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春を届ける船  作者: みやしー


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2/5

春の行き先


 初日の夜、セトは夕食を半分残した。


 海はそれほど荒れていない。


 それが余計につらかった。


 これで静かな方だと言われたら、これから先、どうなるのか分からない。


「吐くなら、風下だよ」


 炊事場のマーテが言った。


「食器へ戻さないでちょうだいね」


 セトは頷き、返事をせずに外へ出た。


 甲板には、冷たい風が吹いていた。


 船体が持ち上がる。


 胃の中だけ、取り残される。


 セトは船縁を掴んだ。


「海を見ちゃダメだよ」


 後ろからイオの声がした。


「遠くを見るんだ。近くの水を追うとね、余計に回るよ」


 言われた通り、暗い水平線へ目を向ける。


 そこにも波はあったが、足元ほど忙しくはなかった。


「春は…平気なんですか?」


「何が?」


「揺れてますし」


「私とは比べ物にならないぐらい船に慣れているよ」


 イオは真顔で言った。


 セトは笑いかけ、すぐに口を押さえた。


     *


 二日目の朝、セトは船倉の水を運んだ。


 桶は重かった。


 それ以上に揺れる船でこぼさないことが難しかった。


 イオは、木枠の周囲を巡る水を指で確かめていた。


「これ、毎日替えるんですか?」


「全部ではないよ。汚れた分と、温まりすぎた分だね」


「春は、暖かくなった方がいいんじゃ…」


「船の中で春になられても困るよ」


 セトは桶を置いた。


 壺の表面に、水滴がついている。


 それが時々、下から上へ動いたように見えた。


「中には何が入っているんですか?」


 イオは少し考えた。


「見た方が早いね」


 棚から、小さな硝子瓶を出した。


 中には、淡い金色の塊が一つ入っている。


 木の実に似ていた。


 けれど、じっと見つめると、奥に細い根のようなものが広がっていた。


「春のカケラさ。壺の封を直すときなどに使うんだ。大きな春から端だけを取ったものだよ」


 イオは瓶を窓の光へかざした。


 セトは、雪の下にある土を思い出した。


 見たことはないのに、そうとしか思えなかった。


「火みたいですね」


「火とは違う。これは、春になれるものを目覚めさせる」


「何でも?」


「何でもってわけではないよ」


 イオは瓶を戻した。


「その違いを覚えるのが、私の仕事」


     *


 昼には、海の色が変わった。


 青ではなく、薄い鉛色だった。


 風の冷たさも増している。


 セトは上着の前を合わせた。


 船倉に春を積んでいても、甲板は寒い。


 バルにそう言うと、当然だと返された。


「運んでいる途中で、勝手に使うんじゃねぇ」


「壺を、少し開けるとか」


「そんなの、腹が減ったからって、届け先の穀物をつまむのと同じじゃねぇか」


 セトは黙った。


 バルは綱を引き、帆の下端を直した。


「それに、春は積んでいる間も少しずつ減る。長く置けば、芽吹く力から弱くなる。だから、届ける順番と日数が決まってんだ」


「遅れたら…?」


「船長が悩んじまうな」


 バルは、向こうの甲板を見た。


 ディナが地図を広げ、操舵士と話していた。


「お前はまず、縄の結び方だ。そこ、また裏返ってるぞ」


     *


 ベルカ湾が見えたのは、出発から三日目の午後だった。


 岬の間に、細い入り口があった。


 陸は白い。


 雪と氷に覆われ、低い家々の屋根だけが黒い点になって見えていた。


 湾の奥には、さらに細い水路があるようだ。白い陸の間へ、凍った線が伸びている。


 セトは帆の陰から身を乗り出した。


 港に入れば、鐘が鳴る。


 春を迎える鐘だと、朝、マーテが教えてくれた。


 町の火床へ春を渡し、そこから季節が根を下ろす。


 早ければ翌朝、軒先の氷が落ち始めるという。


 セトは、鐘の音を待った。


 鳴らなかった。


 防波堤の先に、人影がある。


 長い棒の先で、黒い布が動いていた。


「黒旗だ」


 バルが呟いた。


 甲板の空気が変わった。


 ディナが船縁へ出た。


「帆を下ろせ。まだ入るな!」


 命令が飛ぶ。


 セトは縄へ取りついた。


 覚えた結び目を解く。


 手が滑ったが、今度はほどけた。


 船の進みが鈍る。


 防波堤から、小さな舟が出てきた。


 二人乗っていた。前に立つ男が、両手を口へ当てる。


「《ひばり》か!」


「そうだ!」


 ディナが答えた。


「ベルカへ、春を届けに来た!」


 男はしばらく返事をしなかった。


 舟が波に持ち上げられ下がる。


「今年の春は受け取れん!」


 セトは綱を握ったまま、顔を上げた。


 聞き間違いではなかった。


 男はもう一度叫んだ。


「壺を開けるな! 湾へ春を入れるな!」


     *


 ディナはその場で言い返さなかった。


「港長か?」


「ああ、そうだ!」


「風が変わる。外では錨が利きにくい。積み荷は解かないが、船を風除けへ入れさせてくれ」


 男は後ろを振り返った。


 防波堤の向こうで、また黒い布が揺れた。


「東の泊まりまでだ。内湾へは入るな」


「分かった」


 ディナは短く答え、舵の指示を出した。


 セトは、近づいてくる白い町を見た。


 春が来たのに、誰も手を振らない。


 氷の端に立つ人々は、船ではなく船の下を見つめていた。


 水へ、何かが漏れ出していないか確かめるように。


 船倉で、壺が低く鳴った。


 その音が、セトには少し不安に聞こえた。


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