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第15話 文のゆくえ


祭りから数日が過ぎたある日、留吉が思いがけない顔つきで長屋を訪ねてきた。


「千代さん、ちょっといいか。清次さんのことで、分かったことがある」


その一言に、千代の胸が大きく跳ねた。


井戸端で洗濯をしていた手を止め、急いで留吉のもとへ駆け寄る。


「本当ですか!詳しく聞かせてください」


「ああ、ここじゃなんだ。ちょっと座って話そう」


留吉に促され、千代は長屋の土間に招き入れた。

留吉は少し声を落として話し始めた。


「親方が、古い付き合いの彫り師のところに顔を出したら、清次さんの消息を知ってる人物が見つかったんだ」


「本当ですか」


「ああ。詳しい話を聞きに、これから行ってみねえか」


千代は迷わず頷いた。心臓が早鐘のように打っている。

長年、本の中でしか触れられなかった歴史の断片が、今、確かに動き出そうとしていた。


「おたきさんに、事情を話してきます」


千代は急いで土間の奥へ向かい、おたきに手短に説明した。

おたきは心配そうな顔をしながらも、千代の真剣な表情を見て、静かに頷いてくれた。


「気をつけて行っておいで。何かあったら、すぐ帰るんだよ」


「はい、ありがとうございます!」


千代は着物の裾を整え、留吉とともに長屋を出た。

空はまだ明るく、日差しが柔らかく町を照らしている。


留吉に連れられて訪れたのは、町外れにある小さな仏具屋だった。

線香の香りが、店先まで漂ってくる。


暖簾をくぐると、店主らしき白髪の目立つ、穏やかな面持ちの老人が出迎えてくれた。


「留吉さんの言ってた娘さんかい。清次のことを聞きたいんだって?」


「はい」


千代が頷くと、老人はゆっくりと語り始めた。


「清次とは、若い頃からの付き合いでね。あいつが姿を消す少し前、うちに一度、顔を出したんだよ」


「その時、何か言っていましたか?」


「ああ。えらく思い詰めた顔をしてたのを覚えてる。好いた女が、遠くへ嫁いでいくことになった、と。渡したいものがあるのに、渡せない、と嘆いていたよ」


老人の言葉に、千代は胸が締めつけられる思いだった。

清次の抱えていた苦しみが、少しずつ輪郭を帯びていく。


「それで、清次さんは、どうしたんですか?」


「あいつは、こう言ってたよ。『渡せないなら、いっそ、この町を離れる』とね。未練を残したまま、彼女の近くにいるのが、辛かったんだろう」


「今、清次さんは、どちらに...」


老人は少し考え込んでから、答えた。


「風の噂じゃ、上方の方で、絵の修業を続けてるらしいとは聞いたことがある。だが、確かなことは分からない。あいつは、身軽な質でね...。腰を落ち着けるより、旅から旅への暮らしの方が、性に合ってたのかもしれない」


「絵師としての腕は、どうだったんでしょうか?」


千代が尋ねると、老人は懐かしそうに目を細めた。


「荒削りだったが、光の捉え方に独特のものがあった。あいつの描く空は、いつもどこか切なげでなぁ...。今思えば、あの切なさは、お葉への想いだったのかもしれないね」


留吉が身を乗り出す。


「うちの親方も、そう言ってました。色の選び方に、独特の勘があったって...」


「そうかい。あいつの才が、ちゃんと語り継がれてるのは、嬉しいことだね...」


老人はそこで一度言葉を切り、奥の棚から古い文箱を取り出してきた。


「これは、清次が旅立つ前、うちに預けていったものだ。もし、いつか誰かがあいつのことを訪ねてきたら、渡してくれと言われててね...」


文箱の中には、一通の手紙が収められていた。宛名は書かれておらず、封もされていない。


「読んでもいいものでしょうか」


「あいつが、いつか誰かに読まれることを望んで残したものだ。構わないと思うよ」


千代は震える手で、手紙を開いた。

留吉も横から、静かにその文面を覗き込む。


そこには、丁寧な筆致で、こう綴られていた。


『お葉へ


この文が、いつかお前の目に届くことを願っている。


俺は、お前の幸せを心から祈っている。渡すことのできなかった簪は、俺の未練そのものだ。だが、それをお前に押し付けることは、俺にはできなかった。


お前が選んだ道を、俺は邪魔したくない。ただ、どうか、幸せに生きてくれ。


清次』


読み終えた千代の目に、涙が浮かんだ。

渡せなかった想いが、こうして文字として残されている。

清次の苦しみと、それでも相手の幸せを願う優しさが、痛いほど伝わってきた。


(こんなにも、誰かを想う気持ちが強かったのに)


