉の水を運んだ。
桶は重かった。
それ以上に揺れる船でこぼさないことが難しかった。
イオは、木枠の周囲を巡る水を指で確かめていた。
「これ、毎日替えるんですか?」
「全部ではないよ。汚れた分と、温まりすぎた分だね」
「春は、暖かくなった方がいいんじゃ…」
「船の中で春になられても困るよ」
セトは桶を置いた。
壺の表面に、水滴がついている。
それが時々、下から上へ動いたように見えた。
「中には何が入っているんですか?」
イオは少し考えた。
「見た方が早いね」
棚から、小さな硝子瓶を出した。
中には、淡い金色の塊が一つ入っている。
木の実に似ていた。
けれど、じっと見つめると、奥に細い根のようなものが広がっていた。
「春のカケラさ。壺の封を直すときなどに使うんだ。大きな春から端だけを取ったものだよ」
イオは瓶を窓の光へかざした。
セトは、雪の下にある土を思い出した。
見たことはないのに、そうとしか思えなかった。
「火みたいですね」
「火とは違う。これは、春になれるものを目覚めさせる」
「何でも?」
「何でもってわけではないよ」
イオは瓶を戻した。
「その違いを覚えるのが、私の仕事」
*
昼には、海の色が変わった。
青ではなく、薄い鉛色だった。
風の冷たさも増している。
セトは上着の前を合わせた。
船倉に春を積んでいても、甲板は寒い。
バルにそう言うと、当然だと返された。
「運んでいる途中で、勝手に使うんじゃねぇ」
「壺を、少し開けるとか」
「そんなの、腹が減ったからって、届け先の穀物をつまむのと同じじゃねぇか」
セトは黙った。
バルは綱を引き、帆の下端を直した。
「それに、春は積んでいる間も少しずつ減る。長く置けば、芽吹く力から弱くなる。だから、届ける順番と日数が決まってんだ」
「遅れたら…?」
「船長が悩んじまうな」
バルは、向こうの甲板を見た。
ディナが地図を広げ、操舵士と話していた。
「お前はまず、縄の結び方だ。そこ、また裏返ってるぞ」
*
ベルカ湾が見えたのは、出発から三日目の午後だった。
岬の間に、細い入り口があった。
陸は白い。
雪と氷に覆われ、低い家々の屋根だけが黒い点になって見えていた。
湾の奥には、さらに細い水路があるようだ。白い陸の間へ、凍った線が伸びている。
セトは帆の陰から身を乗り出した。
港に入れば、鐘が鳴る。
春を迎える鐘だと、朝、マーテが教えてくれた。
町の火床へ春を渡し、そこから季節が根を下ろす。
早ければ翌朝、軒先の氷が落ち始めるという。
セトは、鐘の音を待った。
鳴らなかった。
防波堤の先に、人影がある。
長い棒の先で、黒い布が動いていた。
「黒旗だ」
バルが呟いた。
甲板の空気が変わった。
ディナが船縁へ出た。
「帆を下ろせ。まだ入るな!」
命令が飛ぶ。
セトは縄へ取りついた。
覚えた結び目を解く。
手が滑ったが、今度はほどけた。
船の進みが鈍る。
防波堤から、小さな舟が出てきた。
二人乗っていた。前に立つ男が、両手を口へ当てる。
「《ひばり》か!」
「そうだ!」
ディナが答えた。
「ベルカへ、春を届けに来た!」
男はしばらく返事をしなかった。
舟が波に持ち上げられ下がる。
「今年の春は受け取れん!」
セトは綱を握ったまま、顔を上げた。
聞き間違いではなかった。
男はもう一度叫んだ。
「壺を開けるな! 湾へ春を入れるな!」
*
ディナはその場で言い返さなかった。
「港長か?」
「ああ、そうだ!」
「風が変わる。外では錨が利きにくい。積み荷は解かないが、船を風除けへ入れさせてくれ」
男は後ろを振り返った。
防波堤の向こうで、また黒い布が揺れた。
「東の泊まりまでだ。内湾へは入るな」
「分かった」
ディナは短く答え、舵の指示を出した。
セトは、近づいてくる白い町を見た。
春が来たのに、誰も手を振らない。
氷の端に立つ人々は、船ではなく船の下を見つめていた。
水へ、何かが漏れ出していないか確かめるように。
船倉で、壺が低く鳴った。
その音が、セトには少し不安に聞こえた。




