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第10話 滲んだ一枚


権助に誘われてから数日後、千代は初めて本屋の作業場へ手伝いに行くことになった。


仕立ての仕事を終えた昼過ぎ、千代は約束通り本屋を訪ねた。

暖簾をくぐると、権助がすぐに気づいて手を上げる。


「おう、来たな。今日は摺り(すり)を手伝ってもらおうと思ってよ」


「摺り、ですか?」


摺りというのは版木や型紙に絵の具や顔料をつけ、紙や布などに押し付けて印刷・転写する技法のことだ。


「といっても、いきなり本刷りは無理だ。まずは端の余った紙で、練習してみな」


権助は作業台の前に千代を座らせ、刷りの道具を並べてくれた。

版木、紙、それに刷毛(はけ)のようなもの。


「これでまず、版木に墨を乗せる。むらが出ねえように、まんべんなくな...」


権助が実演してくれた手つきを、千代はじっと見つめた。

刷毛を滑らせる速さ、力の入れ方、版木の隅々まで墨が行き渡るようにする配り方。

千代は頷きながら、頭の中にその動きを刻み込んでいく。


「やってみるか?」


「...はい!」


千代は刷毛を受け取り、見よう見まねで墨を乗せていった。

思っていたよりも力の加減が難しい。

強すぎればむらになり、弱すぎれば掠れる。

何度か試すうちに、少しずつ感覚がつかめてきた。


「悪くねえな。筋がいい」


「本当ですか?」


「ああ。次は、紙を乗せて、馬簾(ばれん)で摺る番だ」


馬簾は木版画を刷る際に紙の背中をこすってインクを定着させるための道具だ。


権助が見せてくれたのは、丸い円盤のような道具だった。

それを紙の上から、円を描くようにこすりつけていく。


「力を均等に、それでいて速すぎず、遅すぎず...」


千代は言われた通りに、慎重に馬簾を動かした。

緊張で手のひらに汗がにじむ。

ゆっくりと紙をめくると――


「あ……」


刷り上がった紙には、墨がにじんで、輪郭がぼやけてしまっていた。

千代は思わず肩を落とす。


「すみません...失敗しました...」


「気にすんな。最初からうまくいく方が、珍しいくらいだ」


権助はそう言って、にじんだ紙を手に取った。

しげしげと眺めてから、ふと笑う。


「これはこれで、面白い出来だな」


「面白い、ですか?」


「ああ。墨がにじんだところが、まるで滲んだ景色みたいに見える。狙ってやろうと思っても、なかなかできねえ味だぜ」


千代は失敗作を改めて見つめた。

確かに、意図せずぼやけた輪郭が、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。

ただの失敗と切り捨てるには、惜しいような気もした。


「あの、この失敗した紙、他の使い道ってあるんですか?」


「使い道?」


「捨てちゃうにはもったいない気がして...。何かに、使えないかなって」


千代の言葉に、権助は少し考え込んだ。


「そういや、失敗した摺りは、大抵くずかごに放り込まれちまうな。売り物にはならねえから」


千代は失敗した紙を手に取り、しばらく眺めた。

頭の中で、現代のコスプレイベントやコミケで見た、端切れを使った小物作りのことを思い出す。


使えなくなった生地でも、工夫次第で新しいものに生まれ変わる。

同じことが、この紙にもできるかもしれない。


「これで、何か小さいものを作ってみてもいいですか?」


「小さいもの?」


「例えば……包み紙とか、栞とか。にじんだ模様を活かして」


権助は目を丸くして、それから面白そうに笑った。


「へえ、面白いこと考えるな。やってみな」


千代は失敗した紙を何枚か選び、はさみで小さく切り分けていった。

にじみの模様が美しく出ている部分を活かし、四角く整えて、端に小さな穴を開ける。

細い紐を通せば、簡易的な栞になった。


「これは……」


権助が覗き込んで、感心したように唸った。


「墨のにじみが、模様みたいに見えるな。悪くねえ」


作業場の他の職人たちも、興味深そうに手元を覗き込んできた。


「へえ、失敗した紙が、こんなふうになるのか...」


「これなら、店先に安く並べても、売れるかもしれねえな」


権助の一言に、千代は目を見張った。


「売り物になるんですか?」


「試してみる価値はあるさ。ちょうど、子ども向けの小間物(日常雑貨品)が足りねえって話も出てたところだ」


千代は栞をいくつか手に取り、並べてみた。

同じ失敗でも、にじみ方はそれぞれ違う。

一つとして同じ模様がないのが、逆に面白みになっている。


「これ、名前をつけたら、もっと目を引くかもしれませんね」


「名前?」


「例えば……『にじみ栞』とか。失敗を、そのまま良いところとして見せる、みたいな」


権助はしばらく考えてから、にやりと笑った。


「気に入った。今度、店先で試しに並べてみるか」


千代の胸に、じんわりとした嬉しさが広がった。

失敗したはずのものが、誰かの手によって、また新しい形に生まれ変わる。


それは、千代がこれまで大切にしてきた「好きなものを形にする」という営みと、どこか重なるものがあった。


夕方、作業を終えて店を出るとき、権助が見送りながら言った。


「千代、また手伝いに来てくれよ。お前さんの発想、面白えわ」


「はい、ぜひ」


「今度は、失敗じゃなく、ちゃんとした摺りも教えてやる」


権助の言葉に、千代は笑みをこぼした。


帰り道、夕暮れの空を見上げながら、千代は懐の簪にそっと手を添えた。

清次とお葉のこと、まだ何も解決していない。


それでも、この町での毎日が、少しずつ、確かな手応えを持ち始めていることを、千代は静かに感じていた。


長屋への道を歩きながら、千代はふと、栞を一枚だけ、自分の分として持ち帰っていたことに気づいた。

にじんだ墨の模様を、指先でそっとなぞる。


(誰かに、見せたいな...)


そう思う相手の顔が、自然と一人、頭に浮かんだ。



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