第14話 祭りの夜
雨上がりから数日後、長屋の路地は祭りの噂で持ちきりになっていた。
「今年の祭り、隣町まで出張って見に行く人も多いんだってさ」
井戸端でお春が声を弾ませながら言うと、周りのおかみさんたちも口々に賑わいの様子を語り始めた。飴細工の新しい職人が評判だという話、屋台の数が例年より多いという話、聞くたびに千代の胸も高鳴っていった。
「千代ちゃん、絶対一緒に行こうね」
「うん、楽しみ」
祭りの当日、千代はおたきに手伝ってもらいながら、いつもより少し丁寧に身支度を整えた。借り物の着物ではあったが、髪飾りを工夫して、自分なりの晴れ姿を作り上げる。
「帯、もう少しこう、崩した方が今どきの結び方に見えるかもしれません」
「今どき、ねえ。まあ、お前さんのやりたいようにやってごらん」
おたきは苦笑しながらも、千代の好きにさせてくれた。千代はコスプレの衣装作りで培った感覚を頼りに、帯の結び目を少しだけ工夫し、髪には小さな造花を飾り付けた。仕上がりを鏡代わりの水面に映すと、江戸の娘らしさを保ちながらも、どこか華やかな印象に仕上がっている。
「よく似合ってるよ」
おたきの一言に、千代は頬を緩めた。
「ありがとうございます。おたきさんのおかげです」
「あたしは何もしちゃいないよ。お前さんが工夫したんだろう」
木戸を出ると、お春が待っていた。普段より華やかな着物姿で、瞳を輝かせている。
「わあ、千代ちゃん、可愛い!」
「お春ちゃんこそ」
二人は顔を見合わせて笑い、連れ立って祭り会場へと向かった。通りに近づくにつれ、賑やかな笛や太鼓の音が聞こえてくる。露店の明かりが、夕暮れの道を橙色に照らしていた。
「留吉さんと権助さんとは、どこで待ち合わせだっけ」
「神社の鳥居の前だって」
二人が鳥居に近づくと、既に留吉と権助が待っていた。
「遅かったな」
留吉がそう言いながらも、千代の姿を見て、一瞬言葉を止めた。
「その格好、いいな」
「あ、ありがとうございます」
急に褒められて、千代は思わずうつむいた。権助がにやにやしながら二人を見比べる。
「お前ら、なんかいい雰囲気じゃねえか」
「な、なんでもねえよ」
留吉が慌てて話を逸らし、四人は連れ立って祭りの通りを歩き始めた。
参道の両脇には、様々な屋台が並んでいた。焼き団子、綿飴、水飴、金魚すくい――現代の縁日とも通じる賑わいに、千代は思わず目を輝かせた。
「あれ、見て。飴細工だよ」
お春が指差した先には、噂の飴細工職人の屋台があった。職人が手際よく、飴を鶴の形に仕上げていく様子に、集まった人々が歓声を上げている。
「すごい......」
千代は食い入るようにその手つきを見つめた。熱した飴を素早く成形していく技術は、まさに職人技だった。竹串の先に絡めた飴を、指先と息だけで膨らませ、瞬く間に鳥の形へと変えていく。
「あんなに早く、形になるものなんですね」
「熱が冷める前に仕上げねえと、固まっちまうからな」
留吉が横で説明してくれた。千代は資料で見た飴細工の写真を思い出しながら、実際の技を目の当たりにする興奮を噛み締めていた。写真では止まっていた瞬間が、今、目の前で確かに動いている。
「千代さんも、何か注文してみるか」
留吉に促され、千代は小さな兎の飴細工を頼んだ。出来上がったそれを受け取ると、艶やかな飴の表面が、祭りの灯りを反射してきらきらと輝いていた。
「綺麗......」
あまりの愛らしさに、千代は、しばらく、食べるのをためらった。だが、隣で留吉が、待ちきれない様子で、こちらを見ている。
「食べねえのか」
「あ、食べます」
千代は、兎の耳の先を、思い切って、かじった。表面は、かりっと軽い歯触りで、噛み進めるうちに、優しい甘さが、口いっぱいに広がっていく。
