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第12話 お春の願い事


ある日の昼餉どき、仕立て仕事場の隅で、お春が珍しく浮かない顔をしていた。


「お春ちゃん、どうしたの?元気ないね」


千代が声をかけると、お春は箸を止め、小さくため息をついた。


「実はさ、来月、おっかさんの生まれ日なんだ」


江戸に誕生日という言葉はまだ存在しない。

生まれた日、生まれ日、生辰などの言い方が存在する。


「それは、おめでたいことじゃない」


「うん、そうなんだけど……」


お春は言いよどんだ。しばらく間があってから、ぽつりと続けた。


「毎年、おとっつぁんが何か贈り物をしてたんだけど、去年、おとっつぁん、亡くなっちゃってさ...」


千代は思わず箸を置いた。お春の家族について、これまであまり詳しく聞いたことがなかった。


「流行り病でね。あっという間だった。おっかさん、気丈に振る舞ってるけど、本当はずっと辛かったと思うんだ...」


「そうだったんだ……知らなかった...」


「言ってなかったからね。あんまり、湿っぽい話、したくなかったし...」


お春は小さく笑ってみせたが、その笑顔にはどこか無理をしている色があった。


千代は、お春が普段見せている明るさの裏に、こんな事情があったことを、今更ながら知った。


「今年は、あたしが何か贈りたいんだ。おっかさん、ずっと気を張って頑張ってきたからさ」


「素敵な考えだと思う!」


「でも、何がいいか、全然思いつかなくて。お金もそんなにないし、簡単な物じゃ、なんだか物足りない気もするし...」


お春は膝の上で、着物の裾をぎゅっと握りしめた。

千代は少し考えてから、尋ねた。


「お母さん、何が好きなの?」


「花が好き。あと、髪飾りとか、身につけるものも」


「じゃあ、簪はどう? 手作りで」


「簪?でも、あたし、そんなに器用じゃないし...」


「大丈夫、一緒に考えよう」


千代の言葉に、お春は少し驚いたように顔を上げた。


「一緒に、って……手伝ってくれるの?」


「うん。おたきさんや、絵草紙屋の人たちにも相談してみよう。きっと、いい案が出るよ」


お春の表情が、じわじわと明るくなっていった。


「ありがとう、千代ちゃん。誰かに相談できるだけで、なんだか気持ちが軽くなった」


「一人で抱えなくていいんだよ、こういうことは」


千代がそう言うと、お春は少し目を潤ませながら、こくりと頷いた。


その日の夕方、千代はお春を連れて長屋へ戻り、おたきに事情を話した。

おたきは腕を組み、しばらく考え込んだ。


「花の意匠の簪かい。それなら、布細工で作るのはどうだい?」


「布細工、ですか...」


「ちりめんの端切れを使って、小さな花を作るんだよ。うちにも、余り布があったはずだ」


おたきは簞笥から、色とりどりの端切れを取り出してきた。

赤、桃色、萌黄色――どれも小さな布だったが、組み合わせ次第で、様々な表情を作れそうだった。


「色の組み合わせなら、絵草紙屋の親方に聞いてみるのもいいかもしれないね。あの人、色の扱いには詳しいから」


翌日、千代とお春は連れ立って絵草紙屋を訪ねた。

事情を話すと、親方は興味深そうに耳を傾けてくれた。


「桜の色合いか。ただの桃色一色じゃ、平坦に見えちまう。薄い色から濃い色まで、何段階か重ねると、花びらに奥行きが出るぜ」


親方はそう言うと、色見本のような紙を取り出し、いくつかの組み合わせを見せてくれた。

留吉も奥から顔を出し、話に加わってくる。


「花芯のところに、ちょっとだけ濃い色を差すと、それらしく見えるな」


留吉の助言に、千代とお春は熱心に耳を傾けた。

二人だけで悩んでいたときには思いつかなかった工夫が、次々と積み重なっていく。


「...みんなに相談してよかった...」


