第9話 本を作る人たち
茶屋を訪ねてから数日、千代は少しずつ、長屋での暮らしに馴染んできていた。
朝は仕立て仕事場に顔を出し、日中は縫い物や繕い物を手伝う。
おかみさんたちとも、すっかり打ち解けていた。
それでも、懐に忍ばせた簪のことは、片時も頭から離れなかった。
清次とお葉、二人の想いの行方は、まだ何も分かっていない。
「千代、悪いんだけど、ちょいと使いを頼まれてくれないかい?」
その日の昼下がり、仕立て仕事場のおかみさんが、千代に一枚の紙包みを差し出した。
「これを、通りの先にある本屋まで届けてほしいんだよ。頼まれてた仕立ての図案でね」
「本屋、ですか」
「ああ、戯作やら絵本やらを商ってる店さ。お前さん、方角は分かるかい?」
「大丈夫です、行ってきます」
千代は紙包みを受け取ると、仕立て仕事場を出た。
本屋という言葉に、胸の奥が小さく騒いだ。
江戸の出版文化は、千代がもっとも心を惹かれる分野の一つだった。
通りを歩いていくと、やがて軒先に色とりどりの絵本や、綴じられた冊子を並べた店が見えてきた。
看板には「蔦屋」に似た、けれど別の屋号が書かれている。
店先には、立ち読みをする客が数人、熱心に紙面をめくっていた。
「ごめんください」
暖簾をくぐると、店の奥から若い男が顔を出した。
年の頃は留吉と同じくらいだろうか。
「仕立て仕事場から、図案のお届けに参りました」
「ああ、待ってたよ。ありがとうな」
男は愛想よく紙包みを受け取ると、千代の姿をちらりと見た。
「見ない顔だな。新入りかい?」
「はい、少し前から、お世話になっていて...」
「そうかい。よかったら、ちょっと休んでいきなよ。ちょうど今、面白いもんを作ってるところなんだ」
千代が断る間もなく、男は店の奥へと招き入れてくれた。
作業場には、何人かの職人が忙しく手を動かしている。
刷り上がったばかりの紙が、何枚も紐で吊るされて乾かされていた。
「これは……」
千代は思わず目を見張った。
何十枚もの紙が、天井近くまで吊るされている光景は、資料の写真では感じられなかった圧倒的な迫力があった。
「戯作の新しいやつでよ。今、大急ぎで摺ってるとこなんだ」
「戯作って、物語のことですよね。絵と文字が一緒になった」
「よく知ってるな。そう、絵と話が一緒になってるから、字が読めなくても、絵を見りゃあらすじが分かる。子どもから年寄りまで、みんな楽しめる仕組みだ」
男は誇らしげにそう言うと、作業台の上に置かれた一冊を千代に見せてくれた。
表紙には、勇ましい武者絵が描かれている。
中を開くと、文字の合間に、場面を彩る挿絵が配置されていた。
「これ、文字を書く人と、絵を描く人は、別なんですか?」
「戯作者と絵師は、大抵は別だな。時々、両方こなす欲張りもいるが...」
「本を綴じるのも、専門の人が...」
「ああ、表紙をつけて、糸でかがって、一冊にまとめる。それも職人の腕の見せどころさ」
千代は目の前の作業を眺めながら、胸の高鳴りを抑えられなかった。
物語を考える人、絵を描く人、版木を彫る人、刷る人、綴じる人――一冊の本が生まれるまでに、こんなにも多くの手が関わっている。
それは、千代が同人誌を一人でこつこつ作っていたときとは、まるで規模の違う世界だった。
「あの、私も、こういうものを作ったことがあって...」
思わず口を滑らせると、男は目を丸くした。
「お前さんが?本をか」
「はい。文字を書いて、絵を描いて、自分で綴じて……もっと簡単なものですけど」
「へえ、器用な娘だな。どんな話を書いたんだ?」
千代は少し言葉を選んだ。
二次元の推しキャラクターについての同人誌だとは、さすがに説明できない。
「好きなものについて、自分なりにまとめたものです。誰かに読んでもらって、喜んでもらえたときが、一番嬉しくて...」
「その気持ちは分かるぜ。俺たちも同じだ。この本が誰かの手に渡って、面白がってもらえたときが、何よりの張り合いになる」
男はそう言うと、作業場の隅にある紙の山を指差した。
「これは失敗作の山だ。刷りがずれたり、紙が破れたり。うまくいかねえことの方が、実は多いんだぜ」
「私も、失敗ばっかりでした。何度も刷り直したり、綴じ直したり...」
「だろうな。何かを形にするってのは、そういうもんだ」
千代はその言葉に、深く頷いた。
中学時代、初めてコピー本を作ったときのことを思い出す。
何度も印刷をやり直し、ページの順番を間違えて綴じ直し、それでも完成させたときの達成感。
時代が違っても、ものを作る苦労と喜びは、驚くほど似通っていた。
「よかったら、たまに顔を出しなよ。忙しいときは、手が足りねえこともあるからよ」
「本当ですか?」
「ああ。器用な娘は、大歓迎だ」
思いがけない申し出に、千代の胸が弾んだ。
仕立て仕事場での手伝いに加えて、本屋の仕事も少し手伝えるかもしれない。
それは、清次とお葉の謎とはまた別の、新しい糸のように感じられた。
「よろしくお願いします」
千代が頭を下げると、男はにっと笑った。
「俺は権助ってんだ。よろしくな、千代さん」
「えっ、名前……」
「さっき、仕立て仕事場のおかみさんが話してるのを、聞いちまってな」
権助はそう言って、悪びれもせず笑った。
千代も思わず釣られて笑ってしまう。
店を出て、千代は仕立て仕事場への帰り道を歩きながら、懐の簪にそっと手を添えた。
清次とお葉のこと、まだ何も解決していない。
それでも、今日出会った権助や、本屋という新しい場所は、千代にとって、この町でまた一つ、居場所が増えたような気がした。
(本を作るのって、時代が違っても、こんなに楽しいものなんだ...)
夕暮れの空を見上げながら、千代は静かにそう思った。
江戸に来たばかりの頃には想像もしていなかった、新しい「好き」の芽が、確かに胸の中で育ち始めていた。




