春を落とすな
「春を落とすな!」
怒号が飛んだとき、セトはまだ、それが荷物の名前だと思っていた。
大きな陶の壺が岸壁と船の間に吊られている。
壺を包んでいるのは、太い縄で編んだ網だった。
その網の底で、縄が一本、切れかけていた。
ほつれた繊維が、壺の重みに引かれて伸びる。
ぷつ、と音がした。
壺が傾いた。
切れた縄の両側へ重みが掛かり、隣の網目まで歪んでいく。裂け目から、壺の丸い底が覗いた。
「止めろ! それ以上、動かすな!」
船上から、さらに声が飛んだ。
綱を引いていた船員たちが、足を踏ん張る。
壺は、傾いたまま止まった。
その下には、岸壁と船に挟まれた黒い海が見えていた。
セトは荷造り用の短い縄を掴み、岸壁の縁へ駆け寄った。
「少し下げてください! 網に手が届くところまで!」
「何をする!」
「裂けたところを、縛ります!」
壺が、ゆっくり下りてくる。
セトは岸壁に腹這いになった。
「脚を押さえてください!」
近くにいた男が、両足首を掴んだ。
セトは縁から身を乗り出す。
腰から抜いた鉤を、裂け目の脇へ伸ばした。
船の解体場で、鉄屑を引き寄せるために使っていた柄の短い道具だった。
鉤の先を、まだ傷んでいない縄へ掛ける。
引き寄せようとすると、壺もわずかに揺れた。
「止めて! その高さで!」
壺が止まる。
セトはゆっくりと網を引き寄せた。裂け目が、ようやく手の届くところまで来た。
「この鉤、持ってください。引くのは、そこまでで!」
隣から伸びた手が、柄を受け取った。
セトは両手を空け、持ってきた縄を裂け目の片側へ通した。
切れかけた細い部分を避け、太く編まれた縄を拾う。
反対側へ渡す。
もう一度、通す。
縫い物のように縄を渡していくと、裂け目の向こうに見えていた壺の底が少しずつ隠れていく。
指が、寒さで動かなかった。
「まだか!」
「あと、もう少しです!」
最後の端を結ぶ。
引き絞ると、掌に縄が食い込んだ。
セトは結び目を確かめ、鉤を持つ男へ頷いた。
「ゆっくり、緩めてください」
鉤が離れる。
壺の重みで、継ぎ足した縄がぴんと張った。
裂け目は、それ以上広がらなかった。
セトは息を吐いた。
「……上げてください。…ゆっくり」
船員たちが、綱を引いた。
壺が持ち上がる。
網は、持ちこたえていた。
船の上で、何人かが動いた。
壺は船縁を越え、甲板の台へ静かに下ろされた。
セトは岸壁に寝転がったまま、息を吐いた。
顔の横に、何か黄色いものがあった。
小さな花だった。
岸壁の石の隙間で、昨日まで枯れていた草が、一輪だけ咲いている。
「触るな」
長い外套の裾が、視界へ入った。
痩せた男はしゃがみこみ、花の根元へ薄い金属の筒を近づける。
筒の中へ、淡い金色の光が吸い込まれる。
花は少しずつ閉じ、茎が垂れた。
セトは起き上がった。
「今のは?」
「漏れたんだよ」
男は筒の蓋を閉めた。
「ほんの少しで済んだ。壺が割れていたら、岸壁の半分で雪解けが始まっていた」
セトは、船上の壺を見た。
鈍い白色の、大きな陶の壺。
蓋の周囲には黒い封があり、その上を細い銀線が何重にも巡っている。
「本物の、春?」
男がこちらを見た。
「何だと思って運んでいたんだ」
*
船の名は、《ひばり》といった。
春の鳥の名前にしては、船体は黒く、船縁には何度も当て木をした跡があった。
港の大きな商船よりは小さい。
けれど沿岸を行く漁船よりずっと深い船倉があり、甲板の中央には頑丈な荷口が設けられている。
セトは、その脇へ立たされていた。
「名前は?」
女が言った。
髪を後ろで短く束ね、濃紺の上着を着ている。
腰には短い刃物。足元の長靴は、よく手入れされていた。
「セト」
「歳は?」
「十九」
「船は?」
「乗ったことはほとんどありません」