千代は手紙を握りしめながら、しばらく言葉を発せなかった。

同人誌を作るとき、誰かに何かを伝えたくて、何度も言葉を選び直したことを思い出す。


けれど、清次の手紙にある想いの重さは、それとは比べものにならないほど、切実だった。


会うこともできないまま、ただ相手の幸せだけを願って、自分の想いを封じ込める。


そんな選択を、清次はしたのだ。


「これは……」


留吉も、言葉を失っていた。

しばらくの沈黙のあと、留吉は静かに口を開いた。


「清次さんは、本当に、お葉さんのことを大事に想ってたんだな...」


「はい。だからこそ、自分の気持ちよりも、お葉さんの幸せを選んだんだと思います...」


「千代さんなら、どうする。同じ立場だったら」


留吉の問いに、千代はしばらく考え込んだ。


「分からないです、正直。でも...、もし想いを伝えられずに終わるのが辛いなら、少しでも伝える努力をしたいと、私は思います」


その言葉に、留吉は何かを考え込むような表情を浮かべた。

何かを言いかけて、しかし飲み込んでしまう。


「清次さんは、お葉さんのために、身を引く決意をしたんですね」


千代がそう言うと、老人は静かに頷いた。


「そういうことだろう。あいつらしい選び方だ」


千代は手紙を丁寧に畳み直し、老人に尋ねた。


「この手紙、お葉さんに届ける方法は、ないでしょうか」


「それは、難しいだろうね。もう五年も前に嫁いでいった先だ。今の住まいも、正確には分からない」


「そうですか……」


千代の心に、もどかしさが広がった。

せっかく見つかった清次の想いを、届けるべき相手に届けられない。

それがひどく歯がゆかった。


「ただ...」


老人が付け加えた。


「お葉の実家は、今もこの町にあるはずだ。両親は、まだ健在だと聞いている」


「実家に、行ってみましょう」


千代の言葉に、留吉も頷いた。


「そうだな。何か手がかりが、掴めるかもしれねえ」


老人に礼を言い、二人は仏具屋を後にした。

手紙を大切に懐へしまいながら、千代は静かに決意を固めていた。


「留吉さん、私、この手紙、ちゃんとお葉さんに届けたいです」


「俺も、同じ気持ちだ」


夕暮れの道を歩きながら、千代は懐の簪と、預かった手紙を、そっと確かめた。

清次の想いが、もう少しで、目指すべき場所に近づいていくような予感があった。


「明日、お葉さんの実家を訪ねてみましょう」


「ああ、付き合うぜ」


留吉の力強い言葉に、千代は頷いた。

まだ答えは出ていない。

それでも、確かに一歩、真実に近づいている。

その実感が、千代の胸を静かに満たしていた。


長屋に戻ると、おたきが心配そうな顔で出迎えてくれた。


「おかえり。何か分かったのかい」


千代は今日聞いたこと、読んだ手紙の内容を、丁寧におたきに話した。

おたきは静かに耳を傾け、話が終わると、しみじみと呟いた。


「そうかい......清次さんは、そんな想いを抱えてたのかい」


「はい。渡せなかった気持ちを、ずっと持ち続けてたんだと思います」


「切ない話だねぇ...。だけど、その手紙が、こうして今、お前さんの手に渡ったのも、何かの縁なんだろうさ」


おたきの言葉に、千代は懐の手紙と簪を、そっと確かめた。


その夜、布団に入ってからも、千代はなかなか寝付けなかった。

清次の手紙の一文一文が、頭の中で繰り返される。


誰かを想う気持ちは、届かなくても、確かにそこに存在し続ける。


留吉から手渡された絵のことを思い出しながら、千代はふと、自分自身の気持ちについても考えを巡らせた。


(届く想いも、あるんだ)


そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。

清次とお葉の物語に、少しでも良い形の続きがあってほしいと、千代は心から願っていた。


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