第16話 お葉の実家
翌朝、千代は出かける前に、少し手を止めて何かを作ろうと思い立った。
「手ぶらで行くのは、なんだか気が引けて...」
「気持ちは分かるけどね、そう時間もないだろう」
おたきの言葉に、千代は頷きながらも、何を作るべきか、しばらく考え込んだ。
手紙を届けるだけの訪問ではない。
清次とお葉、二人の想いに関わる家を訪ねるのだ。
ただの手土産ではなく、何か意味のあるものにしたかった。
「匂い袋、作ってみようと思います」
「匂い袋かい?」
「はい。持っているだけで、少し心が和らぐような。お二人の力になれたら」
千代は手早く支度を始めた。
端切れの中から淡い水色の布を選び、小さな匂い袋を縫い上げていく。
中には、庭先で摘んだ乾燥ラベンダーの代わりに、おたきが分けてくれた干し菖蒲の葉を詰めた。
針を動かす手は、いつもより慎重だった。
「二つ、作ろうと思います。お葉さんの分と、清次さんの分と」
「二つとも、渡せるとは限らないだろうに...」
「それでも、作りたいんです。想いを込めた分だけ、何かが変わる気がして...」
おたきはその言葉に、少し驚いたような顔をしたあと、優しく目を細めた。
「お前さんらしいね...。そういう考え方」
千代は針を進めながら、清次の手紙の文面を思い出していた。
渡すことのできなかった簪。
同じように、この匂い袋も、届かないままかもしれない。
それでも、想いを形にすることそのものに、意味があると千代は信じたかった。
小一時間ほどかけて、二つの匂い袋が出来上がった。
片方には桜の刺繍を、もう片方には小さな筆の形をあしらった。
お葉の好きだった花と、清次の生業を、それぞれに込めたつもりだった。
「お葉さんのご両親に、どんな顔で会えばいいのか、分からないですけど...」
「顔なんて、気負わなくていいさ。お前さんの気持ちが伝われば、それで十分だよ」
おたきの言葉に背中を押されるようにして、千代は匂い袋を懐にしまい、木戸を出た。
約束の場所には、留吉が既に待っていた。
「できたのか、それ」
「はい。持っていくものが何もないと、落ち着かなくて...」
「らしいな、千代さんは」
留吉は小さく笑うと、二人は連れ立って、お葉の実家がある通りへと向かった。
仏具屋の老人から聞いた場所は、古びた小間物屋だった。
軒先の看板は色褪せ、店先に並ぶ品も、心なしか少なかった。
「ごめんください」
千代が声をかけると、奥から出てきたのは、腰の曲がった年配の女性だった。
目元に、お葉と似た面影がある。
「はい、どちら様で...」
「突然申し訳ありません。お葉さんのことで、少しお話を伺いたくて参りました」
その名を聞いた途端、女性の顔色が変わった。しばらく黙り込んだあと、ようやく口を開く。
「お葉の...知り合いかい」
「直接は存じ上げません。ただ、清次さんという方から預かった手紙があって...」
女性は大きく息を呑んだ。奥から、しわがれた男の声がした。
「誰だい、おっかさん」
「清次さんのことで来た人だよ」
その言葉に、店の奥から、これも腰の曲がった老爺が姿を現した。
お葉の父親らしい。二人は千代と留吉を、店の奥の座敷へと招き入れてくれた。
「あの子のことを、まだ気にかけてくれる人がいるとはね...」
父親はそう言うと、深いため息をついた。
千代は懐から手紙を取り出し、丁寧に差し出した。
「これを、お葉さんに届けたいと思っています。ただ、嫁ぎ先が分からなくて」
両親は手紙を受け取ると、しばらく無言のまま、その文面に目を落としていた。
母親の目に、みるみる涙が浮かんでくる。
「清次さんは......本当に、律儀な人だったんだねえ」
しばらくの間、母親は手紙を胸に抱いたまま、言葉を発せなかった。父親がそっとその肩に手を置く。
「...あの、縁談のこと、詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」
千代が尋ねると、父親は重い口を開いた。
「...あれはね、うちの店が、火事で大きな損を出した後のことだったんだよ...」
「火事、ですか...」
「ああ。隣の乾物屋から火が出てね。うちも半分近く焼けちまった...。品物も、蓄えも、ほとんど灰になっちまった...。借金だけが残ってね...。そんな時に、遠縁を通じて、上方の大店から縁談が来たんだ」
母親が続きを引き取った。
「お葉は、最初は嫌がってたよ...。清次さんのことが、好きだったから...。何度も、断ってくれと、あたしらに頭を下げてきた...」
「......それでも、受け入れたんですね」
「....ああ。ある晩、お葉が急に、『縁談を受けます』と言い出してね。あたしらが理由を聞いても、はっきりとは答えなかった...。ただ、店の帳簿を、こっそり覗き見たあとだったのは、覚えてる」
