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第13話 雨宿りの三人


その日は朝から、鈍色の雲が空を覆っていた。


「今日は降りそうだねぇ」


おたきが空を見上げながら呟いた。

千代は洗濯物を取り込みながら、その言葉に頷いた。


長屋での暮らしにもすっかり慣れ、空模様を見て一日の段取りを考える癖が、いつの間にか身についていた。


「早めに仕事場に行った方がいいかもしれませんね」


「そうだね。降り出したら、道もぬかるむだろうし」


千代は身支度を整えて、いつもより少し早く長屋を出た。

空はますます重たく垂れ込め、遠くで雷らしき音がかすかに響いていた。


昼過ぎになると、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ち始めた。

仕立て仕事場での作業を終える頃には、本降りになっていた。

窓の外を見ながら、おかみさんが眉をひそめる。


「こりゃぁ、しばらく続きそうだね。千代、お春、傘は持ってきてるかい?」


「あ……」


二人は顔を見合わせた。

今朝の慌ただしさで、すっかり傘のことを忘れていた。


「参ったね...、傘、持ってきてないよ」


お春が軒先で困った顔をしている。千代も同じく、傘の用意はなかった。


「少し待てば、止むかな?」


「どうかな...?この空じゃ、しばらく続きそうだけど...」


二人が軒先で雨宿りをしていると、通りの向こうから、風呂敷を頭に乗せた留吉が駆け込んできた。


「千代さん、お春も。傘、持ってねえのか!」


「はい、油断してました...」


「ちょうど、届け物の途中でよ。傘、一本しかねえんだが...」


留吉が広げて見せたのは、油紙を張った一本の傘だった。

三人で使うには、いささか心もとない大きさだ。


「近くに、雨宿りできる場所があるんだ。そこまで一緒に行こう」


三人は身を寄せ合うようにして、留吉の案内する方向へ歩き出した。

雨脚は強く、傘からはみ出た肩や袖が、じわじわと濡れていく。


「留吉さん、この傘、狭くないですか?」


「気にすんな。それより、二人とも、濡れてねえか」


留吉は傘を千代とお春の方へ傾け、自分の肩が雨に打たれるのも構わない様子だった。

お春が横目でその様子を見て、千代に小さくささやいた。


「留吉さんって、ああいうとこ、律儀だよね」


「うん……」


千代は思わず顔が熱くなるのを感じながら、視線を前に向けた。


道端の水たまりに、傘の輪郭が映り込んでは消えていく。

商店の軒先では、急な雨に驚いた様子の商人たちが、慌てて品物を屋根の下へ運び込んでいた。


天秤棒を担いだ物売りが、濡れるのも構わず、足早に駆けていく後ろ姿も見えた。


「あそこだ」


留吉が指したのは、小さな茶屋だった。

軒が深く張り出していて、雨宿りにはちょうどいい造りになっている。

三人は急いで駆け込んだ。


「いらっしゃい」


出迎えてくれたのは、人の好さそうな年配の女将だった。

三人の濡れた着物を見て、すぐに火鉢を勧めてくれる。


「災難だったねぇ。ゆっくり温まっていきな」


「すみません、突然...」


「ほっほっ。なんのなんの。こんな日は、お互い様さぁ」


千代たちは火鉢を囲むようにして座った。

濡れた袖を乾かしながら、外の雨音に耳を澄ませる。


「こういう日は、何を飲むのが定番なんですか?」


千代が尋ねると、女将はにっこり笑って答えた。


「そうさねぇ、やっぱり甘酒だね。冷えた体には、これが一番」


しばらくして、湯気の立つ甘酒が三人の前に置かれた。

優しい甘さが、冷えた体にじんわりと染み渡る。


「美味しい……」


千代は思わず、ほうっと声を漏らした。

現代で飲んだことのある甘酒とは、また違う風味だった。

米の粒感が残っていて、素朴な甘みが強い。


「こういうの、資料でしか知らなかった味です」


「資料?」


留吉が首をかしげると、千代は慌てて言葉を濁した。


「あ……本で読んだことがあった、という意味です」


「本当に、よく本を読んでるんだな、千代さんは」


留吉が感心したように言うと、お春がくすりと笑った。


「千代ちゃんって、本当に物知りだよね。何でも知ってる」


「そんなことないよ。知らないことの方が、まだまだ多い」


千代は湯呑みを両手で包み込みながら、ふと尋ねた。


「甘酒って、どうやって作るんですか」


「米を蒸して、麹と合わせて、じっくり寝かせるんだよ」女将が奥から答える。


「一晩置くだけで、こんなに甘くなるんだから、不思議なもんさ」


「発酵の力、ですね」


「はっこう?」


「あ……米が、時間をかけて甘く変化していく仕組み、というか」


千代がしどろもどろに説明すると、留吉は興味深そうに聞き入っていた。


「千代さんは、物事の仕組みを知りたがるんだな」


「好きなものの裏側を知ると、もっと好きになれる気がして...」


「その考え方、俺は好きだぜ」


留吉の何気ない一言に、千代の胸がまた小さく跳ねた。

お春がその様子をにやにやと眺めていることには、気づかないふりをした。


三人は甘酒を飲みながら、他愛のない話に花を咲かせた。

雨音が茶屋の屋根を打つ音が、どこか心地よい調子で響いている。


「こういう雨の日って、あたし、意外と嫌いじゃないんだよね」


お春がぽつりと言った。


「そうなの?」


「うん。普段はみんな忙しくて、なかなかゆっくり話せないけど、雨の日はこうして、腰を落ち着けられるから.,」