「美味しい......! ただの甘さじゃなくて、香ばしさもあって」
「そうだろう。この店の飴、火加減が絶妙なんだ」
留吉も、満足げに頷いた。すっかり気に入った千代は、残った部分は、大切に持ち帰ろうと、そっと懐紙に包んだ。ずっと憧れていた、あの飴細工の味を、千代は、確かに、この舌で、味わうことができた。
「食べるのがもったいないくらいだな」
「本当に」
四人は屋台を巡りながら、焼き団子や水飴を分け合って楽しんだ。焼き団子の屋台では、香ばしい匂いに誘われて、四人揃って一本ずつ買い求めた。
「この甘辛いたれ、何度食べても飽きないな」
権助がそう言いながら、串を頬張った。お春が水飴を伸ばしながら首をかしげる。
「これ、どこまで伸びるんだろう」
「あんまり伸ばしすぎると、切れて落ちるぞ」
留吉の忠告も虚しく、お春が伸ばしすぎた水飴は、あっという間に地面へ落ちてしまった。
「あーあ」
「もったいねえことしたな」
四人はその様子に笑い合いながら、次の屋台へと足を進めた。金魚すくいでは、権助が張り切って挑戦したものの、あっという間に紙が破れてしまい、皆で笑い合った。
「くそっ、もう一回だ」
「権助さん、その意気込みじゃ、金魚も驚いて逃げちゃうよ」
お春の突っ込みに、周りの人々も笑いを誘われていた。結局、権助は五回挑戦して、ようやく小さな金魚を一匹すくい上げることに成功した。
「見たか、これが俺の実力だ」
「五回目でやっと、でしょう」
千代がからかうように言うと、権助はばつが悪そうに頭を掻いた。その姿に、四人はまた笑い合った。千代はその様子を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。誰かと肩を並べて、他愛のないことに笑い合う時間。それは、現代でも、江戸でも、変わらずかけがえのないものだった。
日が完全に暮れると、境内には無数の提灯が灯された。淡い橙色の光が、参道全体を幻想的に照らし出す。
「綺麗ですね」
千代が思わず呟くと、隣にいた留吉が頷いた。
「毎年見てるはずなのに、何度見ても綺麗だと思う」
しばらく歩くうち、お春と権助は先の屋台に気を取られ、二人から少し離れてしまった。気づけば、千代と留吉は、提灯の並ぶ道を並んで歩いていた。
「千代さん」
「はい」
「今日、誘ってくれて、ありがとな」
「私が誘ったわけじゃ......お春ちゃんが」
「いや、お前さんが一緒に来てくれるのが、俺は嬉しかったんだ」
留吉の素直な言葉に、千代の胸がまた小さく跳ねた。
「私も、留吉さんと一緒に見られて、嬉しいです」
二人はしばらく無言のまま、提灯の灯りを眺めながら歩いた。遠くで打ち上げられた花火が、夜空に大きく花開く。
「今日だけじゃなく、しばらくは、毎晩、揚がるらしいですね」
千代がそう言うと、留吉は頷いた。
「ああ、川開きから、二月あまり。夏の間は、ずっとだ」
千代は、その言葉に、資料で読んだ記憶を、思い出していた。この時代の花火は、一夜限りの特別な催しというより、川開きから、およそ三月にわたって、夜ごと打ち上げられる、夏の風物詩なのだと。今日、たまたま祭りと重なって見られたことは、その長い季節の、ほんの一夜に過ぎない。それでも、その事実を知ると、この夏の間、まだ何度でも、この光景に出会えるのだという、確かな楽しみが、千代の胸に、広がっていった。
「わあ......」
千代は思わず声を上げた。江戸の花火を、実際にこの目で見る日が来るとは、資料集めをしていた頃には想像もしていなかった。色鮮やかとまではいかない、素朴な花火だったが、その一つ一つに、確かな美しさがあった。