お春がそう呟くと、千代も深く頷いた。

一人で抱え込むよりも、誰かと知恵を持ち寄る方が、ずっと良いものができる。

それは、ものづくりに関わる誰もが、時代を超えて共有している実感なのかもしれなかった。


長屋に戻った二人は、教わった色の組み合わせを頭に入れながら、改めて布細工に取り掛かった。


「これを、丸めたり、折ったりして、花びらの形にするんだ」


おたきが実演してくれた手つきを、千代とお春は食い入るように見つめた。

布を小さく切り、指先で丁寧に折りたたんでいく。

糊を使わず、縫い留めるだけで、花びらの形が現れる。


「私も、コスプレの衣装作りで、布を使った小物を作ったことがあります。何か、力になれるかもしれません」


「...こす...ぷれ?ってなあに?」


「あっ、な、なんでもない!」


千代はそう言うと、頭の中で構図を練り始めた。花びらの重なり方、色の配置、全体のバランス。

現代の造花細工で学んだ知識と、おたきに教わった江戸の布細工の技法を、頭の中で組み合わせていく。


「お春ちゃんのお母さんが好きな花って、何か特別なものはある?」


「桜、かな。おとっつぁんと出会ったのが、花見の場だったって、よく話してた」


「じゃあ、桜の花をモチーフにしよう」


千代は淡い桃色の端切れを手に取り、花びらの形に折りたたんでいった。

おたきに教わった技法を思い出しながら、慎重に縫い留めていく。

何度か失敗しながらも、少しずつ、桜の花に似た形が出来上がっていった。


「わあ……」


お春が思わず声を上げた。

出来上がった花は、まだ拙いものだったが、確かに桜の面影を宿していた。


「お春ちゃんも、やってみて」


「あたしにも、できるかな...」


「大丈夫。一緒にやれば」


千代はお春の手を取り、布の折り方を丁寧に教えていった。


「まず、布の角をこう合わせて……そう、そこを軽く押さえながら」


「あ、崩れちゃった...!」


「大丈夫、もう一回」


お春は何度も花びらを作り直した。

指先に糸を刺してしまい、小さな声を上げることもあった。

それでも、諦めずに手を動かし続ける。

千代はその姿に、初めて同人誌を作ったときの自分を重ねていた。


うまくいかなくて、何度もやり直して、それでも完成させたいという気持ちだけは、決して折れなかったあの日々。


「ねえ、千代ちゃん。こういうの、いつもどうやって上達したの?」


「数をこなすしかない、と思う。あとは、うまくいかなかったところを、次はどう変えるか、考えながら」


「地道なんだね...」


「うん。でも、その分、できたときの嬉しさが大きいよ」


千代の言葉に、お春は納得したように頷き、また布に向き合った。

二人で花びらをいくつも作り、それを少しずつ組み合わせていった。


途中、花びらの重なり方がうまくまとまらず、何度も配置をやり直した。

おたきが時折覗き込んで、助言をくれる。


「もう少し内側の花びらを小さくすると、立体感が出るよ」


「本当だ……」


千代は言われた通りに調整し、お春も横で真剣な顔で見つめていた。

試行錯誤を重ねるうちに、花の形は少しずつ、桜らしい輪郭を帯びていった。


数日をかけて、二人は簪の飾りを完成させた。

桜の花を模した小さな布細工が、簪の先端に彩りを添えている。

おたきが、その仕上がりを見て感心したように頷いた。


「見事なもんだね。二人でよく頑張ったよ」


「千代ちゃんのおかげよ」


「ううん、お春ちゃんが頑張ったからだよ」


二人は顔を見合わせて笑った。


誕生日の当日、お春は緊張した面持ちで、母親に簪を差し出した。

千代とおたきは、少し離れた場所からその様子を見守っていた。


「おっかさん、これ……」


お春の声は、いつもより小さく、震えていた。

差し出す手も、わずかに揺れている。

それでも、しっかりと母親の目を見て、簪を差し出した。


