第11話 栞を渡した日
滲んだ栞を懐に入れたまま、千代は数日、それを渡す機会を探していた。
留吉は絵草紙屋の仕事で忙しいらしく、なかなか顔を合わせる機会がない。
千代は仕立ての仕事場と本屋を行き来する毎日を過ごしながら、ふとした瞬間に懐の栞へ手をやる癖がついていた。
「千代ちゃん、さっきからそわそわしてない?」
仕立て仕事場で隣に座っていたお春が、針を動かす手を止めずに、からかうような目を向けてきた。
「そんなこと、ないよ」
「懐、何度も触ってるじゃない。何か大事なものでも入れてるの?」
「あの……ちょっとした、渡したいものがあって」
「誰に?」
千代が言葉に詰まると、お春はにやりと笑った。
「もしかして、留吉さんとか?」
「な、なんで分かるの」
「顔に書いてあるよ、千代ちゃん」
からかわれて、千代は思わず耳まで赤くなった。
お春はくすくすと笑いながら、それ以上は追及せず、話題を仕事に戻してくれた。
そういう気遣いのできるところが、千代はお春のことを好きだった。
「でもさ、千代ちゃんが誰かのために何か作ってるとこ、見てると、こっちまで嬉しくなるよ」
「そう、かな...」
「うん。この間の栞も見せてもらったけど、あれ、本当に素敵だった。あたしにも一枚、作ってくれない?」
「もちろん!今度、色違いのを作るね」
「約束だよっ!」
お春はそう言って、針を動かす手を再び速めた。
二人は他愛のない話を続けながら、午前の仕事を進めていった。
長屋の暮らしに慣れてきたとはいえ、こうして誰かと軽口を叩き合いながら手を動かす時間が、千代にとってはかけがえのないものになりつつあった。
昼餉を挟んで午後の作業を終えると、おかみさんが千代に声をかけた。
「千代、今日はもう上がっていいよ。よく働いてくれたね」
「ありがとうございます」
千代は道具を片付けて外に出た。
夕暮れ時の通りは、一日の商いを終えようとする人々で賑わっている。
天秤棒を担いだ物売りが最後の売り声を上げ、子どもたちが慌てて家路を急いでいた。
道端では、夕餉の支度をする匂いが漂い始めていた。
味噌を煮る匂い、魚を焼く煙、遠くで誰かを呼ぶ母親の声。
江戸に来たばかりの頃は、この時間帯の町の匂いに、いちいち心を揺さぶられていた。
今ではもう、当たり前の風景として、千代の日常に馴染んでいる。
それでも時折、ふとした瞬間に「ここは本当に江戸なんだ」という実感が、静かに胸に蘇ることがあった。
木戸をくぐろうとしたところで、聞き覚えのある声がした。
「千代さん」
振り返ると、留吉が風呂敷包みを抱えて立っていた。夕日を背にしたその姿に、千代は一瞬、言葉を忘れた。
「留吉さん。お久しぶりです」
「ああ、このところ、注文が立て込んでてよ。なかなか顔を出せなかった」
「お忙しいんですね」
「まあな。今日はようやく、一息つけそうだ。ちょうど、この辺りまで届け物に来たとこでよ」
留吉はそう言うと、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「千代さんこそ、変わりねえか。本屋の権助のとこにも、顔出してるって聞いたぜ」
「はい。摺りの手伝いをさせてもらってます」
「そうかい。あいつ、口は悪いが、腕は確かだからな。学ぶことも多いだろう」
「はい、とても。失敗したものからも、何か作れないかって考えるのが、楽しくて」
「相変わらず、変わったことを言う」
留吉はそう言って、小さく笑った。
二人は自然と並んで歩き出した。
長屋への道すがら、通りの露店では、一日の売れ残りを安く売る声が響いている。
「あの、留吉さん。見てほしいものがあるんです」
「ん?」
千代は足を止め、懐から、にじんだ模様の栞を取り出した。