夜空に咲くのは、橙色や、赤みがかった、素朴な光ばかりだった。青や緑といった、鮮やかな色は、一つも見当たらない。千代は、その理由を、資料で読んだ記憶を辿りながら、思い出していた。
(そうだ、この時代の花火って、まだ、色をつける技術がないんだ)
鮮やかな色を出すための、金属の粉末を使う技術は、まだ、この国には伝わっていない。だから、この時代の花火は、火薬そのものが燃える、橙色の炎の色しか、出せないのだと、千代は、資料で読んだことを、思い出していた。それでも、単色だからこそ際立つ、素朴で力強い輝きが、夜空いっぱいに、広がっていた。
「玉屋ー、鍵屋ー」
観客たちの、威勢のいい掛け声が、あちこちから上がる。千代は、その声にも、聞き覚えがあった。花火を打ち上げる、二つの老舗の屋号を、贔屓に応じて、観客が呼び声をかける。それもまた、この時代ならではの、花火見物の楽しみ方だった。
(あの掛け声、資料でしか知らなかったのに......本当に、生で聞けるんだ)
千代は、単色の光と、威勢のいい掛け声に彩られた、この時代ならではの花火に、資料の中の知識とは、また違う、確かな迫力と、温かみを感じていた。
「綺麗だな」
「はい、本当に」
花火の光に照らされた留吉の横顔を、千代はそっと見つめた。夜空を見上げるその表情には、屈託のない少年らしさが滲んでいた。
「千代さん、こっち向いてくれ」
不意にそう言われて、千代は驚いて留吉の方を見た。留吉は少し照れくさそうに笑いながら、口を開いた。
「こうやって、隣で花火を見てる時間、俺は忘れねえと思う」
「私も、忘れません」
二人は花火が終わるまで、そのまま並んで夜空を見上げていた。夜空に咲いては消えていく光の一つ一つを、千代は目に焼き付けるように見つめていた。資料の中でしか知らなかった江戸の花火が、今、確かに自分の目の前で咲いている。その事実だけで、胸がいっぱいになりそうだった。
やがて、お春と権助が戻ってきた。
「見つけた! お前ら、こんなとこにいたのか」
権助が息を切らしながら駆け寄ってくる。お春はにやにやしながら、千代と留吉を交互に見た。
「二人とも、いい雰囲気だったね」
「な、なんでもねえよ」
留吉が慌てて否定すると、お春は楽しそうに笑った。四人は再び連れ立って、祭りの余韻を楽しみながら、参道をゆっくりと戻り始めた。
境内を出る頃には、夜もすっかり更けていた。人混みも少しずつまばらになり、屋台の灯りも一つ、また一つと消えていく。
「今日は、本当に楽しかったです」
千代が皆に向けてそう言うと、お春が大きく頷いた。
「うん、また来年も行こうね」
「ああ、必ず」
権助と留吉も口々に頷いた。四人は途中で別れ、それぞれの家路についた。
長屋への帰り道、千代は懐に包んだ、飴細工の残りを、そっと確かめた。祭りの喧騒が遠ざかっていく中、胸の奥には、温かな余韻がいつまでも残っていた。留吉と並んで見た花火の光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
木戸をくぐると、おたきが土間で待っていてくれた。
「おかえり。楽しかったかい」
「はい、とても」
千代はそう答えながら、懐から、包んでおいた飴細工の残りをそっと取り出した。灯りに照らされたそれは、齧った跡はあるものの、まだ艶やかな輝きを保っていた。
「これ、留吉さんに頼んでもらったんです」
「へえ。大事にしな」
おたきの優しい声に、千代は静かに頷いた。清次とお葉のこと、まだ答えは出ていない。それでも、この町で紡がれていく新しい思い出の一つ一つが、千代の心を、少しずつ、確かに満たしていた。
(第15話につづく)