「ほとんど、とは?」
「岸に引き上げた船なら、何度か」
女の目がセトの腰にある鉤の方へ向蹴られた。
「解体場か」
セトは頷いた。
横にいた髭の男が、鼻を鳴らした。
「壊し方は知ってるらしいなぁ。枠の戻し方も悪くはなかった」
「結び方はどうだ?」
「急場なら問題ねぇ。仕事としてはまだだ」
セトは口を結んだ。
女は、先ほどの痩せた男へ顔を向けた。
「春は?」
「封を直した。中身に問題はねぇ」
「漏れたのは?」
「壺の縁に残っていた分だ。花の分でほぼ使い切っている」
女は頷いた。
「私は船長のディナ。こっちは甲板長のバル。春を見ているのが季節師のイオだ」
順に指さしてから、セトを見た。
「一日、働きたいと言ったな」
「はい」
「なぜだ」
朝、岸壁で仕事を願い出たときも同じことを聞かれた。
そのとき、セトは金が欲しいと答えた。
それは本当だった。
解体場の仕事は嫌いではなかったが、船が来なければ待つ日が続く。
古い船の腹へ入って釘を抜き、板を剥がし、使えるものと使えないものを分ける。
それを三年間続けていた。
船の行き先は、船員たちの会話から聞こえてきた。
見たことも聞いたこともない港の名ばかりだった。
「船がまだ、動くうちに乗ってみたいんです」
セトは言った。
バルが少し笑った。
ディナは笑わなかった。
「春を見たいのか」
「はい」
「花が咲くところだけを見られるとは限らないぞ」
セトには、その意味がよく分からなかった。
けれど、分かったふりをする方が悪そうだった。
「最低限の、仕事はします」
「それは、乗るなら当然だ」
ディナは甲板を指した。
「まず、さっきの縄を片づけろ。次にバルから、結び方を教われ。
昼までに、同じ結び目を三つ作ってみせろ」
「はい!」
「ほどくのも肝心だ。締めるだけの結び方は、船では困る」
*
壺は四つあった。
船倉へ下りると、空気が変わった。
寒くはなかった。
暖かいとも違う。
雨のあとの土の匂いがした。石畳の港では、めったに嗅がない匂いだった。
壺は、一つずつ木枠に収められている。
その周囲を、水の流れる細い溝が巡っていた。
「揺れを和らげるんだ。温度もしっかり管理する」
イオが説明した。
「勝手に蓋へ触るなよ。水路もだ。甘い匂いが強くなったら、すぐに私を呼べ」
「甘い匂い?」
「花の匂いだよ。土の匂いなら、今のところ大丈夫だ」
セトは四つの壺を見た。
それぞれ、違う色の札が結んである。
「これ一つで、春になるんですか」
「根を下ろせる場所へ渡せばね」
「もし…海へ落としたら?」
「海は季節を留めておけないからね。散るよ。どこの春にもならずにね」
イオは一番手前の壺へ手を置いた。
「これはベルカ湾の。最初の寄港地だよ」
セトは札を読んだ。
知らない港の名前だった。
今度は壊す船に残っていた字ではない。
*
夕方、ディナはセトへ小さな木札を渡した。
表に船の名。裏には仮雇いとある。
「とりあえずベルカまで乗せる。私が向いていないと判断したら、そこで降りてもらう。
その時の帰りの足はこちらで手配する」
セトは木札を受け取った。
掌の中で、角が少し尖っていた。
「荷物は?」
「これだけです」
着替えを包んだ布と、鉤と、短い刃物。
ディナは一度だけ頷いた。
「さぁ、出港だ!!」
岸壁の縄が外された。
セトは、船上で初めての仕事をした。
最後の縄を甲板へ引き上げたとき、船と陸の間に水の幅ができた。
いつもなら、その向こうで船を見送っていた。
しかし、今日は陸が離れていく。
船倉から、低い音が伝わってきた。
壺の中で、何かが息をしたようだった。
セトが足を止めると、バルが背中を叩いた。
「聞き惚れるな、若造。次は帆だ」
セトは木札を上着へしまい、初めて動いている船の上を走った。