「これ、本屋で摺りの練習をしていたときに、失敗しちゃったものなんですけど。権助さんと一緒に、栞にしてみたんです」
留吉はそれを受け取ると、しげしげと眺めた。
夕暮れの光の中で、墨のにじみが、淡い陰影を作り出している。
「これは……お前さんが作ったのか」
「はい。滲んだところ、なんだか気に入ってしまって。捨てるにはもったいないと思ったので...」
留吉はしばらく無言で栞を見つめていた。
指先で、滲んだ部分をそっとなぞる。
それから、ふっと表情を緩めた。
「面白えな。失敗を、そのまま良さに変えちまうなんて」
「権助さんも、そう言ってくれました。今度、店先に並べてみるかもしれないって」
「売り物になるほどか。大したもんだ...」
留吉は栞を千代に返しながら、少し考え込むような顔をした。
「実は、俺も、渡したいものがあったんだ」
「渡したいもの?」
留吉は風呂敷包みの中から、一枚の紙を取り出した。
折りたたまれたそれを、少し躊躇うように、千代に手渡してくる。
「開けてみてくれ」
千代はゆっくりと紙を開いた。
そこに描かれていたのは、簡単な線画だった。
井戸端で洗濯をする女性たち、天秤棒を担いだ物売り、そして――少し離れたところで、その様子を眺めている、着物姿の少女の後ろ姿。
「これって……」
「お前さんが初めてうちの店に来た日、長屋で見た景色を思い出しながら描いたんだ。うまくは描けなかったが」
千代は絵をじっと見つめた。
粗削りな線ではあったが、そこには確かに、あの日の空気が閉じ込められていた。
井戸端の賑わい、夕暮れの光、そして、見知らぬ町に立ち尽くしていた自分自身の姿。
「留吉さん、私のこと、見ていてくれたんですね」
「いや、その……別に、じっと見てたってわけじゃ...」
留吉は慌てたように視線を逸らした。
その耳が、わずかに赤くなっている。
千代はその様子に、思わず笑ってしまった。
「ありがとうございます。大切にします」
「大げさだな、そんな...」
そう言いながらも、留吉はどこか嬉しそうだった。
二人はそのまま、長屋へと続く道を歩いた。
夕暮れの空には、茜色が広がり始めている。
道端の水たまりに、その色が映り込んでいた。
「留吉さんは、絵を描くとき、何を一番大事にしてるんですか?」
千代が尋ねると、留吉は少し考えてから答えた。
「そうだな……そのとき見た景色や気持ちを、そのまま閉じ込めることかな。上手い下手より、そこにあった何かを、ちゃんと残せてるかどうか」
「私が同人誌を作るときと、似てるかもしれません」
「どう、じんし?」
「あ……えっと、自分でまとめた冊子、みたいなものです。好きなものについて、自分なりに形にする」
千代は言葉を選びながら、慎重に説明した。
留吉は興味深そうに耳を傾けている。
「好きなものを、そのとき感じた気持ちごと、形にして残す。誰かに見てもらって、同じ気持ちを分かち合えたら、それが一番嬉しくて...」
「それは、俺の絵の考え方と、確かに似てるな」
留吉は感心したように頷いた。
「千代さんは、変わった娘だが……いや、変わってるからこそ、俺にはねえ考え方を持ってるんだな」
その言葉に、千代は少し照れながら笑った。
「留吉さんこそ、絵を描く手が、本当に丁寧で。見当の仕組みとか、色の重ね方とか、聞くたびに感心してます」
「そう言われると、照れくさいもんだな」
留吉はそう言いながら、少し先を歩く物売りの屋台に目をやった。
焼き芋の甘い匂いが、夕暮れの通りに漂っている。
「腹、減ってねえか?」
「...あ、少し...」
「一つ、どうだ?」
留吉は屋台の主に声をかけ、二本の焼き芋を買った。
一本を千代に手渡してくれる。
「いいんですか、こんな」
「気にすんな。栞と絵の礼だと思ってくれりゃあいい」
千代は焼き芋を受け取り、ほくほくと湯気の立つそれを頬張った。