「悪くねえな、その考え方」


留吉も頷きながら、甘酒を口に運んだ。


千代は湯気の向こうに揺れる二人の顔を見つめながら、静かに思った。


江戸に来たばかりの頃は、こんなふうに誰かと肩を並べて、雨宿りをする時間があるとは、想像もしていなかった。


「千代さんは、雨の日、何してたんだ。もといたところで」


留吉の何気ない問いに、千代は少し考えてから答えた。


「うーん...家で、絵を描いたり、縫い物をしたり……好きなことをして過ごすことが多かったですね」


「今と、あんまり変わらねえな」


「ふふっ、本当に」


千代は思わず笑った。

時代が変わっても、好きなことに没頭する時間の心地よさは、変わらないのかもしれない。


雨は一向に止む気配を見せなかった。

女将が新しい茶を運んできながら、話しかけてくる。


「今日は、長丁場になりそうだねぇ...」


「そうですね...」


「なら、退屈しのぎに、一つ話でもしようか。この店にゃ、色んな客が来るから、面白い話にも事欠かないよ」


女将はそう言うと、腰を下ろして語り始めた。


「この間なんてね、近所の子が迷子になっちまってさ。母親が半泣きで探し回っててね...」


「見つかったんですか?」


千代が身を乗り出すと、女将は懐かしそうに頷いた。


「うちの店先で、堂々と団子を食べてたんだよ。迷子になったことにも気づかず、通りすがりの飴屋に貰った団子を、のんびりとね」


「それは……肝が据わってますね」


「まったくだよ。母親が駆けつけてきたときの、ほっとした顔と、呆れた顔が入り混じった表情ったらなかったね」


三人は思わず笑った。留吉が続けて尋ねる。


「隣町の祭りの話も、してくれよ」


「ああ、あれね!今年は、屋台の数が例年より多いらしいよ。飴細工の職人が新しく店を出したとかで、評判になってるんだと」


「飴細工、見てみたいです」


千代が思わず呟くと、お春が目を輝かせた。


「なら行こうよ、みんなで!祭りの日」


「いいですね、それ」


「俺も、都合つけるようにするか」


留吉が頷くと、女将が嬉しそうに三人を見比べた。


「若い人らが、こうして楽しそうにしてるのを見るのが、あたしの一番の楽しみでねぇ」


女将の言葉に、三人は顔を見合わせて笑った。

三人はその話に耳を傾けながら、次第に体が温まっていくのを感じていた。


やがて、雨脚が少しずつ弱まってきた。

窓の外を見ると、雲の切れ間から、淡い光が差し込み始めている。


「そろそろ止みそうだね」


お春がほっとしたように言った。


「もう少し、こうしていてもよかったんですけどね」


千代がぽつりと呟くと、留吉が意外そうな顔をした。


「珍しいな、千代さんがそんなこと言うの」


「なんだか、居心地がよくて」


千代は素直にそう答えた。

雨に閉じ込められた、たった一時のこの時間が、千代にとってはかけがえのないものに感じられた。


女将に礼を言い、三人は茶屋を出た。

雨上がりの空気は澄んでいて、水たまりに映る空が、淡く色づき始めている。


「また、こういう時間があってもいいな」


留吉がぽつりと言った言葉に、千代とお春は顔を見合わせ、笑い合った。


「今度は、雨が降らなくても、みんなで甘酒を飲みに行こうよ!」


お春の提案に、千代も頷いた。


「いいですね、それ」


「約束だぜ」


留吉がそう言って、傘を畳んだ。

三人は連れ立って、夕暮れ前の町を歩いた。

水たまりを避けながら歩く足取りは、どこか軽やかだった。


途中、お春が急に思い出したように立ち止まった。


「あ、そういえば、あたし、この先で寄るとこあった。おっかさんに頼まれてたお使い、忘れてた」


「大丈夫? 一人で平気?」


「うん、すぐそこだから。二人は、先に行ってて!」


お春はそう言うと、軽い足取りで別の路地へと駆けていった。

残された千代と留吉は、思いがけず二人きりになり、どちらからともなく、少し気まずい沈黙が流れた。


「その……送っていく」


「はい、お願いします」


二人は並んで、長屋への道を歩き出した。

夕暮れの光が、濡れた石畳を橙色に染めている。


「今日は、色々ありがとうございました。傘も、貸してもらって...」


「大したことじゃねえよ」


「甘酒、美味しかったです。今度また、みんなで行けたら」


「ああ、必ず」


留吉はそう答えると、少し間を置いてから、ぽつりと付け加えた。


「千代さんと、こうして何気ない話をしてる時間、俺は結構、好きだぜ」


その一言に、千代の心臓が大きく跳ねた。

何と返せばいいのか分からず、しばらく言葉を探す。


「わ、私も……好きです。こういう時間...」


つい、しどろもどろになりながら答えると、留吉は小さく笑った。


「素直だな、千代さんは」


「留吉さんこそ」


二人はそのまま、他愛のない沈黙を挟みながら、長屋への道を歩いた。

木戸が見えてくる頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。


「じゃあ、また」


「はい、また」


留吉の背中を見送りながら、千代は懐の簪にそっと触れた。

清次とお葉のこと、まだ答えは出ていない。


それでも、この町で紡がれていく、こうした何気ない時間の一つ一つが、千代にとって、かけがえのない宝物になりつつあった。



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