お春の母親は、簪を受け取ると、しばらく無言でそれを見つめていた。

指先で花びらの一枚一枚を、確かめるようになぞる。やがて、目元にうっすらと涙を浮かべる。


「お春……これ、あんたが作ったのかい...?」


「うん。千代ちゃんと、おたきさんに手伝ってもらって...」


「桜だね。あの人と出会った、あの日の...」


「覚えてた?」


「っ...忘れるわけないだろう」


母親はそう言うと、震える手で簪を髪に挿した。

夕暮れの光の中で、桜の飾りが柔らかく揺れる。

しばらくの間、母親は言葉を発せず、ただ簪に触れ続けていた。


「あの人がいなくなってから、正直、毎日をどう過ごしていいか、分からなくなる時があったんだよ...」


母親はぽつりと呟いた。


「でも、あんたがこうして、ちゃんと想ってくれてる。それだけで、あたしは十分だよ」


お春の目から、堪えきれなくなった涙がこぼれた。


「おっかさん……」


母子はしばらく、その場で抱き合っていた。

千代は少し離れた場所から、その光景を静かに見つめていた。

胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「ありがとうね、お春。それに、千代ちゃんも」


母親は涙を拭いながら、千代に向き直った。


千代は小さく首を振った。


「私は、少し手伝っただけです。お春ちゃんの気持ちが、ちゃんと形になったんだと思います」


その言葉に、お春の母親は千代の手を取り、深々と頭を下げた。


「本当に、ありがとうね」


長屋への帰り道、お春は簪をつけた母親の姿を思い出しながら、しみじみと言った。


「こんなに喜んでもらえるなんて、思ってなかった」


「よかったね、お春ちゃん」


「うん。千代ちゃんに手伝ってもらえて、本当によかった。あたし一人だったら、きっと何も思いつかないまま、この日を迎えてたと思う」


「お春ちゃんの気持ちがあったから、形になったんだよ。私は、ちょっと手を貸しただけ」


「それでも、だよ」


お春はそう言うと、千代の手をぎゅっと握った。


「あたしも、いつか千代ちゃんの力になれたらいいな」


その言葉に、千代の胸が温かくなった。誰かのために何かを作り、それが誰かを喜ばせる。その一連の流れが、時代を超えて、千代の心を満たしてくれる。


おたきが、二人の後ろから穏やかな声をかけた。


「二人とも、よく頑張ったね。見てるこっちまで、嬉しくなったよ」


「おたきさんの布細工の技術がなかったら、あんな仕上がりにはならなかったです」


「なんの。あたしはちょいと、コツを教えただけさ。あとは、お前さんたちの気持ちが、ちゃんと形にしたんだよ」


三人は夕暮れの道を、ゆっくりと歩いた。

橙色に染まった空の下、長屋の煙突からは、夕餉の支度をする煙が細く立ち上っている。


長屋に戻ると、お春は自分の家へと帰っていった。

その後ろ姿を見送りながら、千代はふと、留吉にもらった絵のことを思い出した。


誰かのために何かを作り、それを渡す。

その瞬間に生まれる温かさは、贈る側にも、贈られる側にも、確かな幸せをもたらすのだと、改めて実感する。


夕餉の支度をしながら、おたきがぽつりと言った。


「千代、お前さんがこの町に来てから、なんだか周りが賑やかになった気がするよ」


「そうですか?」


「ああ。お春も、留吉も、権助も。みんな、お前さんと関わるようになってから、どこか楽しそうだ」


その言葉に、千代は少し照れながらも、嬉しく思った。

江戸に来たばかりの頃は、ただ不安と戸惑いでいっぱいだった。

それが今では、この町の人々との繋がりが、確かな支えになっている。


夕暮れの空を見上げながら、千代は静かに思った。


(ーーこの町で、また一つ、大切な思い出ができた)



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