甘みが口いっぱいに広がる。
「美味しいです」
「だろ。この辺りじゃ、評判の屋台なんだ」
二人は歩きながら、焼き芋を食べ進めた。
他愛のない時間だったが、千代にはその何気ないひとときが、ひどく愛おしく感じられた。
「留吉さんは、いつから絵師を目指してたんですか」
「物心ついたときにはもう、絵ばっかり描いてたな。おふくろに、紙がもったいないって、よく怒られたよ」
「そのくらい好きだったんですね」
「ああ。ただ、好きなだけじゃ、飯は食えねえ。だから、親方んとこに弟子入りした」
「大変でしたか、修業」
「そりゃあな。最初の一年は、墨をする仕事ばっかりだった。筆を握らせてもらえるようになったのは、その後だ」
留吉の言葉に、千代は深く頷いた。
何かを極めるための下積みの長さは、時代が違っても変わらないのかもしれない。
同人活動を始めたばかりの頃、思うように絵が描けず、何度も描き直した日々を思い出す。
「私も、最初は全然うまく描けなくて。何度も練習しました」
「そうだったのか..,」
「今も、まだまだですけど」
「十分うまいと思うぜ、俺は」
さらりと言われたその一言に、千代の頬が熱くなった。
留吉はそれに気づいていないのか、涼しい顔で焼き芋の最後の一口を頬張っている。
留吉はそう言いながら、歩調を緩めた。
ちょうど、木戸の前まで来たところだった。
「また今度、栞のこと、権助にどんな評判か聞かせてくれよ」
「はい、必ず」
「それと...」
留吉は少し言いよどんでから、続けた。
「その絵、気に入ってもらえて、よかった」
「はい!とても...」
留吉は小さく頷くと、風呂敷包みを抱え直し、夕闇の中へと歩き去っていった。
その背中を見送りながら、千代は手にした絵を、そっと胸に抱いた。
長屋の路地に入ると、おたきが土間から顔を出した。
「おかえり。何かいいことでもあったのかい?顔がにやけてるよ」
「そんなっ...にやけてなんか!」
千代は慌てて表情を引き締めようとしたが、うまくいかなかった。おたきはくすくすと笑いながら、夕餉の支度に戻っていく。
「留吉と、会ったのかい?」
「あ……はい、途中で」
「そうかい」
おたきはそれ以上詮索せず、ただ穏やかに笑うだけだった。
その気遣いに、千代は少しほっとする。
夕餉の支度を手伝いながら、千代は懐にしまった絵と栞を、そっと確かめた。
清次とお葉の想いの行方は、まだ分からないままだ。
それでも、この町で少しずつ紡がれていく、新しい繋がりの温かさを、千代は確かに感じ始めていた。
その夜、布団に入ってからも、千代は留吉にもらった絵を、何度も眺めた。
粗削りな線の一本一本に、確かな気持ちが込められている気がした。
現代にいた頃、千代は誰かから直接、こんなふうに「あなたのことを見ていた」という証を渡されたことがあっただろうか。
推し活の中で、作品やキャラクターへの想いを形にすることには慣れていた。
けれど、目の前の生身の相手から、自分自身を描いた絵を差し出されるという経験は、まったく違う種類の温かさを伴っていた。
(この人は、私の知らないところで、ちゃんと私を見てくれていたんだ)
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
清次とお葉のことを考えるとき、いつも切なさが先に立った。
届かなかった想い、渡せなかった贈り物。
けれど、留吉から手渡されたこの絵は、今、確かに千代の手の中にある。届く想いも、ちゃんとあるのだと、千代は静かに思った。
懐の簪と、留吉の絵と、栞の余り一枚。
三つを並べて眺めながら、千代はゆっくりと目を閉じた。
(明日は、どんな一日になるかな)
そんなことを考えながら、千代は静かに眠りに落ちていった。




