番外編1 江戸の町民の一日
長屋の暮らしにも、少しずつ慣れてきた、ある一日のことだった。
千代は、この日、朝から夜まで、町人としての一日を、じっくりと味わうことになった。
まだ、外が薄暗い、明け六つ前。
「そろそろ、起きようか」
おたきの声に、千代は、ゆっくりと、目を開けた。
現代の感覚では、随分と早起きだったが、この時間に起きるのは、もう、すっかり体に馴染んでいた。
身支度を整える前に、まず向かうのは、長屋の裏手にある、厠だった。
江戸に来たばかりの頃、初めてここを訪れたときの衝撃を、千代は、今でも、よく覚えている。
板張りの床に空いた、大きな穴。
その下には、瓶が埋め込まれ、傍らには、紙の代わりとなる、木片の束が置かれていた。
(最初は、本当に驚いたな)
今では、すっかり慣れたその光景も、慣れるまでは、現代との落差に、何度も戸惑わされたものだった。
数日に一度、天秤棒を担いだ男が訪れ、瓶の中身を、丁寧に汲み取っていく。
それが、百姓の畑の肥やしとなり、時には、こちらが代金を受け取ることもあるのだと、おたきに教わったときは、驚きを隠せなかった。
「江戸の町は、無駄が少ないんですね」
そう千代が言うと、おたきは、誇らしげに笑ったものだった。
「何でも、うまく使い回す。それが、この町の知恵ってもんさ」
――その言葉は、今も、千代の心に、深く残っている。
身支度を終えると、桶を手に、井戸端へ向かう。
既に、女性たちが、朝一番の水汲みに、集まり始めていた。
「おはよう」
「おはようさん。今日も、いい天気だね」
朝の挨拶を交わしながら、千代も、その輪に加わる。
冷たい水を汲み上げ、顔を洗うと、眠気も、すっかり吹き飛んだ。
朝餉の支度を終える頃、長屋の男たちが、それぞれの仕事へと、出かけていく。
「行ってくるよ」
「気をつけてね」
そんな、何気ないやり取りが、あちこちで交わされる。
その光景に、千代は、いつも、どこか懐かしさを覚えていた。
日が高くなると、町は、活気に満ちてくる。
「あさり〜、しじみ〜」
行商人たちの、威勢のいい売り声が、通りに響き渡る。
千代は、その日の献立に応じて、必要な分だけを、その都度買い求めることを、次第に、覚えていった。
冷蔵庫のない時代、その日暮らしの買い物には、確かな知恵が、詰まっていた。
昼前には、井戸端で、洗濯の手伝いをする。
洗濯板を使い、力を込めて布をこすり合わせる作業は、思いのほか、重労働だった。
それでも、周りの女性たちと交わす、他愛のない世間話――近所の噂、商いの相談、子育ての愚痴――が、その労苦を、和らげてくれる。
井戸端は、単なる作業の場ではなく、町の人々にとって、大切な、交流の場でもあった。
昼餉を挟み、午後は、仕立て仕事場での作業に、多くの時間を費やす。
針を動かしながら、周りの女性たちと交わす会話も、すっかり、日常の一部になっていた。
この日、注文の品を届けに来た商家の番頭が、おかみさんと、世間話をしているのが、耳に入ってきた。
「文化の頃は、もっと羽振りがよかったんですがねえ。近頃は、何かと締め付けが、厳しくて」
「本当にねえ。あの、贅沢を戒めるお触れも、文化の終わり頃から、ずっと続いてるし」
千代は、思わず、手を止めた。
「文化」という、元号らしき言葉。
それが、はっきりと、二人の会話の中に出てきたのは、これが初めてだった。
(文化......ということは)
千代は、頭の中で、これまで見聞きしてきた、様々な手がかりを、一気に繋ぎ合わせた。
今、耳にした「文化」という元号。
(文化から、文政にかけての頃、江戸の町人文化が、一番華やかだった時期。そのあとに、締め付けが厳しくなったっていう話も、本で読んだことがある。ということは、今は、そのあたり――もしかしたら、文政の末か、天保に差し掛かった頃、かもしれない)
これまで、大まかに「江戸のかなり早い時期ではなさそうだが、幕末の慌ただしさとも違う」としか、掴めずにいた時代感が、この瞬間、初めて、確かな輪郭を持った。
千代は、ずっと胸につかえていた、あの日からの問いが、ようやく、一つの答えに辿り着いた気がした。
「あの、今のお話、少し伺ってもいいですか」
千代が、思い切って、番頭に声をかけると、番頭は、快く、頷いた。
「なんだい、お嬢さん」
「文化の頃から、今まで、随分、変わったんでしょうか」
「そりゃあ、変わったとも。あの頃は、芝居も、絵草紙も、今よりずっと、羽振りがよかったからねえ」
