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第8話 茶屋の女将


ーー数日後、留吉が長屋を訪ねてきた。


「千代さん、今日、手が空いてるか?例の茶屋に行こうと思うんだが」


千代はちょうど仕立て仕事場での用事を終えたところだった。

おかみさんに断りを入れ、留吉とともに長屋の木戸を出る。


「近いんですか?その茶屋」


「歩いて四半刻(現代の30分)ってとこだ。清次さんの馴染みの店でな。今でも、当時の顔ぶれがちらほら残ってる」


道すがら、留吉はぽつぽつと清次のことを語ってくれた。

絵の腕は荒削りだったが、色の選び方に独特の勘があったこと。

無口な男だったが、酒が入ると、珍しく絵の話が止まらなくなったこと。


千代は一つ一つの話を、大切に胸へしまい込んでいった。

会ったこともない人物の輪郭が、少しずつ立体になっていく感覚があった。


茶屋は、通りから少し奥まった場所にあった。

暖簾をくぐると、香ばしい焙じ茶の匂いが漂ってくる。

奥の座敷では、数人の客が茶を啜りながら世間話に興じていた。


「女将、いるかい?」


留吉が声をかけると、奥から恰幅のいい年配の女性が姿を見せた。


「おや、留吉さんじゃないか。珍しいね、こっちに顔を出すなんて...」


「ちょいと、聞きたいことがあってよ」


女将は留吉と千代を交互に見て、それから座敷の隅へと案内してくれた。

茶を運んできながら、女将は問うような目を留吉に向ける。


「聞きたいことって、何だい?」


「清次さんのことだ」


その名前を聞いた途端、女将の表情がわずかに強張った。


「懐かしい名だね...。もう何年になるかねえ...」


「五年だそうです」


千代が静かに答えると、女将は千代の顔をまじまじと見つめた。


「あんた、清次さんの知り合いかい?」


「いえ……直接は、知らないんです。ただ、これを...」


千代は懐から簪を取り出し、そっと女将の前に差し出した。女将はそれを一目見るなり、大きく息を呑んだ。


「これは……」


女将の手が、わずかに震えていた。

簪を受け取り、光にかざしながら、何度も裏返して確かめている。


「間違いないよ。清次さんが彫り師に頼んでたやつだ。あたしも一度、見せてもらったことがある」


「やっぱり..,」


留吉が呟いた。千代は身を乗り出す。


「女将さん、清次さんが誰のためにこれを作らせたか、ご存知ですか?」


女将はしばらく黙り込んだ。

茶碗を両手で包み込み、視線を宙に泳がせる。

長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「うちで働いてた娘だよ。お葉っていってね。器量よしで、気立てもよくて、この店の看板娘みたいなもんだった...」


「お葉さん……」


「清次さんは、よくこの店に通っちゃあ、お葉と話し込んでたよ。絵の道具の話やら、季節の花の話やら。傍から見てても、お互い憎からず思ってるのは、丸分かりだった...」


女将は懐かしそうに目を細めた。それから、表情が少しずつ曇っていく。


「けどね、お葉には、決まった縁談があったんだよ。相手は、遠く離れた土地の商家の息子でね。親同士が決めた話で、お葉本人にも、どうにもならなかった...」


千代の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


「...清次さんは、それを知ってたんですか?」


「知ってたはずだよ。だからこそ、簪を渡せなかったんじゃないかね...。渡しちまえば、お葉の心を惑わせる。嫁ぐと決まった娘に、想いを押しつけるような真似は、清次さんの性分じゃなかった」


女将はそこで一度言葉を切り、茶を一口啜った。


「清次さんが姿を消したのは、お葉が嫁に発つ、ちょうど数日前だったよ...。何も告げずに、荷物だけまとめて、どこかへ行っちまった...」


「お葉さんは……」


「もちろん、嫁いでいったよ。何も知らずにね。あたしは、清次さんが本当は簪を渡そうとしてたことを、後になって知った。でも、もう遅かった...」


座敷に、重い沈黙が落ちた。

千代は簪を見つめながら、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。

渡せなかった想い。届かなかった贈り物。

そして、身を引くことを選んだ男の、静かな覚悟。


「清次さんは、今、どこにいるんでしょうか?」


千代が尋ねると、女将は小さく首を振った。


「分からないねえ...。風の噂じゃ、上方の方で絵の修業を続けてるとか、いや、もう筆を折ったとか、いろいろ聞くけど、どれも確かじゃない」


「お葉さんは……今、どちらに?」


「さあ。嫁いだ先の名までは覚えてないよ。もう五年も前の話だからねえ...」


千代は簪を胸元に抱くようにして、しばらく黙っていた。

留吉も何も言わず、ただ隣で静かに座っていた。


「あの……この簪、私が持っていても、いいんでしょうか?」


千代がぽつりと尋ねると、女将はふっと表情を緩めた。


「持ってればいいさ。何かの縁があって、あんたの手に渡ったんだろう。清次さんの想いを、無下にしないでやっておくれ」


その言葉に、千代は頷いた。


「はい。大切にします」


茶屋を出ると、日はすっかり傾いていた。

二人はしばらく無言のまま、来た道を歩いた。


「渡せなかった気持ちって、どうなんでしょう...」


千代がぽつりと呟くと、留吉は少し考えてから答えた。


「消えるわけじゃねえと思うぜ。ただ、行き場を失くしちまうだけで」


「行き場……」


「その簪が、こうしてお前さんの手に渡ったのも、案外、行き場を探してのことなのかもしれねえな」


留吉の言葉に、千代は懐の簪を、そっと握りしめた。

まだ何も解決していない。

清次の行方も、お葉の消息も、分からないままだ。

それでも、二人の想いの輪郭が、少しずつはっきりと見えてきた気がした。


(この簪に込められた想い、いつか誰かに届けられたらいいな)


夕暮れの道を歩きながら、千代は静かにそう願った。


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