千代の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
清次だけでなく、お葉自身もまた、大切な人のために、自分の想いを飲み込んでいたのだ。
誰にも打ち明けず、たった一人で決断を下したのだろう。
「お葉さんは、清次さんに、そのことを話したんでしょうか?」
「いいや」父親が首を振った。「あの子は、清次さんに心配をかけたくないと言って、何も話さずに嫁いでいった。ただ、店を出る前の晩、簞笥の前で、随分と長い間、泣いていたのを覚えているよ...」
「泣いているところを、見たんですか」
「....ああ。声をかけようとしたが、あんまり辛そうな背中をしていたから、結局、何も言えなかった...。あれが、あたしの一番の悔いだ。あの時、一言でも、声をかけてやればよかったってね...」
座敷に、重い沈黙が落ちた。留吉が静かに口を開く。
「二人とも、互いのために、自分の気持ちを隠してたんですね....」
「そういう、ことだろうね...」
母親がそう言って、目元を拭った。
千代は懐から、先ほど縫った匂い袋を取り出し、そっと座敷の畳に置いた。
「これ、ささやかなものですが、お二人にお納めいただければと思って......」
「これは.....」
「お葉さんの分と、清次さんの分と、二つ作りました。もし、いつかお葉さんに会えることがあったら、渡していただけたら嬉しいです」
母親は匂い袋を手に取り、優しく撫でた。
「ありがとうねぇ...、こんな見ず知らずのあたしらのために...」
「いえ、私も、清次さんの想いを、少しでも届けたくて...,」
父親が、しばらく考え込んでから、口を開いた。
「お葉の嫁ぎ先は、上方の紙問屋だ。屋号は『近江屋』。詳しい住まいまでは分からないが、その屋号を頼りに探せば、辿り着けるかもしれない...」
紙問屋とは、各地から紙を仕入れて江戸の町へ送り、商人や職人たちに売る紙の専門商である。
「近江屋......」
千代はその名を、胸に刻み込んだ。手がかりが、少しずつ形になっていく。
「ただ」と父親が続けた。
「もし訪ねるなら、慎重にしておくれ。お葉は今、立派に嫁として、あちらの家に馴染んでいるはずだ。過去のことを持ち出して、あの子の今の暮らしを乱すようなことは、してほしくない...」
その言葉に、千代は深く頷いた。
「分かりました。お葉さんの今の幸せを、一番に考えます」
両親は、ほっとしたように表情を緩めた。
「あんたたちなら、きっと大丈夫だろうね」
千代と留吉は、両親に礼を言って、小間物屋を後にした。
夕暮れの道を歩きながら、千代は懐の手紙と、渡せなかったもう一つの匂い袋を、そっと確かめた。
「上方の近江屋.....遠いですね」
「ああ。すぐには行けねえ距離だ。だが、手がかりが見つかっただけでも、大きな一歩だ」
留吉の言葉に、千代は頷いた。
清次とお葉、それぞれが互いを想って選んだ道。
その先に、どんな結末が待っているのか、まだ分からない。
それでも、二人の想いが、確かに誰かに届こうとしている。
「お葉さんのお母さん、最後まで匂い袋を大事そうに抱えてましたね」
「ああ。あの様子じゃ、清次さんの分は、大事に仏壇にでも供えるつもりかもしれねえな」
「仏壇.....清次さんは、もしかして.....」
「いや、そういう意味じゃねえよ。ただ、想いの行き場として、大事にしてくれるだろうってことだ」
留吉の言葉に、千代はほっと胸を撫で下ろした。届かなかった想いにも、それを大切に抱きしめてくれる誰かがいる。それだけで、少し救われる気がした。
しばらく無言で歩いたあと、留吉がぽつりと言った。
「千代さんが、匂い袋を作っていったの、正解だったな。ああいう場では、言葉より、形にしたものの方が、伝わることもある」
「...そう言ってもらえると、嬉しいです」
「お前さんの、そういうところ、俺は好きだぜ」
さらりと言われたその一言に、千代の頬が熱くなった。留吉は特に気にする様子もなく、夕暮れの空を見上げている。
「近江屋まで、いつか一緒に行きましょう」
千代がそう言うと、留吉は驚いたように千代を見た。
「一緒に、か」
「はい。留吉さんとなら、心強いので」
「そうか......ああ、必ず行こう」
留吉の声には、確かな決意が滲んでいた。
長屋への道を歩きながら、千代は懐の手紙にそっと触れた。
清次とお葉の物語に、優しい結末が訪れることを、心から願いながら。
その夜、布団に入ってからも、千代はお葉の両親の言葉を、何度も思い返していた。
誰かのために、自分の想いを飲み込むという選択。
それは切ないけれど、決して弱さではない。
むしろ、大切な人を守ろうとする、確かな強さなのだと、千代は思った。
(想いは、形を変えても、ちゃんと誰かに届く)
そう信じて、千代は静かに眠りについた。