番頭の話に、千代は、静かに耳を傾けながら、心の中で、深く頷いていた。
本の中でしか知らなかった、時代の移り変わりの実感が、今、目の前の会話を通して、確かな手触りを持って、千代の中に、根を下ろしていった。
「精が出るね」
道行く人々に、そう声をかけられることも、次第に増えていった。
この町での、確かな居場所ができつつあることを、千代は、そうした何気ない言葉から、感じ取っていた。
日が傾き始める頃、仕事を終えた千代は、おたきに誘われ、湯屋へと向かった。
「そろそろ、湯屋にでも、行こうか」
夕暮れ時、通りには、同じように湯屋を目指す人々の姿が、ちらほらと見える。
暖簾をくぐると、既に、賑やかな声が、店内に満ちていた。
「番台で、湯銭を払うんだよ」
脱衣所は、想像していたよりも、ずっと質素な造りだった。
プライバシーを守るような仕切りは、ほとんどなく、周りの女性たちも、特に気にする様子もなく、着物を脱いでいく。
(これが、江戸の、当たり前の感覚なんだ)
湯殿に足を踏み入れると、もうもうと立ち込める湯気に、視界が、一瞬、白く霞んだ。
天井は低く、薄暗い空間。湯船への入り口には、「石榴口」と呼ばれる、低い、屋根のような構造物があり、頭を下げなければ、くぐれない。
「湯が冷めねえように、湯気を、外に逃がさねえための工夫さ」
おたきの説明に、千代は、いつも、感心させられる。
文字だけでは、決して分からなかった、庶民の知恵の結晶が、そこには、確かに存在していた。
石榴口をくぐり、湯船に浸かると、ぬるめの湯が、一日の疲れを、じんわりと解きほぐしていく。
湯は、決して、清潔とは言えないほど、濁っていたが、それも含めて、この湯屋の、当たり前の姿だった。
「ここじゃ、色んな話が、飛び交うんだよ」
近所の噂話、商いの相談――湯屋は、単なる、体を清める場所ではなく、町の人々にとって、大切な、情報交換の場でもあった。
湯から上がったあとは、糠袋を使って、体を洗う。
米糠を布に包んだそれは、石鹸のない時代の、確かな知恵の産物だった。
湯屋から戻り、夕餉の支度を終えると、長屋の一日は、静かに、暮れていく。
行灯の明かりだけが頼りの、薄暗い夜。
現代の、煌々とした照明とは、まったく違う、穏やかな暗闇が、町全体を、優しく包み込んでいく。
布団に入ると、昼間の忙しさから解放された心に、決まって、ある想いが、静かに、忍び込んでくる。
(お母さん、心配してるだろうな...。さくら、大丈夫かな)
現代に残してきた家族や友人のことを思うと、千代の胸は、いつも、締めつけられた。
この日も、例外ではなかった。
千代は、声を殺して、静かに、涙を流した。
「千代」
隣で眠っていたはずの、おたきの声が、聞こえた。
「起きて、ましたか」
「気配で、分かるさ。眠れないのかい?」
おたきは、身を起こし、千代の隣に、そっと座った。
「訳ありの事情があるのは、分かってる。詳しくは聞かないけど、辛いときは、辛いって、言っていいんだよ」
その言葉に、千代の目から、堪えきれなかった涙が、再び、こぼれ落ちた。
「家族に、会いたいです。友達にも...」
「そうかい...」
おたきは、それ以上、深く問い詰めることなく、ただ、千代の背中を、優しく、さすってくれた。
「寂しいのは、当たり前のことさ。無理に、平気なふりをすることは、ないんだよ」
「おたきさんは、寂しいって思ったこと、ありますか?」
「そりゃ、あるさ。あたしも、色々あって、今、一人で暮らしてる身だ。寂しい夜は、数え切れないほど、経験してきたよ」
「そんなときは、どうしてるんですか?」
「特別なことは、何もしないよ。ただ、寂しいって気持ちを、認めてやる。それだけで、少しは、楽になるもんさ」
おたきの、シンプルな言葉に、千代は、深く、頷いた。
「今日は、もう少し、一緒に、寝ようかね」
おたきの提案に、千代は、素直に、頷いた。
隣で、おたきの、静かな寝息を感じながら、千代は、少しずつ、心が、落ち着いていくのを感じた。
(一人じゃ、ないんだ)
そう思うと、望郷の寂しさは、消えないまでも、少しだけ、軽くなった気がした。
朝の厠から始まり、水汲み、洗濯、仕事、湯屋、そして、夜の涙まで――この一日の中に、江戸の町人としての暮らしの、すべてが、詰まっていた。
不便さも、寂しさも、その裏にある、確かな知恵と、人の温かさとともに。
千代は、その一日一日を、大切に、積み重ねていった。




